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第2章:毒を食らう賢者-其の一

其の一:主君の器と分析官の眼


帝都モン・セラの北嶺に位置する、第2王子ジョルディの別邸。そこは「白亜の隠れ家」と称される通り、表向きは静養のための別荘であるが、その実態はジョルディが私的に組織した諜報網と頭脳が集う、いわば第2王子の為の「裏の政庁」であった。


深夜、執務室には重苦しい沈黙が流れていた。


暖炉で爆ぜる薪の音だけが、張り詰めた空気を辛うじて繋ぎ止めている。


「……殿下。私は、自身の理性を疑わざるを得ません」


沈黙を破ったのは、ジョルディの筆頭分析官であり、帝立アカデミーを首席で卒業した才子、セバスティアンであった。彼は几帳面に整えられた書類を指先で叩き、眼鏡の奥にある冷徹な瞳を、ソファに深く腰掛ける「男」へと向けた。


その男――フェランと名乗るブライは、顔の半分を白い布で覆い、フード付きのマントは目元にも影を落とす。影の中に溶け込むように座っていた。手元には茶器をゆるく待ち、ただ目を閉じて静かに呼吸を繰り返している。


「オムニセインシアが認めた『十大英知プエスト』の第1位。その権威は認めましょう。ですが、この男は素性も、過去の経歴も、その素顔さえも明かしていない。殿下、貴方はこの『幽霊』に、帝国の運命を預けようというのですか? これはもはや軍師の招聘ではなく、国家に対する背信行為に近い」


セバスティアンの声は、論理的でありながら、隠しきれない嫌悪感に満ちていた。彼にとって知性とは、積み上げられた実績と公的な証明に基づいたものであるべきだった。対して、目の前のブライは、存在そのものが「不確かな霧」に包まれている。


ジョルディは、セバスティアンの激昂をどこか愉しむように眺めていた。彼は窓辺に立ち、夜の帝都を見下ろしながら、静かに、しかし断固とした口調で答えた。


「セバスティアン。お前の分析は確かに正しい。だが、正しいだけではこの帝国という化物を御すことはできん。私は、地下水道でこいつの『眼』を見た。兄オリオルの近衛兵が数歩先まで迫り、死の気配が立ち込める闇の中で、こいつはただの一度も呼吸を乱さなかった。……お前なら、あの極限状態で『ガスの引火点』を計算し、爆破を指示できたか?」


「それは……特異な状況下での狂気です。統治とは、狂気ではなく安定の上に成り立つものです」


「違うな」


ジョルディは振り返り、ブライを指し示した。


「今のカストラルカに必要なのは、安定という名の緩やかな腐敗ではない。既存の盤面を根底からひっくり返す、圧倒的な『外部の力』だ。セバスティアン、その方がどれほど優秀でも、『帝国の文法』でしか思考できん。だが、この男は違う。こいつは、帝国そのものを外部から観察し、その解体図を描いている」


その時、影の中からブライがゆっくりと口を開いた。


掠れた、砂を噛むような声。喉を熱鉄で焼かれた者にしか出せない、不自然な低音が響く。


「……セバスティアン殿。貴公の疑念は、情報の整合性を求める者として極めて健全だ。……だが、私の正体を暴いたところで、貴公の望む『主君の勝利』は一歩も近づかない」


ブライは卓上のペンを手に取り、白紙の紙に一つの図を描いた。丸を書き込み、線を引いてケーキカットをするかのような図だ。


「貴公は、国庫庁の帳簿を完璧に管理しているつもりだろう。だが、第二書記の私邸の床下、そこに隠された二重帳簿の存在に気づいているか? 彼は皇太子派の資金源として、過去三年にわたり、北方の鉄鉱山からの上がりを三割ずつ横領している」


セバスティアンの顔色が、一瞬で変わった。


「馬鹿な……。第二書記は、私の教え子だ。彼ほど実直な男はいない」


「実直な男ほど、家族を人質に取られれば脆いものだ。……殿下。これが私の最初の献策です。明日、この第二書記を『自首』させます。彼が公の場で汚職を認めれば、皇太子派の資金源の一つが断たれるだけでなく、オリオル殿下の『管理能力』に重大な疑念が投げかけられる。……セバスティアン殿。貴公が私の正体を調べる間に、私は貴公の教え子を一人、地獄へ送ることになるが……構わないな?」


ブライの瞳が、布の隙間から冷たく光った。


その知性は、慈悲を欠いた精密機械のようであり、同時に、世界に対する深い呪いを孕んでいるようでもあった。


セバスティアンは、喉を鳴らして沈黙した。


目の前の男が、単なる賢者ではなく、人の心の闇を餌にする怪物であることを悟ったからだ。


「……殿下。私は……この男を監視し続けます。もし、殿下に害をなす兆候があれば、その瞬間に私の手で排除いたします」


「ああ、好きにしろ。監視されることも、こいつにとっては盤面の一部に過ぎんだろうからな」


ジョルディは満足げに笑い、ブライに向けて杯を掲げた。


「ようこそ、覇道の入り口へ。ブライ。貴公が望む『清算』がどのようなものか、この私に最前列で見せてみろ」


ブライは応えず、手にしていた茶器を口元に持っていく。


彼の耳には15年前の炎の爆ぜる音の残響が、今も止むことなく響いていた。

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