第1章:オムニセインシアの託宣-其の五
其の五:叡智の契約
貧民窟の悪臭と闇を抜け、ジョルディの秘密の別邸――帝都の喧騒から隔絶された「白亜の隠れ家」に辿り着いた時、東の空は白み始めていた。 泥に汚れ、高貴な身分を隠すようにマントを羽織ったジョルディは、出迎えた家令たちを退けると、真っ先にブライを最奥の寝室へと運ばせた。
ブライは椅子に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。その横で、影のように付き従っていた一人の女が、音もなく動く。 彼女はリタ。ブライが率いる傭兵組織「義仲団」が、彼の体調管理と毒の抑制のために潜伏先へ送り込んだ、組織お抱えの調剤師である。彼女は道中、一度も声を上げず、ただブライの命を繋ぐための薬を管理する「生ける道具」のように振舞っていた。
「……ブライ様、お飲みください」
リタが小さな銀の小瓶を差し出す。ジョルディは、その手慣れた動作と、彼女が放つ薬草の鋭い香り、そして何よりブライという男の「虚弱さ」を注視していた。
「……驚かれましたか、殿下。叡智の頂点が、これほどまでに脆い器に入っているとは」
薬を飲み、ようやく呼吸を整えたブライが、布の下で微かに口角を上げた。
「驚きはしない。……だが、貴公がなぜ『武力』ではなく『知力』という最も研ぎ澄まされた刃を磨き続けたのか、その理由の一端を見た気がする。その器の脆さを補って余りある毒が、貴公の中には詰まっているようだ」
ジョルディは椅子に深く腰掛け、鋭い視線でブライを射抜いた。
「左様です。……さて、殿下。近衛の目を掻い潜り、私は貴公の懐に入った。ここからは『契約』の時間だ」
ブライはリタに支えられて身体を起こした。リタはブライを慈しむように見守っているが、彼女の瞳には「主君」への忠誠以外の色は混ざっていない。彼女でさえ、この賢者がかつてこの宮廷で誰と呼ばれていたのか、その真実までは知らないのだ。
「契約だと? 私はすでにオムニセインシアに金を支払った。貴公を手に入れるためにな」
「あれは情報の対価であり、私の忠誠の値段ではありません。……殿下、私が貴公に求めるのは三つ」
ブライはリタに椅子を引かせ、ジョルディと対峙した。その瞳には、先ほどまでの衰弱を感じさせない、冷徹な計算の光が宿っている。
「殿下。私が貴公に求めるのは、三つだけです」
ブライは、細い指を三本、立てた。
1つ。 「情報の全権」帝国内のあらゆる諜報網、および予算の管理を私に委ねること。
2つ。 「不干渉の誓い」私の策がどれほど冷酷、あるいは不可解に見えようとも、結果が出るまで異議を唱えないこと。
3つ。 「記録の清算権」貴公が皇帝となった暁には、帝国秘匿図書館の全権を私に与え、『過去の不適切な記録』を整理・抹消する権利を認めること。
ジョルディは、三つ目の条件を聞いて眉を寄せた。
「……記録の抹消? なぜそんなものを欲しがる。過去を書き換えたところで、現実は変わらんぞ」
ブライは掠れた声で、静かに笑った。
「殿下、玉座とは『正統性』という名の積み木の上に成り立っています。……もし、貴公が即位した後に、先代や貴公自身の支持基盤を揺るがすような『不都合な事実』が掘り起こされたらどうしますか? 私はそれを防ぎたいのです。偽りの栄光を真実に変え、貴公の治世を永遠のものとする。そのために、宮廷が秘めている『泥』を掃除する権限が欲しい」
「……なるほど。王の弱点となり得る過去を、今のうちに埋めておきたいということか。いかにも参謀らしい考えだ」
ジョルディは納得したように頷いた。 ブライの真の狙いは、その「泥」の中に埋もれている、15年前の裏切りの証拠を掴むことにある。だが、彼はそれを「ジョルディの将来のリスク管理」という完璧な装飾品で包み隠した。
「いいだろう。その契約、私が引き受けよう。ブライ、貴公を私の筆頭参謀に任命する。……貴公の知恵で、この国から『泥』を排除し、私を唯一無二の皇帝へと押し上げろ」
ジョルディは、自らの指に嵌めていた印章指輪を外し、ブライの前の机に置いた。 契約は成った。復讐者が、帝国の深奥へと潜り込むための合鍵を手に入れた瞬間だった。
一方、同じ頃。 静謐宮の奥深くで、第3王子マルクはエドワードと共に、一つの結論に辿り着いていた。
「……エドワード。この指輪の裏に刻まれた座標、そして『マリソル』という母の名。……15年前のあの時、垂緑軍が孤立したのは、敵の奇襲によるものではなかった」
マルクの震える指が、羊皮紙の上に描かれた進軍図を指した。
「援軍は、最初から送られていなかったんだ。……命令系統が、宮廷のどこかで、意図的に『消去』されていた。……母上は、それを知ってしまったから、死ななければならなかったのか」
マルクの眼差しから、穏やかな輝きが消えた。 実直で義理堅い第3王子。誰よりも争いを嫌っていた彼の中に、初めて「怒り」という名の火が灯る。
「……アシュレイ。私はもう、君のいた過去ばかりを見ているわけにはいかない。君を、そして母を殺したこの国の闇を、私は暴かなければならないんだ」
帝都モン・セラ。 黄金の都の地下では、ブライが放った「義仲団」の蜘蛛たちが、情報の網を張り巡らせ始めていた。 皇太子オリオルは、逃した獲物への怒りで宮殿を荒らし、 ジョルディは、手に入れた怪物の知恵に、期待と恐怖を抱き、 そしてマルクは、喪失の悲しみを、鋭い刃へと研ぎ澄ませていた。
オムニセインシアが示した「叡智」の託宣。 それは、帝国の繁栄に終止符を打ち、血塗られた真実を白日の下に晒すための、宣戦布告に他ならなかった。




