第1章:オムニセインシアの託宣-其の四
其の四:地下の蜘蛛と白銀の猟犬
「……開けろ! 皇太子殿下の命である! 逆らう者は反逆罪と見なす!」
ルイス邸の頑強な正門が、近衛騎士団の振るう破城槌の衝撃で悲鳴を上げた。帝都モン・セラにおいて、これほどまでの暴挙が許されるのは皇帝の血を引く者のみである。
「ひ、ひぃぃ……! 終わりだ、もう終わりです……!」
主人のルイスは、自らの髪をかきむしり、広間の床にへたり込んだ。彼は恩人である「フェラン」を匿うことで未来を夢見たが、現実は無慈悲だった。門を叩く音は、彼の凡庸な人生に幕を下ろす弔鐘のように聞こえた。
部屋の奥、椅子に深く腰掛けたブライは、ルイスの醜態を憐れむことさえしなかった。彼は布の下で静かに呼吸を整え、隣に立つジョルディへと視線を向けた。
「殿下。貴方の『覚悟』、さっそく試される時が来たようですな」
「……フン、騒々しい兄上だ。セバスティアン、状況は?」
ジョルディが問うと、影のように控えていた分析官が窓の隙間から外を覗き、冷静に報告した。
「正面に近衛の精鋭が二十。裏門にも十。さらに邸宅の周囲を三十の歩兵が包囲しています。指揮を執っているのは、副団長ベニート・バルド。……手強い相手です。彼は形式よりも実利を取る男だ。邸内を虱潰しに探るのに、一刻(約二時間)もかからないでしょう」
「……一刻か。ブライ、貴公の言う『地下水道』はどこにある」
ジョルディの問いに、ブライは立ち上がることなく、手元の杖で床の絨毯を指し示した。
「この部屋の暖炉の奥、隠しレバーがあります。……ルイス殿、この屋敷の元々の主は、不倫相手を逃がすためにこれを作った。貴殿も知らなかったでしょう?」
「え……? 隠し、通路……?」
ルイスが呆然と暖炉を見つめる。ブライは続けた。
「地下水道は、帝都の静脈です。汚濁に満ちていますが、同時に権力者たちの目が届かぬ唯一の空白地帯でもある。……殿下、貴公のその高貴な衣が汚れるのを厭わないのであれば、道は開けます」
「……汚泥など、後で洗えば済むことだ。セバスティアン、行け」
セバスティアンが暖炉の奥を操作すると、石壁が微かな音を立ててスライドし、湿った土と腐敗の臭いが混ざり合った闇の口が開いた。
一方、正門を突破したベニート・バルドは、抜剣することなく、白銀の籠手で部下たちを制していた。
「……乱暴はよせ。ここは帝国の高官の私邸だ。目的は『ブライ』なる男の確保のみ。無用な破壊は騎士の恥辱と思え」
ベニートの声は低く、重い。彼は皇太子オリオルの狂気じみた命令に従いつつも、自らの中にある「正義」の端切れを必死に守ろうとしていた。
「ベニート副団長! 居間に人影があります!」
部下の報告と共に、ベニートは邸内の広間へと足を踏み入れた。そこには、腰を抜かしたルイスが一人、震えながら座り込んでいた。
「ルイス殿。……ご不快をかけて申し訳ない。不審な客を匿っているという通報があった。その者の身柄を預かりたい」
「あ、あ、ああ……ベ、ベニート様……。私は、私はただ、旅人を……」
ルイスの視線が、不自然に暖炉の方へと泳いだ。 戦場という情報の宝庫で生きてきたベニートにとって、その視線の揺れは、地図に記された大通りのように明白な道標だった。
ベニートは暖炉に近づき、床に残された僅かな「擦り跡」を見逃さなかった。
暖炉を手探るとレバーを探し当てる。
難なく地下通路への道が開かれる。
「……地下か。賢者という割には、選ぶ道が古臭いな」
ベニートは背後の兵士たちを振り返った。
「五人はここでルイス殿を監視せよ。残りは私と共に地下へ。……それと、邸外の包囲網に伝えろ。地下水道の出口、特に『薔薇の聖堂』付近のマンホールを全て封鎖しろと」
「ハッ!」
ベニートは自ら松明を手に取り、闇の奥へと足を踏み入れた。彼には確信があった。ブライという男がどれほどの知恵者であろうとも、物理的な逃走には限界がある。武力を捨て、知略に生きる者にとって、地下水道という閉鎖空間は墓場に等しいはずだ。
だが。
「……殿下、足元にご用心を。ここは滑りやすい」
地下の闇、ブライの掠れた声が冷たく響く。 ジョルディは顔を顰め、絹の裾が汚水に浸かるのを無視して進んでいた。セバスティアンが先頭で松明を掲げ、背後ではブライがリタ(彼女は義仲団の影として合流していた)に支えられながら、苦しげな呼吸を繰り返している。
「ブライ。ベニートは愚かではない。既に地下の出口は封鎖されているだろう。このまま進んで、袋の鼠になるつもりか?」
ジョルディの問いに、ブライは暗闇の中で薄く笑った。
「……殿下。情報は常に『裏』を読まねばなりません。ベニート殿が封鎖するのは、地図に載っている『出口』だ。……だが、帝都の地下には、建国当時に作られ、今は忘れ去られた『換気孔』が幾つも存在する」
ブライは壁に刻まれた古い石組みを指先でなぞった。
「それらは現在、貧民窟の地下と繋がっている。……貴公が忌み嫌う、泥と汗にまみれた者たちの場所だ。そこなら、白銀の鎧を着た騎士たちは入ってこれない。……目立ちすぎるからです」
「……私に、貧民窟へ隠れろと言うのか」
「生き延びたいのであれば、ですが。……それとも殿下。今ここで兄君の騎士に跪き、一生、影として生きますか?」
ジョルディは奥歯を噛み締めた。この男は、常に自分を試している。 自分のプライドが、命や権力よりも重いのかどうかを。
「……行け。案内しろ、ブライ。貴公が私の『叡智』であることを、その道で証明してみせろ」
地下水道の分岐点。 ベニートは立ち止まり、湿った壁に耳を当てた。
「……足音が、三、いや四人分。不自然に反響しているな。囮を散らしたか」
ベニートの勘は鋭かった。だが、その勘こそがブライの計算に含まれていた。 前方の闇から、カラン、という金属音が響く。
「いたぞ! 追え!」
兵士たちが音の方へ駆け出す。だが、ベニートは動かなかった。 (……妙だ。これほど鮮やかに逃げる者が、なぜ音を立てる?)
彼は松明を高く掲げ、天井を仰ぎ見た。 そこには、小さな蜘蛛の巣が張っていた。しかし、その巣は不自然に揺れている。風が、下からではなく「上」から吹いているのだ。
「……そちらか」
ベニートが直感した瞬間、背後で爆発音が響いた。 地下水道に蓄積された可燃性のガス――メタン。それに、兵士たちが落とした松明の火が引火したのだ。
「くっ……! 全員、伏せろ!」
炎が吹き荒れ、地下水道を白熱の熱気が包み込む。 ベニートは身を挺して部下を庇ったが、その爆発による土砂崩れで、追跡路は完全に遮断された。
炎の壁の向こう側で、ブライは掠れた声で呟いた。
「……ベニート副団長。貴殿の実直さは、時に命取りになる。……光を求める者は、闇の深さを測り損ねる」
ブライの手には、かれの側近がかねてより用意した特殊な火薬の筒が握られていた。 爆発は偶然ではない。ベニートの騎士道的な「追跡」のタイミングを計算し、最も効果的な場所で罠を起動させたのだ。
数刻後。 帝都の最南端、悪臭と喧騒が渦巻く貧民窟の路地裏。 一つの古いマンホールが音もなく開き、そこから泥まみれの三つの影が這い出した。
ジョルディは、汚れ果てた自らの手を眺め、それから闇に紛れる貧民たちの姿を見た。 豪華な宮廷では決して見ることのない、生の執着と絶望が入り混じった光景。
「……ここが、貴公の言う『盤面の再建』の材料か、ブライ」
「いいえ、殿下。ここはただの『道具箱』に過ぎません。……これからの帝国を動かすのは、黄金ではなく、この泥の中に住む者たちが握る『情報』と『恨み』です」
ブライは激しく咳き込み、崩れるように膝をついた。リタが慌てて駆け寄る。 ブライの顔を覆う布は汚れ、その隙間から、月光に照らされた「陶器のような肌」が、異様な白さを放っていた。
ジョルディはその姿を見下ろし、確信した。 この男は、自分を皇帝にするための道具などではない。 自分という存在を燃料にして、この帝国そのものを焼き尽くそうとしている炎なのだ、と。
「……面白い。その炎、私が使いこなして見せよう」
ジョルディは汚れたマントを脱ぎ捨て、闇の中へと一歩を踏み出した。 彼らの背後、帝都の中心部では、なおも無意味な捜索を続ける近衛騎士団の松明が、虚しく揺れていた。
その頃。 静謐宮の自室で、マルクは母の形見の指輪を手に、呼び寄せたエドワードの話を聞いていた。
「……殿下。5年前、国境紛争で全滅した『垂緑軍』。彼らが全滅したのは、敵の奇襲によるものではありませんでした。……内部からの、意図的な『見捨て』があったのです。マリソル様は、その証拠を掴んだがゆえに……」
エドワードの言葉に、マルクの瞳に静かな火が灯った。
「……誰だ。誰が、母上とアレイシュを嵌めた」
カストラルカ帝国の闇が、ついにその実態を晒し始めようとしていた。




