第1章:オムニセインシアの託宣-其の三
其の三:静かなる接敵
帝都モン・セラの午後は、静寂という名の緊張に支配されていた。 皇太子オリオルが近衛騎士団を動かし、街中で荒々しい「猟犬」を放っている一方で、第2皇子ジョルディは真逆の路を辿っていた。彼は情報を力で引き剥がすのではなく、情報の「淀み」を読み解くことで、真実へと近づこうとしていたのである。
「……殿下。見つけました。情報の糸が、一点に収束しています」
ジョルディの傍らで、分析官セバスティアンが眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。 彼の前には、帝都の地図と、ここ数週間の官吏たちの奇妙な動向を記した記録が広げられている。
「オリオル兄上は、ブライが『傭兵団の頭目』であることを根拠に、武人が潜みそうな宿場や酒場を片っ端から潰している。……だが、オムニセインシアのプエスト1位が、それほど安直な場所に身を置くとは思えん。セバスティアン、貴公は何を見た」
「『救済の足跡』です、殿下」
セバスティアンは、地図上の一点を指差した。
「数週間前、横領の嫌疑で破滅しかけていたルイスという文官が、一夜にして無罪を証明されました。その裏で、彼を救った謎の助言者の存在が囁かれています。その者は現在、ルイスの邸宅に『フェラン』という偽名で居候している。……ルイスほどの小物に、これほど鮮やかな逆転劇を仕組めるはずがありません。彼を救った『知恵』こそが、我々が探している男です」
ジョルディは薄く、冷たい笑みを浮かべた。 「……なるほど。最も目立たぬ場所に、恩義という名の鎖で繋がれた盾を用意したか。面白い。馬車を出せ。兵は要らぬ。知恵を求める者に、軍靴の音は不要だ」
帝国の中堅文官、ルイスの邸宅。 その門前に、飾りのない、しかし一目で高貴な者が乗っていると分かる黒塗りの馬車が止まった。
「お、お、お越しをお待ちしておりました、ジョルディ殿下……!」
玄関先で膝をつくルイスは、文字通り全身から滝のような汗を流していた。 彼はただの文官だ。横領の罪から救われた時は「幸運の女神が微笑んだ」と思ったが、今、自分の屋敷にいる「フェラン」という男を巡って、帝国の二人の龍が牙を剥き合っている。小市民である彼にとって、恩義の代償はあまりにも重すぎた。
「……ルイス。貴公の忠誠心に感謝する。不審な客を匿っているという噂を聞き、見舞いに来た」
ジョルディの声は穏やかだったが、その瞳はルイスの喉元を射抜くような鋭さを持っていた。 ジョルディは震えるルイスを無視し、セバスティアンを引き連れて邸宅の奥へと踏み込んだ。
屋敷の最奥。午後の柔らかな光が差し込む一室で、男は座っていた。 「フェラン」こと、ブライである。 彼は顔の半分を白い布で覆い、手元には一冊の古い歴史書を広げている。その姿には、傭兵団の荒々しさは微塵もなく、むしろ世捨て人のような静謐さが漂っていた。
「……殿下、わざわざのご訪問、恐縮に存じます」
掠れた声。喉を焼かれたような不自然な響き。 ジョルディはその声を聞いた瞬間、背筋に冷たい何かが走るのを感じた。
「……貴公がフェランか」 「左様です。ただの病がちな旅人でございます」 「病人が、一国の文官を破滅から救い、オムニセインシアの頂点に名を連ねるものか。……ブライ。貴公を迎えに来た」
ブライは、ゆっくりと本を閉じた。 ルイスは部屋の隅で、二人の会話の内容が全く理解できず、ただただ恐ろしさに身を震わせている。
「殿下。私は商品ではありません。……そして、貴方が今日ここへ持参されたものは、私の対価としては不足しております」
「何だと?」 ジョルディの眉がぴくりと動く。背後でセバスティアンが警戒を強めた。
「貴方は『礼節』を持ってここへ来られた。それは、兄君である皇太子殿下よりは賢明な判断です。……ですが、貴方が求めているのは、私という『知恵』を使って兄を排し、玉座に就くことだ。……違いますか?」
「……それが野心ある皇子の通るべき道だ」
「いいえ。それは単なる『私欲』です」 ブライの瞳が、布の隙間から冷たく光った。
「私が仕えるのは、玉座を欲する者ではない。……この腐り果てた帝国という盤面を、根底から塗り替える覚悟を持つ者だけだ」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。 ジョルディは言葉を失った。これまでに多くの軍師や策士と対峙してきたが、目の前の男が放つ「重圧」はそれらとは異質だった。武力による威圧ではない。自分の魂の底を見透かされ、裁かれているような感覚。
「……塗り替える、だと? 私に父上を、この帝国の歴史を否定しろと言うのか」
「否定ではなく、再建です。……殿下、貴方は今、兄君に勝つことばかりを考えている。だが、勝った後に何をする? 貴方が皇帝になれば、カストラルカは今より少しだけマシな地獄になるだけだ。……私は、そんな退屈な仕事に興味はない」
ブライは椅子から立ち上がろうとしたが、激しく咳き込み、胸を押さえた。 「フェ、フェラン殿……!」 ルイスが慌てて駆け寄ろうとするが、ブライはそれを手で制した。
「……ご覧の通り、私は長くは生きられぬ身。……だからこそ、無駄な時間は使いたくない」
ジョルディは、咳き込むブライの背中に、ある種の本物を感じていた。 この男は、命を削って思考している。その知性は、死という出口を常に見つめているからこそ、これほどまでに鋭利なのだ。
「……面白い。貴公が私の『覚悟』を試すというのなら、受けて立とう」
ジョルディは一歩、ブライに近づいた。
「今、この瞬間、兄オリオルの近衛騎士団がこの街を封鎖している。間もなく、この屋敷にもその手が及ぶだろう。……ブライ。私の陣営に来い。貴公が望む『盤面の再建』とやらがどれほどのものか、特等席で見せてやろう。……まずは、この窮地を貴公の知恵で脱してみせろ。それが私への最初の献策だ」
ブライは、布越しに薄く笑った。 「……承知いたしました。……ジョルディ殿下。貴方の『投資』、確かに受け取りましょう」
ブライの瞳が、傍らにいたセバスティアンに向けられた。 「セバスティアン殿。貴方の分析は正確でしたが、一つだけ見落としがある。……私がここを選んだのは、ルイス殿に恩があったからではない。……ここが、帝都モン・セラの『地下水道』の主要幹線の上に位置しているからですよ」
セバスティアンが目を見開いた。
その直後である。 屋敷の門を、荒々しく叩く音が響いた。 「皇太子殿下の命により検分を行う! 開けろ!」
近衛騎士団の到着。オリオルの猟犬たちが、ついに獲物の尻尾を掴んだのだ。 逃げ場のない邸宅。だが、ブライの表情にはいささかの動揺もなかった。
「ルイス殿。……少しばかり、地下が騒がしくなります。お許しを」
ブライの掠れた声が合図となり、物語は物理的な追走劇から、高度な攪乱戦へと突入していく。




