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第1章:オムニセインシアの託宣-其の二

其の二:皇太子の咆哮と、近衛の影


帝都モン・セラの朝は、富の象徴である黄金の屋根が放つ光によって幕を開ける。だが、その眩い陽光すら届かぬ皇太子宮の奥深くでは、帝国のもう一つの太陽――皇太子オリオル・ガランが、腹の底から煮え立つような殺気を放っていた。


「……ブライ。ブライだと。聞いたこともない名だ」


オリオルは、目の前の重厚な黒檀の机に置かれた絹布を、忌々しげに睨みつけていた。 そこには、ジョルディが手に入れたものと同じ「オロ」の情報が記されている。彼がこの情報を手に入れるために支払った代価は、帝国西部の要衝である「鉄の関所」における三十年間の通行税免除権であった。軍事的な急所を一部手放してまで手に入れた『叡智』の正体が、どこの馬の骨とも知れぬ男の名であるという事実に、オリオルの傲慢な自尊心は激しく逆なでされていた。


「殿下、お鎮まりください。オムニセインシアが『金』の格付けを下した以上、その価値は大陸のどの宝石よりも重いものです」


背後に控えるのは、第2妃シャハナーズから遣わされた女官長カサンドラである。彼女の声は凪いだ海のように静かだが、その瞳には、荒ぶる皇太子を冷徹に観察する蛇のような光が宿っていた。


「ふん。ジョルディも同じ名を手にしたのだろう? あの陰険な弟が、既に猟犬を放っていると思うと虫酸が走るわ。カサンドラ、我が母上……第2妃様には伝えたか?」


「既に。お妃様は『知恵などという不確かなものに頼る必要はない。だが、その男が他者の手に渡るならば、その前に知恵ごと首を跳ねてしまえ』と仰せです」


「……ククッ、母上らしい」


オリオルは下卑た笑みを浮かべ、傍らに立てかけられた重厚な大剣の柄を、革手袋の音を鳴らして叩いた。 彼にとって「叡智」とは、自らの強大な武力を誇示するための装飾品に過ぎない。自分に従えば宝を与え、従わぬならばその知恵ごと粉砕する。それが彼が学んできた唯一の王道であった。


「ベニートを呼べ! 近衛を動かす!」


数分後、執務室の重い扉が開き、一人の騎士が姿を現した。 カストラルカ帝国近衛騎士団副団長、ベニート・バルド。 その身に纏う白銀の甲冑には、数々の戦場を潜り抜けてきた男特有の、鈍い輝きと無数の微細な傷跡が刻まれている。彼はかつて第3王子マルクの剣術指南役も務めた実力者であり、帝国騎士道という古臭い、だが強固な規律を背負う男だった。


「殿下、お呼びでしょうか」


ベニートは深く膝をついた。その顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。皇太子の気まぐれな暴力、そして後宮の暗闘に振り回される日々が、彼の誇りを少しずつ、だが確実に磨り潰していた。


「ベニート、貴公に密命を与える。帝都モン・セラを封鎖せよ。名目は『不審な密偵の追跡』で構わん」


オリオルは机を指先で叩きながら、ベニートを射抜くように睨みつけた。


「この都に『ブライ』という名の男が潜伏している。オムニセインシアが一位に選んだ軍師だ。その男を見つけ出し、私の前に引きずり出せ」


「……引きずり出す、とおっしゃいましたか?」 ベニートが怪訝そうに眉をひそめた。 「参謀として礼を尽くして招くのではなく、捕縛せよと?」


「そうだ! 奴は野良犬だ。まずは鎖に繋ぎ、誰が主人であるかを骨の髄まで分からせてやる必要がある。拒むようなら、足の骨の一本も折って構わん。知恵は頭さえ無事なら使えるからな」


オリオルの残酷な言葉に、ベニートの頬の筋肉がわずかに痙攣した。 騎士にとって、優れた才知を持つ者を力で屈服させるのは、最も忌むべき恥辱の一つだ。だが、皇太子の命は絶対である。


「……承知いたしました。ですが殿下、帝都は広大です。ブライなる男の容姿や、潜伏先の心当たりは?」


「知らん! それを調べるのが貴公たちの仕事だ。ジョルディの配下より先に奴を見つけ出せ。しくじれば、貴公の部下たちの首が飛ぶと思え」


ベニートは拳を握りしめ、一度だけ深く頷くと、重い足取りで退室した。 回廊に出た彼の溜息は、冷たい朝の霧に吸い込まれて消えた。


(……この国は、どこまで腐っていくのか)


ベニートは、かつて教え子であったマルク王子の実直な瞳を思い出していた。もし、マルクがこの地位にいたならば、このような蛮行は命じなかっただろう。ベニートは白銀の兜を深く被り直し、帝都を震わせる「狩り」の合図を鳴らすべく、騎士団屯所へと足を向けた。


一方、帝都の喧騒から隔絶されたような、静かな高級住宅街。 帝国の中堅文官であるルイスの邸宅は、現在、異様な緊張感に包まれていた。


「……フェラン殿、その、お加減はいかがかな」


ルイスは、自室の豪華な椅子に座る男に対し、恐る恐る声をかけた。 ルイス自身、なぜ自分がこれほどの大物に頭を下げているのか、未だに夢を見ているような気分だった。


事の始まりは一ヶ月前。ルイスは政敵から身に覚えのない横領の罪を着せられ、破滅の淵にいた。その時、ふらりと現れた旅の男「フェラン」が、たった一枚の古い帳簿の矛盾を指摘し、一晩でルイスの潔白を証明して見せたのだ。


命を救われた恩義から、ルイスはフェランを客分として屋敷に招き入れた。だが、その「フェラン」が数日前、ルイスにだけそっと真実を告げたのだ。 『私の本当の名は、ブライという』と。


今朝、帝都に流れたオムニセインシアの格付けを聞き、ルイスは腰を抜かした。目の前の男が、大陸で最も価値のある『知恵』そのものだったのだ。


「……お気遣い、感謝する。ルイス殿」


「フェラン」と呼ばれた男――ブライは、窓から差し込む陽光を避けるようにして、顔の半分を布で覆ったまま掠れた声で答えた。 その声は、喉を焼かれたような不自然な低音。ルイスには、彼がどのような壮絶な過去を歩んできたのか見当もつかないが、その瞳に宿る知性の深さだけは、本能的な恐怖を抱かせた。


「フェラン殿……失礼、ブライ殿。都は今、貴方様の噂で持ちきりです。近衛騎士団までが動いているとか。この屋敷も、いつまで安全か……」


「ルイス殿。貴殿は、ただ私という『友人』を泊めているだけでいい。余計な案じる必要はない」


ブライは、ルイスが差し出した高級な茶には指一本触れず、窓の外を眺めていた。遠くで、軍靴の音が不気味に響いている。


「……魚を釣るには、まず水面を叩かねばならない。獲物が焦り、泥を巻き上げ、その正体を晒すのを待つ……。それが、情報の『調律』というものだ」


ブライが独り言のように呟いた言葉に、ルイスは首を傾げた。 「調律……? 魚釣りですか? 何か、私にできることがあれば……」


「いいえ、貴殿にできることは何もない。……ルイス殿、貴殿はただ、これから始まる『劇』の、最も特等席にいる観客であればいいのです」


ブライは布越しに、自らの顎を撫でた。 毒によって失われたかつての声。陶器のように無機質さを感じさせる肌。そして色の抜けた白い髪。 15年前の「彼」を知る者が、このモン・セラのどこかにまだ生きているのだろうか。


「皇太子と第2王子。二人の龍が、一つの骨を奪い合う。……楽しみだとは思わないか、ルイス殿?」


「は、はあ……。私には、恐ろしいばかりで……」


ルイスは力なく笑った。この賢者が何を企んでいるのか、小市民である彼には到底理解できなかった。ただ、この男の背後に、底知れぬ闇の深淵が広がっていることだけは、肌で感じていた。


同時刻、後宮の北に位置する静謐宮の奥深く。第3王子マルクは、育ての母・ウリャーナ嬪を通してかつて執事として身の回りの世話をしていたエドワードから指輪を渡されていた。それは15年前に亡くなった母の遺品でもあった。 「遺品の指輪」の裏に刻まれた、15年前の『隠し経路』を指でなぞっていた。


3王子マルクにとって、ウリャーナは実母マリソルが遺した「最後の慈悲」であった。マリソルの死後、後ろ盾を失い、孤独に震えていた幼いマルクをその細い腕で抱き上げ、冷たい宮廷の風から守り抜いたのが、北方の小国から輿入れしたウリャーナ嬪だった。嬪の位は皇后・妃の下に位置しており、決して高いとは言えない。

だが、後ろ盾にはなったし、心安らぐ場所にもなった。


「――マルク。血が繋がっていなくとも、貴方は私の誇り、私の愛する息子ですよ。だから、決して手柄を立てるために命を危険に晒すようなことはしないで」


静謐宮の嬪の居室で、ウリャーナは穏やかに微笑む。彼女は決してマルクに「王子としての野心」を強いない。ただ、彼が健やかに、心のままに生きることを祈り続けている。

彼女はマルクの実母・マリソル第3妃の友でもあった。

15年前に国境が危うくなった際に、第3妃も亡くなった。

「病死」とされているが、実のところ死因ははっきりしていない。

今回、太皇太后の法要がおこなわれた際に、長く閉ざされた第3妃の宮も整理することとなり、ウリャーナ嬪が整理を任された。


そして見つけたのだ。隠されていた遺品を。

その指輪はタペストリーの端に括り付けられていたという。

そっと指輪の裏面を撫でた。


「……母上。なぜ貴女は、これを私に遺したのですか」


その問いは、まだ空虚に響くだけだった。 だが、帝都を包囲する騎士たちの軍靴の音と共に、物語の歯車は、誰も逃れられぬ速度で回転を始めていた。

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