第1章:オムニセインシアの託宣-其の一
其の一:叡智の査定
大陸の北端、常に灰色の霧が海面を這う「絶望の海」にその孤島は浮かんでいる。
「記録者の繭」と呼ばれるその地は、切り立った黒い断崖に囲まれ、上空から見れば、巨大な岩肌が中心部を幾重にも包み込む「繭」のような形状をしている。荒波が岩壁を叩く音は、侵入者を拒む警告のように絶え間なく響く。
島の周囲には特殊な海流と気温差により、一寸先も見えぬ濃霧が常に停滞している。
この霧こそが、組織を物理的にも秘匿性においても守る「第一の壁」である。 外海の荒々しさとは対照的に、一歩内部へ足を踏み入れれば、そこには真空に近いほどの静寂が支配している。 第2王子・ジョルディが足を踏み入れた「裁定の間」は、その繭の最深部に位置する。
ここは情報の「格付け」が行われ、プエスト(順位)が確定する神聖かつ残酷な場所である。
内部は巨大な鍾乳洞を削り出したかのような多層構造となっており、壁一面を埋め尽くすのは、人類が発明したあらゆる記録媒体だ。
天井まで届く巨大な黒檀の棚には、数世紀前の羊皮紙から、昨夜届けられたばかりの密書、さらには音声や記憶を封じ込めたと言われる結晶体までが、整然と、かつ冷徹に並んでいる。
直接的な窓はなく、天井の隙間から「導光鏡」によって集められたわずかな太陽光が、埃一つない空気の中を光の柱となって垂直に突き抜けている。 内部は常に一定の低温に保たれ、微かに古い紙の乾いた匂いと、蜜蝋、そして微かなインクの香りが混ざり合っている。
部屋の奥には、黄金でも宝石でもなく、「情報の断片」を載せるための巨大な石造りの天秤が置かれている。一報が届けられるたびに、その天秤は音もなく揺れ、歴史の重みを測り続ける。
ここにあるのは、大陸の全域に耳目を張り巡らせた情報組織オムニセインシアの裁定の間である。
ここでは、あらゆる真実が「商品」として陳列され、その価値は情報の希少性と、それを求める者の野心の重さによって、厳格な三段階の価格帯に区分されていた。
記録官が座るのは、一段高い場所に設置された石造りの机だ。そこには何百もの羽ペンと、大陸中の言語に対応した活字が並び、彼の背後には、常に「カタ、カタ」と情報を刻み続ける**自動書記機**の音が、鼓動のように響いている。 記録官はその無機質にも見えるような唇を開いた。
「……殿下、我が組織の『対価』は極めて明快でございます。まずはそれをご理解いただかねば、情報の扉は開きません」
対面に座る主幹記録官の声は、石造りの壁のように冷たい。彼は三枚の異なる色の硬貨――銅、銀、そして金を模した重厚なメダルを机に並べた。
「まず、最も下位の『銅』。これは、市井に流れる噂の裏付けや、既に発表されたプエスト(格付け)の詳細解説を指します。庶民の年収の百倍を積めば、凡庸な貴族でも『プエスト10位の商人が昨夜何を食べたか』を知ることができるでしょう」
記録官は、次に銀のメダルをジョルディの方へ押し出した。
「中位の『銀』。これは特定の個人の居場所、健康状態、あるいは致命的な弱点の分析。代価は一つの小都市が一年間に納める徴税権すべて。この情報を買えば、殿下は政敵の一人を確実に葬り去ることが可能です」
ジョルディは、最後に残された金色のメダルをじっと見つめた。記録官の目が、眼鏡の奥で鋭く光る。
「そして最上位、『金』。これは国家の存亡を左右し、時代の覇者を決定づける特級の機密。これを手にするには、一国の軍事機密、あるいは今回殿下が差し出されたような『帝国三大金鉱の永久採掘権』といった、国力の欠片を差し出していただく必要があります」
「……わかっている。私は遊びに来たのではない」
ジョルディは、冷や汗で湿りそうになる掌を膝で拭った。 三大金鉱。それを手放せば、帝国の財政基盤は大きく揺らぐだろう。だが、兄オリオルとの後継者争いに敗北すれば、財政どころか自分の命さえ、明日の朝日を見ることはない。
「金を払う。……だから、教えろ。カストラルカの腐りかけた秩序を根底から覆し、私を唯一無二の皇帝へと押し上げる『圧倒的な叡智』はどこにいる」
「……承りました。その覚悟、確かに受理いたしました」
記録官は手元の巨大な台帳を捲り、一つの項に指を止めた。
「オムニセインシアが算出する『十大英知プエスト』。その第1位に君臨する男がいます。名を、**ブライ**。彼は特定の勢力に属さず、大陸で一目置かれる傭兵組織『義仲団』を影から支配する情報の調律師。過去15年、彼が関与した全ての戦役において、劣勢側が勝利を収めています。それも、兵を動かす前に敵の補給路を断ち、内部の裏切りを誘発させる……いわば『戦わずして勝つ』ことを具現化した、怪物のような知性です」
「ブライ……。その男が、私の参謀に相応しいと?」
「ええ。我々の計算によれば、彼を陣営に加えた側の勝率は九割を超えます。……しかし、殿下。ご用心を。情報の鮮度は、競合他社の存在によって一瞬で損なわれます」
記録官は、事務的な口調でさらなる絶望を付け加えた。
「『金』の情報は、独占契約ではございません。昨夜、皇太子オリオル殿下の特使も、殿下と同等の、あるいはそれを上回る代価を提示し、同じ情報を持ち帰りました」
「――ッ! あの兄が!」
ジョルディは椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。 自分が全財産を賭けて買った武器が、既に敵の手にも渡っている。この事実は、情報の価値をさらに跳ね上げた。もはや、どちらが先に「ブライ」という名の刃を握るか。その一点に、カストラルカの命運は集約されたのだ。
「……記録官。その男は、今どこにいる」
「潜伏先を教えるのは『銀』の範疇ですが……金の顧客へのサービスとして差し上げましょう。彼は現在、名前を変え、身分を偽り、貴方のすぐそば――帝都モン・セラに潜入しています」
もはや、ここに留まる理由はない。 帝都モン・セラに戻り、兄より先に、その「ブライ」なる男を確保しなければならない。もし、その叡智が兄の手に渡れば、自分に待っているのは敗北ではなく、確実な死だ。 大仰に裾を鳴らすようにして身を翻した。
「……記録官。このブライという男、本当に私が使いこなせると思うか?」
去り際、ジョルディが背中で問うた。 記録官は、羽ペンを置く音とともに答えた。
「ブライは『参謀に相応しい叡智を持つ』と申し上げました。ですが、彼が貴方に忠誠を誓うかどうかは、情報の範囲外です。……毒を毒のまま使うのか薬にするのか、また自ら飲むかは、使い手次第でございます」
ジョルディは、それ以上何も言わずに退室した。彼の胸にあるのは、最強の武器を手に入れるという高揚感と、それ以上に深い、未知の知性に対する得体の知れない恐怖であった。
その姿を記録官は静かに見つめながら、誰にも聞こえないような微かな声で呟いた。
「愚か者たちの椅子取りゲームが始まったよ、アシュレイ」
その声は、天秤が傾く音や自動書記の規則正しい音にかき消される。
その頃、カストラルカの都モン・セラ。 オムニセンシア・プエストの一位に格付けされている男・ブライは、一人の高官の邸宅の窓辺で、月を眺めていた。夜目に強いとされる訓練された伝書鳥から、小さな筒を受け取ると、そっと丸めた紙を広げる。
それは記録官からの報告でもあった。
「始まるんだな」
掠れた声が、冷たい夜風に溶けていく。 オムニセインシアに情報を流したのは、他でもないブライ自身であった。 情報を餌に、自分を殺そうとした者たちを同じテーブルに誘い出す。復讐という名の「プエスト」は、まだ幕を開けたばかりだった。
「カタ、カタ」と情報を刻み続ける自動書記機の音が静かにブライの耳の奥に響いた。




