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第4章:後宮の暗雲と毒婦の影-其の四

「……母上」


オリオルの声は、絞り出すような喘ぎに似ていた。

先ほどまでの傲岸不遜な態度は霧散し、彼の顔は雪のように白くなっている。ブライが示した論理の檻は、母シャハナーズだけでなく、彼女を後ろ盾とするオリオル自身の首をも絞めようとしていた。


「母上、嘘ですよね……? 何かの間違いだ。そう、この男が……この忌々しいブライが、我が陣営を陥れるために仕組んだ妄言に決まっている!」


オリオルは縋るような瞳でシャハナーズを見た。だが、シャハナーズは言葉を返せなかった。彼女は、自身が愛用する香炉の底に沈めた「本物の黄金」の重みを思い出し、その場に釘付けになっていた。


「……ベニート」

オリオルは震える指先で、近衛騎士団副団長を指し示した。その瞳には、絶望的な期待が滲んでいる。

「行ってくれ。母上の宮へ行き、何もないことを証明してくれ……。奴の出鱈目を、その剣で叩き潰すために!」


「……御意に」


ベニートは、痛ましげにオリオルを一瞥してから、数人の部下を引き連れてシャハナーズの宮へと向かった。

その場に残された者たちの間に、氷のように冷たい時間が流れる。


シャハナーズの傍らで、女官長カサンドラだけが、毒蛇のような冷徹さを保っていた。彼女はブライを凝視し、その正体を探るように目を細める。この男は一体何者なのか。ただの傭兵組織の長が、なぜこれほどまでにダルワーズ侯爵家の内情や、禁忌の毒物に精通しているのか。


やがて、遠くから重い甲冑の音が近づいてきた。

戻ってきたベニートの手には、紫色の絹布に包まれた「何か」があった。


「……殿下。誠に遺憾ながら」


ベニートが布を開くと、そこには煤に汚れながらも、気高く輝く真実の黄金があった。

皇帝バルトロメウの紋章が刻まれた、本物の龍の杯である。


「ああ……」

オリオルが膝から崩れ落ちた。それは母の罪を認める音であると同時に、彼自身の「完璧な後継者」としての経歴に致命的な汚点がついた瞬間でもあった。


「……身に覚えが、ございませんわ」


沈黙を破ったのは、シャハナーズの掠れた声だった。彼女は床に伏したまま、震える指でウリャーナを指した。


「それは……その杯は、誰かが私を陥れるために、我が宮へ投げ込んだものに違いありません。……そう、そこの侍女! ルチアと言いましたか? その娘が、昨夜のうちに忍び込んで隠したのですわ!」


「お、お妃様……! 滅相もございません!」

ルチアが怯えて叫ぶが、シャハナーズは狂乱したように続けた。


「陛下への忠誠心から、盗まれた杯を取り戻そうとした私を……この卑しい女たちが嵌めたのです! 陛下! 陛下をお呼びして! 私は潔白ですわ!」


その醜い足掻きを、ブライは冷笑すら浮かべずに見下ろしていた。


「——見苦しい。カサンドラ殿、貴女もそう思いませんか?」


ブライの声に、カサンドラが反応した。彼女は主人の狂態を一瞥し、ふっと悟ったような表情を浮かべた。このままではシャハナーズと共に自分も、そしてダルワーズ侯爵家さえも道連れになる。


「……シャハナーズ様。お静まりください」


カサンドラが静かに、だが抗いがたい威圧感を持って主人の肩を叩いた。


「……すべては、我が独断。……そうでございますね?」


「え……?」

シャハナーズが呆然と顔を上げる。カサンドラは、その瞳に「主を救うための嘘」ではなく「主から切り捨てられるための覚悟」を宿していた。


「皇太子殿下、第3王子殿下。……すべては、このカサンドラが、主君の行く末を案じるあまりに暴走した結果にございます。ウリャーナ嬪に嫉妬し、偽の毒杯を用意させ、本物を盗み出して罪を擦り付けようとしたのは、私一人の仕業。……シャハナーズ様は、何もご存知ありません」


カサンドラは、流れるような所作でその場に跪き、深く頭を下げた。

それは完璧な「トカゲの尻尾切り」だった。女官長一人の罪に留めることで、シャハナーズとオリオルの破滅を最小限に食い止めようという算段だ。


「……ほう。女官長一人が、侯爵家御用達の職人を動かし、軍用の毒を手に入れたと?」

ブライが追い打ちをかけるように問う。


「……ダルワーズ家の名は、私が騙りました。職人も、女官長の顔を見れば、主君の命と思うものです」


カサンドラは表情一つ変えずに答えた。彼女の自己犠牲的な献身——に見える冷徹な計算——に、場は困惑に包まれる。


しかし、マルクは黙っていなかった。


「……どのような理由があろうと、母を、そして無実の侍女を死罪に追い込もうとした罪は消えない。カサンドラ、貴女をこのまま皇帝陛下の御前へ引き立てる」


「……お待ちください、マルク殿下」


ブライが、マルクの言葉を遮った。

ブライはゆっくりとウリャーナの元へ歩み寄り、彼女の震える手を取るふりをして、その耳元でだけ聞こえる声であることを囁いた。


ウリャーナは驚いてブライを見たが、その瞳にある確信めいた光に押され、ゆっくりと立ち上がった。

彼女は泥にまみれたルチアを助け起こし、そして、絶望の淵にいるシャハナーズを見つめた。


「……カサンドラ殿。貴女の罪は重い。ですが……シャハナーズ様が、本当に何もご存知なかったというのであれば……」


ウリャーナは、静かに、だが凛とした声で宣言した。


「私は、この件を陛下の御前で裁くことを望みません。……陛下のお心を、これ以上痛ませたくはないのです」


その慈愛に満ちた(あるいは、そう見えるように演出された)言葉に、その場にいた兵士たちからも感嘆の漏息が漏れた。

シャハナーズを直接叩き潰すのではなく、「貸し」を作ることで、自身の道徳的優位を皇帝に知らしめる。それこそが、ブライがウリャーナに授けた、最も鋭い復讐の刃だった。


オリオルは、屈辱と安堵が混ざり合った複雑な表情で、ただ立ち尽くしていた。

彼はこの日、母を救われたのではない。第3王子派に、一生消えない「恩義」という名の鎖を繋がれたのだ。

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