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第4章:後宮の暗雲と毒婦の影-其の三

「——お待ちください」


ブライの掠れた声が、静謐宮の重苦しい空気を切り裂いた。

彼はオリオルやシャハナーズの嘲笑を、まるで無価値な石ころを見るような冷淡な眼差しで一瞥した。


「ブライ殿。ジョルディ王子の名代として来たならば、礼節をわきまえよ」

カサンドラが低く威嚇するように言った。だが、ブライはそれを受け流し、近衛兵が持つ黄金の杯へと指を指した。


「礼節よりも優先されるべきは『真実』です、女官長殿。……皇太子殿下。その杯、兵に持たせたままにするのは危険です。布越しとはいえ、体温で『牙』が剥くように設計されていますから」


「牙だと?」

オリオルが不審げに眉をひそめる。ブライは懐から一振りの銀のピンセットを取り出し、兵士が持つ杯の「底」を指し示した。


「この杯、本物の黄金ではありません。……『金錫合金きんしゃくごうきん』。外見は金と見紛いますが、比重がわずかに軽く、何より『熱反応』を示します。殿下、この杯の底にある龍の鱗の彫り込みをご覧ください。……一部、赤ずんでいるのが分かりますか?」


近衛兵がまじまじと杯を覗き込み、短く声を上げた。

「……確かに。汚れかと思いましたが、赤黒く変色しています」


「それは汚れではない。……『冬の棘』。特定の温度——すなわち、人間の掌の熱に触れることで気化し、皮膚から浸透する遅効性の猛毒が、金属の表面に焼き付けられているのです」


ブライの瞳が、獲物を捕らえた鷹のように鋭く光る。


「ウリャーナ嬪がこれを盗んだとして、一体いつ、どうやって使うとお思いですか? 彼女がこの杯に触れれば、数刻後には心不全で息絶える。……つまり、この杯は『盗品』であると同時に、盗んだ者を口封じするための『処刑道具』なのです。犯人が自ら毒を飲み、あるいは毒に触れて『自責の念から自害した』ように見せかけるための、残酷な仕掛けだ」


「な……!」

ウリャーナが顔を覆い、ルチアが彼女を抱きしめる。


「馬鹿げている」

カサンドラが冷笑を浮かべ、一歩前へ出た。

「それが毒杯だとして、なぜそれが我が主君、シャハナーズ様と結びつくのですか? 誰か別の者が、ウリャーナ嬪を暗殺しようとしたのかもしれない。あるいは、彼女自身の自作自演かもしれない」


「自作自演、ですか。……では、この合金の『出所』についてお話ししましょう」


ブライの声は、淀みなく論理を紡ぎ出していく。


「この金錫合金は、大陸西方の鉱山でしか採掘されない希少な錫を使用しています。そして現在、カストラルカ帝国においてこの錫の輸入を独占的に管理しているのは……シャハナーズ様の実家である『ダルワーズ侯爵家』が運営する商会のみ。……違いますか?」


シャハナーズが扇を持つ手をぴくりと震わせた。カサンドラの眉間に、初めて深い皺が寄る。


「さらに言えば、この杯の細工。一見、皇室御用達の職人の手によるものに見えますが……。龍の髭の跳ね方に、特有の癖がある。……帝都の西区に、侯爵家の庇護を受けている『銀鼠ぎんねずみ』という名の裏の職人がいます。……セバスティアン殿」


ブライが背後の影に声をかけると、ジョルディ王子の分析官であるセバスティアンが、一枚の書状を掲げて現れた。


「……ブライ殿の指示により、先ほど調べさせました。三日前、その職人の工房へ、侯爵家の家紋が入った馬車が『特殊な合金の鋳造』を依頼しに訪れたという記録が、周辺の監視網にしっかりと残っております」


「……ッ!」

シャハナーズの顔から、一気に血の気が引いた。カサンドラは、沈黙をもってブライを射抜こうとしたが、ブライの攻勢は止まらない。


「そして、最も致命的な『矛盾』は、時間の流れにあります」


ブライはオリオルの方を向き、その喉元に言葉の刃を突き立てた。


「皇太子殿下。陛下が本物の杯を『紛失』されたのは、昨夜の晩餐の後、深夜二刻頃のこと。……しかし、セバスティアン殿が押さえた職人の証言によれば、この偽物の製作依頼があったのは『三日前』です。……おかしいと思われませんか?」


ブライの声が、静かな庭園に響き渡る。


「本物が盗まれる三日も前から、なぜ、本物と寸分違わぬ偽物を用意できたのか? ……答えは一つ。犯人は、昨夜杯が盗まれることを『三日前から計画していた』からです。あらかじめ偽物を用意し、本物が消えた直後の今朝、この庭に埋めた。……昨夜から今朝にかけて、本物の杯の保管場所、およびこの静謐宮の双方に、露見せず出入りできた人物は、限られています」


ブライはゆっくりと、カサンドラの足元を指し示した。


「……カサンドラ殿。貴女の靴の縁に、微かに付着しているその『白い粉』。……それは、静謐宮の裏庭、この石灯籠の周囲にのみ撒かれている、虫除けの石灰ですな。……今朝、貴女は『捜索を見守るために』ここへ来たとおっしゃいましたが、この石灰が撒かれたのは、昨夜の雨が上がった後の深夜一刻。……捜索が始まる前、貴女がここに来たという確たる証拠だ」


カサンドラが反射的に足を引いた。だが、その動きこそが肯定であった。


「シャハナーズ様。……貴女は、ウリャーナ嬪が『皇帝の宝を盗み、暗殺を企てた』という大罪を捏造しようとした。しかし、その計画のあまりの緻密さが、逆に貴女方を追い詰めたのです。……三日前から偽物を用意できたのは、本物の『隠し場所』を知っていた貴女方しかいない。……さて、皇太子殿下。本物の杯は、今どこにあるとお思いで?」


ブライは冷徹な微笑を浮かべ、シャハナーズの宮の方向を指し示した。


「……おそらく、シャハナーズ様の宮にある『香炉の底』あたりではないでしょうか。……金錫合金の偽物は熱で変色しますが、本物の黄金は熱に強い。……本物を隠すには、常に火が灯っている香炉の下は、最も盲点となる場所ですから」


「……ベニート」

オリオルが、裏返った声で呟いた。

「……今すぐ、母上の宮を……調べろ」


「はっ」

ベニートが、複雑な表情を浮かべながらも、迅速に兵を動かした。


シャハナーズはその場に膝をつき、カサンドラは、初めて屈辱に顔を歪めた。

ブライの構築した論理は、もはや偶然や言い逃れが入る余地のない、完璧な「罠」となっていた。


マルクは、ただ呆然とその光景を見つめていた。

(……あいつだ。敵が逃げる道を一つずつ塞ぎ、最後に最も痛烈な一撃を見舞う。……アシュレイ。君は、こんなにも恐ろしい男になってしまったのか?)


ブライはマルクの視線を、硝子細工のように冷たい瞳で撥ね返した。

「……殿下。叡智とは、時に残酷なものです。……真実を知るということは、それまでの安寧を捨てるということですから」


掠れた声が、風に溶ける。

ブライはそう言い捨てると、勝利の余韻に浸ることもなく、ジョルディ王子の元へと戻るべく背を向けた。その背中は、かつて共に笑い合った親友のそれではなく、孤独な復讐者の、凍てついた影であった。

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