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第4章:後宮の暗雲と毒婦の影-其の二

帝都の朝は、黄金の玉座の間から放たれた「冷気」によって始まった。


皇帝バルトロメウ・ガラン。いくつもの戦役を潜り抜けてきたその巨躯は、玉座に深く沈み込んでいる。彼は不機嫌だった。紛失した「黄金の龍の杯」そのものよりも、朝一番から耳元で騒ぎ立てる長子の声に、である。


「——父上。これは単なる紛失ではございません。帝国の威信を揺るがす由々しき事態です」


皇太子オリオルは、大理石の床を軍靴で鳴らし、熱弁を振るっていた。その背後には、冷ややかな視線を伏せる近衛騎士ベニートが控えている。


オリオルは今朝、母シャハナーズから「耳寄りな情報」を得ていた。『ウリャーナ嬪の侍女が陛下の大切な黄金杯を隠し持っているのを、後宮の庭で見た者がいる』というものだ。それが母の仕組んだ罠である可能性など微塵も疑わず、最近頭角を表して目障りになって来たマルクと彼を庇護するウリャーナを叩き潰す絶好の好機だと確信していた。


「宝物庫の警備を潜り抜け、陛下の愛用品を持ち出すなど、内部の者の手引きがなければ不可能です。……聞けば、最近は後宮の規律が緩んでいるとか。特に、身分の低い妃やその侍女たちが、分不相応な野心を抱いているという噂も絶えません」


バルトロメウは重い瞼を持ち上げた。その瞳には、かつて戦場を蹂躙した獅子の名残がある。

「オリオル。貴公は、私の杯が『後宮の女の袖』に隠れていると言いたいのか?」


「……可能性を否定すべきではありません。威信を示すためにも、一斉捜索の許可を。私が自ら陣頭指揮を執り、不届き者を炙り出してみせましょう」


皇帝は溜息をついた。オリオルが何を狙っているか——第2王子や第3王子の足元を掬おうとしていることなど、とうに承知している。しかし、名分は立っていた。


「……よかろう。ただし、静かにやれ。後宮は女たちの庭だ。軍靴で踏み荒らして良い場所ではない」


「はっ! 感謝いたします!」


オリオルは満足げに頭を下げ、踵を返した。その口元に浮かんだ醜い歪みを、皇帝は不快そうに見送った。


---


一刻後。後宮の一角に位置する「静謐宮」は、暴力的な騒乱の渦中にあった。


「おやめください! ここは第3王子殿下の母君、ウリャーナ様のお住まいです!」


ルチアの悲鳴に近い叫びを無視し、オリオル率いる近衛兵たちが次々と部屋へ踏み込む。

マルクはウリャーナの前に立ちはだかり、腰の剣を掴んだ。その瞳には、実直な彼には珍しいほどの怒りが宿っている。


「兄上、これはあまりに横暴ではありませんか。父上の許可があるとはいえ、母の尊厳を傷つけることは許されません」


「ふん、尊厳か。ならば、その『尊厳』が泥にまみれていないことを祈るのだな、マルク」


オリオルが嘲笑い、顎で兵たちに指示を出す。


「マルク、観念しろ。貴様の育ての母の卑しい素性が、ついにその清廉な面を剥がしたのだ。……ベニート、やれ!」

ベニートは複雑な表情のまま、部下に指示を出した。オリオルは確信していた。「必ずここから杯が出る」と。なぜなら母がそう言ったからだ。彼にとって母の言葉は絶対の真実だった。

やがて、庭の石灯籠を調べていた兵士が声を上げた。

「殿下! ありました! 隠されていた包みを発見しました!」

引きずり出された黄金の杯。それを見た瞬間、オリオルは歓喜に震えた。

「見たか、マルク! これが動かぬ証拠だ!」


引きずり出された黄金の杯。それを見た瞬間、ウリャーナは崩れ落ち、ルチアは反射的に「何かの罠です!」と叫んだ。

すべてはカサンドラの筋書き通り。勝利を確信したシャハナーズが、優雅に現場へ現れる。


「まあ、ウリャーナ嬪。なんて浅ましい……。愛する息子をプエストに載せるための資金でも欲しかったのかしら?」


「違います……私は……!」


絶望が場を支配しようとした、その時だった。


「——なるほど。随分と派手な『朝の検分』ですな」


低く、掠れているが、不思議なほどよく通る声。

回廊の端から歩み寄ってきたのは、ジョルディの参謀として宮廷入りしていたブライであった。

彼はいつもの冷徹な表情を崩さず、騒ぎに動じる様子もなく、真っ直ぐにオリオルの前まで歩み寄る。


「……何奴だ。ジョルディの犬か」


オリオルが忌々しげに睨むが、ブライは軽く会釈するに留め、視線を兵士が持つ「杯」へと固定した。


「失礼。ジョルディ殿下の名代として、陛下の至宝が無事発見されたか確認に参りました。……ですが、これは少々、おかしなことになっていますね」


ブライは歩みを止めず、兵士が持つ杯を指先で示唆した。


「皇太子殿下。その『宝』の所有権を主張する前に、検分を。……私の目には、それが帝国の至宝ではなく、持ち主の命を刈り取る『暗殺者の道具』に見えます」


「何だと……?」


「その杯の龍の眼を。紅玉に見えますが、表面がわずかに曇っている。これは『冬の棘』と呼ばれる毒を塗り込むための加工です。肌に触れ、数刻もすれば心停止に至る……。ウリャーナ嬪がこれを隠したというのなら、彼女は窃盗犯ではなく、皇帝陛下の命を狙う暗殺者ということになる。……ですが」


ブライはそこで一度言葉を切り、鋭い視線をカサンドラへと向けた。


「これほど精巧な『偽物』を、ろくな後ろ盾もない嬪が用意できるはずがない。……むしろ、これをこの場所に隠し、ウリャーナ嬪を『暗殺の首謀者』に仕立て上げようとした者がいる。その者こそが、陛下を狙う真の毒蛇だ。……そうは思いませんか、女官長殿?」


ブライの声には、老人のような粘着質さは微塵もない。

それは、相手の喉元に正確に刃を突き立てる、若き天才特有の冷徹な響きであった。


ウリャーナは「泥棒」から「暗殺計画の被害者」へと、その立場を劇的に変えようとしていた。

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