第4章:後宮の暗雲と毒婦の影-其の一
カストラルカ帝国の後宮。そこは、皇帝バルトロメウの寵愛という、実体のない蜃気楼を追い求める女たちが、美貌と血統を武器に戦う華やかな戦場であった。
「……あのような卑しい出自の女が、いつまで私の視界を汚し続けるつもりかしら」
第2妃シャハナーズは、象牙を彫り込んだ高価な椅子に身を預け、真紅に染めた爪を眺めながら吐き捨てた。彼女の部屋は、砂漠の向こうの異国から運ばれた香油の香りが立ち込め、壁には金糸で刺繍された贅を極めたタペストリーが掛けられている。皇太子オリオルの母であり、皇帝の寵姫。その自負が、彼女の眉間に傲慢な皺を刻んでいた。
彼女の傍らに影のように控えるのは、女官長カサンドラである。
カサンドラは、年齢を感じさせない引き締まった顔立ちに、一切の感情を排した冷徹な瞳を湛えていた。彼女はシャハナーズの実家から送り込まれた「毒針」であり、これまでに幾人もの目障りな妃や女官を、音もなく後宮の闇に沈めてきた実績がある。
「シャハナーズ様。あの方……ウリャーナ嬪は、単なる『石ころ』に過ぎませんでした。しかし、その息子である第3王子マルクが、此度の英知プエストで3位に選ばれたことで、石ころは図らずも磨きをかけられてしまったようです」
カサンドラの掠れた声が、静かな部屋に響く。
シャハナーズは苛立たしげに扇を畳み、机を叩いた。
「マルク。あの不気味に無口な小僧ね。死んだアシュレイの亡霊をいつまでも追いかけているような出来損ないが、なぜブライなどという得体の知れない男に次いで評価されるのか理解に苦しむわ。おかげで我が息子、オリオルの影が薄くなるではないか」
「皇帝陛下も、最近はウリャーナ嬪の元へ足を運ぶ回数が増えておいでです。控えめで実直、野心を感じさせない母子の姿が、戦に疲れた陛下の心を癒やしているのでしょう。……ですが、野心がないということと、害がないということは別問題でございます」
カサンドラが口元をわずかに歪め、不吉な笑みを浮かべた。
彼女の手には、小さな漆塗りの小箱が握られている。
「第2王子ジョルディ様がブライを陣営に引き入れた今、皇太子殿下の地位を盤石にするためには、第3王子派を芽のうちに摘んでおかねばなりません。幸い、ウリャーナ嬪は身分が低く、後ろ盾もおりません。……彼女が『決して犯してはならない罪』を犯したとて、誰も彼女を庇いはしないでしょう」
「名案ね、カサンドラ。彼女を泥にまみれさせ、その息子ごと表舞台から引きずり下ろしなさい。皇后への牽制にもなるわ」
シャハナーズの残酷な瞳が、暗い欲望に燃えた。
その頃、後宮の北側に位置する「静謐宮」では、ウリャーナ嬪が静かに針を動かしていた。
第4妃の位の下、まだ「嬪」という低い身分に甘んじている彼女の居所は、シャハナーズの宮殿に比べれば驚くほど質素であった。しかし、磨き抜かれた床や丁寧に手入れされた花瓶の花からは、住み手の誠実な人柄が滲み出ている。
「ウリャーナ様、少しお休みください。もう日が傾いておりますわ」
明るい声と共に部屋に入ってきたのは、侍女のルチアだった。
彼女はウリャーナの忠実な手足であり、また、心を閉ざしがちなマルクにとっても、唯一、屈託のない笑顔を見せる存在である。
「ありがとう、ルチア。ですが、これを早く仕上げてしまいたいのです。マルクの新しい装束に縫い付ける守り袋なのですよ。あの子、近頃は顔色があまり良くないでしょう? きっと、政務や心ない噂のことなどにまた心を痛めているのだわ」
ウリャーナの穏やかな顔に、母としての憂いがかげる。
彼女は知っていた。育ての義理の息子がどれほど誠実で、どれほど深く友を悼んでいるかを。そして、その誠実さが、この呪われた後宮や権力闘争において、どれほど脆く危うい武器になるかを。
「第3王子様は、本当にお優しい方ですもの。でも、大丈夫です! エドワード様もついていらっしゃいますし、何より私たちがお守りします!」
ルチアが胸を叩いて笑う。その無邪気な様子に、ウリャーナも思わず微笑んだ。
だが、その背後に這い寄る影には、まだ二人とも気づいていなかった。
後宮の長い回廊の角。静謐宮の死角でもあるそこに、カサンドラは一人の若い下級女官を呼び止めて、そっとものを差し出した。
女官は怯えた表情で、震える手で受け取る。
カサンドラは目を細めて囁きながらも否を許さぬ声色で命じた。
「……これを、今夜中にウリャーナ嬪の寝所の奥、誰も触れぬ場所に隠しなさい。しくじれば、貴女の故郷の家族がどうなるか、分かっているわね?」
年若い女官が受け取ったのは、皇帝のみが所有を許される「黄金の龍」を象った秘宝の杯——先日の式典でも用いられた天下に2つとない品であった。
盗難。そして、不当な所持。
これが見つかれば、ウリャーナの地位は剥奪され、良くて追放、悪ければ死罪は免れない。
蛇の牙が、静かに、しかし確実に、ウリャーナの首元を狙っていた。
一方、都の喧騒を見下ろす第2王子ジョルディの別邸。
ブライは、リタが差し出した薬湯を飲み干し、窓の外に広がる後宮の夜景を眺めていた。
「さて……蛇の牙を抜きに行くか」
掠れた声が、闇に溶ける。
ブライの手元には、後宮の動きを見張らせていたジーンから届けられた密書があった。
「カサンドラが動いた。標的はウリャーナ。罠は皇帝の杯」
ブライの瞳に、冷徹な計算の光が宿る。
彼はウリャーナという女性に特別な感情はない。しかし、彼女が失脚すればマルクの地位は地に落ち、自身の復讐の盤面が狂ってしまう。
「リタ、例の『模造品』の準備はできているか?」
「ええ、ブライ様。オムニセインシアを通じて手配したわ。本物と見分けがつかない、毒を仕込んだ贋作をね」
ブライは薄く微笑んだ。
アシュレイとしての心は、15年前に死んだ。今の彼にとって、後宮の女たちの戦いなど、復讐を完遂するための余興に過ぎない。
だが、マルク。お前を救うためでもない。
お前を「皇帝」という、最も高く、最も孤独な椅子に座らせるためだ。
蛇が罠を仕掛けるなら、その罠を龍の首を絞める縄に変えてやろう。
ブライは静かに立ち上がり、夜の闇へと指示を飛ばした。




