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第3章:後宮の毒花-其の三

紅玉宮こうぎょくきゅうの寝室は、深紅のとばりと、むせ返るような薔薇の香に満たされていた。

先ほどまで静謐宮せいひつきゅうで穏やかな茶を啜っていた皇帝バルトロメウは、今、寝台で青ざめた顔を横たえるシャハナーズの傍らに座り、その細い手を両手で包み込んでいた。


「……陛下、申し訳ございません。貴方様が、あの小国の妃の元で、束の間の安らぎを得ておられたのは存じておりました。……それなのに、私のこの脆弱な身体が、貴方様を求めて叫んでしまったのです」


シャハナーズの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。それは狂乱の叫びではなく、愛する者を失うことを何より恐れる、か弱い女の震えであった。

皇帝は溜息をついた。だが、それは拒絶の溜息ではない。これほどまでに自分を求め、執着してくれるこの女への、逃れられぬ「愛着」の吐息であった。


「……気にするな、シャハナーズ。医師は過労だと言っていた。そなたは、皇太子の母として、そして私の唯一の理解者として、気を張りすぎているのだ」


「……陛下。私は、陛下がまだ若き皇子として剣を振るっておられた頃から、ずっと貴方様のお背中だけを見て参りました。……貴方様の側にいて良いのは、その痛みを分分かち合える私だけだと、そう思いたいのですわ」


シャハナーズは、皇帝の手を自らの頬に寄せた。彼女は知っている。皇帝がウリャーナの「無欲さ」に惹かれながらも、自分のような「強欲なまでの愛」に、男としての自尊心を刺激されていることを。

皇帝の指が、彼女の濡れた睫毛をそっと拭う。ウリャーナの元へ戻らねばならないという理性を、シャハナーズの指先が、そして彼女が放つ官能的な香りが、少しずつ、確実に溶かしていく。


「……分かっている。シャハナーズ、今夜は隣におる。……今夜は、ずっとここにいよう」


その言葉を聞いた瞬間、シャハナーズの口元に、微かな、しかし勝ち誇ったような微笑が浮かんだ。彼女はほだされた皇帝の首に腕を回し、その胸に顔を埋める。皇帝は彼女を抱き寄せながら、心の一角で、冷めていくウリャーナの茶を思い出していた。だが、腕の中にあるこの情熱的な花を、彼はどうしても突き放すことができなかった。


---


一方、その頃。帝都の北嶺に佇むジョルディの別邸では、全く異なる「夜」が更けていた。

執務室の窓からは、遠く帝宮の後宮が、闇の中に浮かぶ無数の宝石のように輝いて見える。第2王子ジョルディは、その光景を背に、机の上に置かれた「黄金の龍杯」の模造品を指先で弄んでいた。


「……案じた通りになったな、ブライ。兄上の母、シャハナーズが陛下を強引に連れ戻した。今頃は、寝台の上で涙の一粒でも流して、陛下の情愛を独占している頃だろう」


ジョルディは、面白そうに、しかしどこか冷淡な笑みを浮かべて影の男に問いかけた。


「だが、それがどう『龍杯』に繋がる? 彼女が陛下をほだせば、それだけ兄上の地位は盤石になる。我々が望む『後宮の崩壊』とは逆の方向ではないか」


部屋の隅、闇に沈んだ椅子に深く腰掛けていたブライが、ゆっくりと顔を上げた。

月光が、布に覆われた彼のかたちを青白く照らし出す。掠れた、砂を噛むような声が響いた。


「……殿下。愛とは、最も脆い『確信』の上に成り立つものです。シャハナーズ様が今、陛下をほだしているその熱情こそが、明日、彼女を破滅させるための燃料となる」


ブライは、リタが差し出した黒い薬液の杯を拒まずに受け取り、一気に飲み干した。喉を焼く苦みに耐えながら、彼は続けた。


「陛下は、彼女の『執着』を愛しておられるが、同時に、その執着が招く『不自由』を疎ましくも感じている。……一方、ウリャーナ様は静寂。……人間は、嵐の中にいる時は静寂を求め、静寂の中にいる時は嵐の熱を求める。……シャハナーズ様は、今夜の勝利に酔いしれ、一つの過ちを犯します」


「過ちだと?」


「……『比較』です。彼女は陛下に対し、自らの献身とウリャーナ様の無関心を比較し、ウリャーナ様を貶めるための種を蒔く。……そして、その種こそが『龍杯の消失』という事件に、絶対的な大義名分を与えるのです」


ブライの瞳が、冷たくジョルディを射抜いた。


「殿下、よくお聞きなさい。明日、帝宮の宝物庫から龍杯が消えます。……シャハナーズ様は、自らの潔白を証明するために、あえて『自分を含めた全後宮の捜索』を陛下に具申するでしょう。……彼女は確信している。龍杯が、ウリャーナ様の宮で見つかるように仕組んだからです」


ジョルディは息を呑んだ。ブライの言葉は、あたかも明日起こる出来事を既に見てきたかのような、不気味な具体性に満ちていた。


「……だが、シャハナーズがそれほど危険な橋を渡るか? もし工作が露見すれば、彼女自身が処刑されるぞ」


「……愛にほだされた女は、自分が負けるなどとは微塵も考えません。……特に、カサンドラという蛇が隣で耳を貸している限りは。……彼女たちは、自分たちの策が完璧だと思い込んでいる。……ですが、殿下。情報の『淀み』は、一度動き出せば、仕掛けた者さえも飲み込む濁流となる」


ブライは、細い指で帝都の地図の一部を叩いた。


「オリオル殿下は、手柄を焦り、自ら捜索の指揮を買って出るでしょう。……白銀の騎士ベニートを従え、武威を示そうとする。……そこが、我々の狙い目です。……皇太子が自らの軍靴で後宮という聖域を蹂躙し、その果てに『真実』を見失う。……その時こそ、殿下、貴公が『情報の管理者』として盤面に降り立つ瞬間です」


「……ふふ、くははは!」

ジョルディは、堪えきれないといった様子で笑い出した。

「面白い! 兄上は功名心に、シャハナーズは嫉妬に、父上は情愛に踊らされる。……そして私は、貴公という怪物の指先で、彼らが自滅するのを眺めていればいいわけだ」


「いいえ、殿下。……貴公もまた、この盤面を構成する駒に過ぎません。……ただ、他の者よりも少しだけ、高い場所から盤面を見ているというだけのこと」


ブライの言葉に、ジョルディは一瞬だけ表情を強張らせた。だが、すぐに元の不敵な笑みに戻る。この男を信じ切ることはできないが、この男がもたらす「結果」だけは、何よりも甘美であった。


その傍らで、リタは主君の震える指先を見ていた。

ブライの白い指は、冷たい陶器のように手すりを握りしめている。

彼の予測は、常に「自分自身の命」を削り出して作られている。この美しい計略の裏で、どれほどの苦痛と、どれほどの「かつての友への情愛」が殺されているのか。それを知るのは、彼女だけだった。


「……第3王子、マルク殿下はどうなる?」

ジョルディが、ふと思い出したように尋ねた。


「……彼は、太陽になりますよ。……一度、徹底的に闇に沈み、そこから這い上がってきた時……彼は、この帝国の誰もが仰ぎ見る、冷たくも正しい光となる。……そのために、今はその身を泥に浸していただく必要がある」


ブライの声には、一抹の感情も混じっていないように聞こえた。

だが、その視線の先には、闇の中に沈む「静謐宮」があった。

15年前、共に駆け抜けた親友への、それは彼なりの、あまりに残酷で、あまりに深い「守護」の形であった。


「……夜が明けますな。殿下。……明日、帝都の歴史は、たった一個の杯によって、その色を変えることになるでしょう」


ブライの予言は、冷たい朝の霧と共に、帝都を包み込んでいった。

シャハナーズが皇帝の腕の中で夢見る、偽りの安寧。

オリオルが研ぎ澄ます、功名という名の刃。

そしてマルクが抱く、母を守りたいという、ただそれだけの純粋な願い。

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