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第3章:後宮の毒花-其の二

カストラルカ帝国の皇帝バルトロメウは、その強大な権力とは裏腹に、慢性的で深い孤独に苛まれていた。彼にとって後宮とは、世継ぎを産むための苗床であり、門閥貴族との均衡を保つための外交の場に過ぎない。


だが、第3妃ウリャーナが住まう「静謐宮せいひつきゅう」だけは例外だった。


「……やはり、ここへ来ると喉のつかえが取れる」


夜の静寂が降りる頃。皇帝は数人の近衛兵だけを連れ、予告もなくウリャーナの宮を訪れた。そこには、香を焚きしめる派手な演出も、着飾った女官たちの卑屈な出迎えもない。ただ、ウリャーナが丁寧に淹れた、故郷の野草の茶の香りが漂っていた。


「陛下、今夜は一段とお疲れのご様子。……陛下、どうぞこちらにお掛けくださいませ。疲れの取れる茶をご用意いたします」


ウリャーナの穏やかな声に、控えめに座っていたマルクが立ち上がり、皇帝に深く礼をした。


「マルクか。……貴公も、少しは見ない間に背が伸びたな。ウリャーナ、この子は貴方に似て、穏やかな目をするようになった」


「私の教えがよろしいのではなく、この子が自ら、優しさを選んだのですわ」


皇帝、ウリャーナ、そしてマルク。血の繋がりこそ異なれど、そこには紛れもない「家族」の体温があった。皇帝は、冷徹な統治者としての仮面を脱ぎ、茶杯から立ち昇る湯気に目を細める。

このささやかな団欒こそが、今のバルトロメウが唯一、金で買えないと自覚している「贅沢」であった。


ウリャーナが淹れたお茶を飲み、ここ最近の近況などを語り合う穏やかな時間がしばらく流れた。


しかし、その静寂は無残に切り裂かれる。


「――陛下! 陛下、一大事にございます!」


回廊を乱暴に走る足音と共に、紅玉宮(シャハナーズの宮)の女官が転がり込んできた。

近衛騎士ベニートがそれを制しようとするが、女官は狂ったように叫び声を上げる。


「シャハナーズ様が、お倒れになりました! 突然お苦しみになり、今や呼吸も絶え絶えに……! どうか、どうか陛下、すぐにお越しを!」


皇帝の眉間に、深い溝が刻まれた。


「……シャハナーズが? 医師は何と言っている」

「まだ、医師の到着を待っている余裕もございません! お妃様は、陛下のお名前を、震える声で何度も……!」


茶の香りが、一瞬で凍りついた。

マルクは、拳を握りしめてその女官を凝視した。これが、シャハナーズの常套手段であることを知っているからだ。皇帝が自分たちとの時間を過ごそうとするたび、彼女は「急病」や「発作」を演じ、強引にその足を奪い去っていく。


ウリャーナは静かに立ち上がり、皇帝の衣に付いたわずかな埃を払った。


「陛下……どうぞ向かわれてください。シャハナーズ様のお身体が何より大事です」


「……ウリャーナ、貴方はいつもそう言う。だが……」


「こうして訪れてくださっただけで、わたくしは十分ですから」


皇帝はウリャーナの目を見た。そこには嫉妬も、怒りもなく、ただ、皇帝を案ずる純粋な光だけがあった。その無垢さが、今のバルトロメウには、自分を引き留めてくれない冷たさのようにも感じられ、微かな苛立ちとなって胸を突いた。


「わかった。……行こう」


皇帝は、半分も飲んでいない茶杯を置き、一度も振り返ることなく静謐宮を後にした。


---


嵐が過ぎ去った後の静謐宮。

マルクは、冷えていく皇帝の茶を見つめ、掠れた声で呟いた。


「……まただ。あの方は、いつも母上の心を土足で踏み躙っていく」


「マルク。……あの方はお寂しいだけなのですよ。私から陛下を奪わなければ、自分の存在を証明できないほどに」


ウリャーナは微笑んだが、その指先はわずかに震えていた。

血の繋がらない母子が寄り添うその姿は、あまりにも美しく、そしてあまりにも脆かった。


一方、紅玉宮。

皇帝が駆けつけた寝室では、先ほどまで「虫の息」だったはずのシャハナーズが、青白い顔を装いながらも、皇帝の手を離さじと強く握りしめていた。


「……ああ、陛下。死の淵で、貴方様のお顔を拝見できるとは。……ウリャーナ様の元へ行かれたと聞き、胸が、胸が張り裂けそうで……」


「……もうよい、シャハナーズ。喋るな。身体に障る」


皇帝の声には、隠しきれない倦怠感が混じっていた。彼は彼女の嘘を見抜いていたが、それでも「皇太子の母」であり、有力貴族の娘である彼女を無碍にすることはできない。


背後の影で、女官長カサンドラが冷徹な瞳でその光景を見つめていた。

彼女は知っている。このような狂言は、一度や二度は通用しても、やがて皇帝の心を決定的に遠ざける刃になることを。


(……お妃様。貴女の愛は、あまりに重く、そして醜い。……ですが、それで良いのです。その醜さが、次の計画の最良の『目隠し』になるのですから)


カサンドラの脳裏には、既に「紛失した龍杯」をウリャーナの宮へ送り届けるための、完璧な道筋が描かれていた。


この夜の出来事は、ウリャーナとマルクにとって、単なる「嫌がらせ」では終わらなかった。

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