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第3章:後宮の毒花-其の1

帝都モン・セラの最奥に位置する後宮は、昼間は極彩色の花々と芳香に満ちた楽園として振舞っている。だが、陽が落ちればそこは、静寂という名の真綿で互いの首を絞め合う、音のせぬ戦場へと変貌する。


第2妃シャハナーズが住まう「紅玉宮こうぎょくきゅう」の空気は、今、まさに沸点に達しようとしていた。


「……あのような、身元の知れぬ小国の女に。……あの、野卑な第3王子を育てるだけの女に。……陛下が、私よりも先に、あの紅い涙を贈ろうとしたというの?」


シャハナーズは、転がった紅玉を拾い上げて壁に叩きつけ、その衝撃で砕け散ったその残骸を、更に絹の靴で踏み躙った。彼女の美貌は怒りと嫉妬によって歪み、その双眸には、長年かけて築き上げてきた「寵愛」という名の自負が崩れ落ちていく恐怖が宿っている。

それでも気が晴れず、手近な茶器などを壁に投げつけては壊していく。


「シャハナーズ様。お静まりください。……器を割れば、その音が壁の向こうへ騒ぎが漏れ聞こえましょう、官吏達が皇帝のお耳に入れる可能性もございます」


影のように寄り添う女官長カサンドラが、冷徹な声で主を制した。彼女は主人の狂乱に付き合うことなく、ただ淡々と、散らばった宝石の破片を拾い集める。


「カサンドラ! 貴女も聞いたでしょう。密書には『陛下のお心にはウリャーナがいる』と記されていたのよ! これが事実でなくて何だというの!」


「……差出人の不明な手紙を、そのまま真実と受け取るのは得策ではございません。ですが」


カサンドラは、拾い上げた赤い破片を月光に透かし、氷のような笑みを浮かべた。


「陛下が最近、静謐宮せいひつきゅうへ足を運ぶ回数が増えているのは事実です。……そして、あのウリャーナ様というお方は、欲がない。……欲がないということは、皇帝という孤独な支配者にとって、最も『何かを欲させたい』と感じさせる、甘美な毒なのです」


カサンドラの言葉は、シャハナーズの心の一番痛い場所を正確に突き刺した。

シャハナーズが皇帝に捧げてきたのは、権力、富、そして美貌という名の、目に見える対価だった。対してウリャーナが与えているのは、それら全てを捨てた後に残る「安らぎ」である。


「……消さなければ。あの女も、その息子も。……一刻も早く、陛下の視界から、この世から」


「殺すだけでは、陛下のお心に『永遠の悲しみ』として彼女を刻むことになります。それは敗北です、お妃様。……必要なのは、陛下自らが彼女を忌み嫌い、その手で静謐宮を焼き払いたくなるような――『裏切り』の証明です」


カサンドラは、シャハナーズの耳元で、密やかに、そして残酷な策を囁いた。


---


時を同じくして、第3王子マルクの居城「静謐宮」。

そこには、紅玉宮の殺気とは無縁の、穏やかな時間が流れていた。


「……マルク。明日は少し風が強くなるそうです。あまり遅くまで、庭で本を読まないようにしてくださいね」


育ての母、ウリャーナが、マルクの肩に厚手のショールを掛けた。

マルクは本から目を上げ、母の穏やかな顔を見つめた。実母マリソルを亡くしたあの日、幼い自分の手を握り、「私は貴方の母になります」と言い切った彼女。以来、彼女は後宮のあらゆる冷遇に耐え、自分を立派な王子として、あるいは一人の人間として育て上げてくれた。


「母上。……最近、宮廷の様子が騒がしいようです。もし、何か不審なことがあれば、すぐに僕に、あるいはエドワードに伝えてください」


「ふふ、心配性ですね。私は、陛下が時折お茶を飲みに寄ってくださるだけで幸せですよ。……マルク、貴方はもうすぐ大人になります。……いつか、この狭い後宮ではなく、あの青い空の下へ飛び出していく日を、私は楽しみにしているのですよ」


ウリャーナの言葉は、マルクにとって何よりの救いであり、同時に重い責任でもあった。

彼女を守るために、自分は強くならなければならない。

だが、マルクはまだ気づいていなかった。

母が自分に向ける慈愛の眼差しが、後宮という深海においては、どれほど凶暴な「嫉妬」を呼び寄せる光となっているのかを。


---


その夜、皇帝バルトロメウの執務室から、一つの宝物が姿を消した。

建国以来、歴代皇帝が愛用してきたとされる『黄金の龍杯』。

帝国の権威の象徴であり、皇帝が最も大切にしていた至宝。


それが紛失したという一報は、翌朝、意図的な速度で後宮中を駆け巡ることになる。


「……始まりましたな、リタ」


ジョルディ別邸のテラスで、ブライは帝宮の方向を見つめ、掠れた声で呟いた。

リタは、主君の背中にそっと上着を掛ける。


「……ブライ様。ウリャーナ様は、本当に何もしていないのに。……どうして、あんなに優しい人たちを、こんな戦いに巻き込むの?」


リタの問いに、ブライは答えなかった。

陶器のような白い指が、テラスの手すりを強く握りしめる。


「……優しいだけでは、この国では死ぬことさえ許されない。……マルクが真に覚醒するためには、守るべきものが一度、徹底的に壊される必要がある。……そして」


ブライは、闇の向こうで蠢く「蛇」の気配を感じ取っていた。


「……シャハナーズ様。貴女が選んだ『黄金の龍杯』という一手。……それが貴女自身の首を絞める絞首刑の縄になることを、その傲慢な頭で、せいぜい楽しんでいただきたい」


ブライの瞳には、情も優しさももはや微塵も残っていないかのように見えた。

だが、その握りしめられた拳だけが、彼の魂がまだ人として、激しく血を流していることを証明していた。


後宮の毒花が、その蕾を膨らませようとしている。

その蜜は甘く、そして、一度触れれば命を落とすほどの毒に満ちていた。

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