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第2章:毒を食らう賢者-其の五

黄金の屋根が月光を跳ね返す華やかな表通りとは対照的に、第2王子ジョルディの別邸の一角は、常に薄暗い紫煙と、薬草の苦い香りに満たされていた。


ブライは、卓上に広げられた「後宮相関図」を、氷のような瞳で見つめていた。

そこには、皇帝バルトロメウを取り巻く女たちの名と、その背後にある家門の力が、緻密な線で結ばれている。中央に最も大きく記されているのは、皇太子オリオルの母、第2妃シャハナーズの名だ。


「……準備は整いましたな」


ブライが掠れた声で呟くと、背後の影からリタが静かに現れた。彼女の指先には、小さな、しかし異様な輝きを放つ紅い宝石の粒が握られている。


「……ブライ様、本当にこれを? シャハナーズ様は、蛇のように疑り深いお方よ。こんな見え透いた『贈り物』を信じるかしら」


「信じる必要はありません、リタ。……『疑う』だけでいいのです」


ブライは、リタの手から宝石を——後に『偽りの紅涙』と呼ばれることになる精巧な贋作——を受け取り、ランプの火にかざした。


「シャハナーズ様は、自らの美貌と権力が、砂時計のように零れ落ちていることに怯えている。一方で、第3王子の育ての母・ウリャーナ嬪は、慎ましくありながら陛下の心の片隅に深く根を張っている。……この宝石が『陛下からウリャーナ様へ贈られるはずだったもの』として彼女の元へ届いた時、嫉妬という名の猛毒が、彼女の理性を焼き切るでしょう」


「……貴方のやることは、いつも残酷ね。まるで、人の心の一番醜い場所を知り尽くしているみたい」


リタの言葉に、ブライは陶器のような白い指を唇に当てた。


「知っているのではなく体感しているので。……私自身が、その醜い欲望の犠牲となって、一度死んだからです」


---


数刻後、ジョルディが部屋を訪れた。

彼はブライが提示した「後宮攪乱工作」の全容を聞き、驚愕を隠せなかった。


「ブライ。貴公は、あえて皇太子の母であるシャハナーズを揺さぶるというのか。後宮の秩序を乱せば、父上の逆鱗に触れるリスクがあるぞ」


「殿下。水面を叩けば魚は逃げますが、水底に毒を流せば、大魚は自ら苦しんで浮上してくる。……今、皇太子オリオル殿下を支えているのは、軍権ではありません。母であるシャハナーズ様の、後宮における圧倒的な政治力です」


ブライは手にした扇を閉じて、卓上に広げられた図の「供給路」を断ち切るように薙いだ。


「彼女が嫉妬に狂い、ウリャーナ様を陥れようとして暴走すれば、それはそのまま皇太子の『汚点』となる。……陛下は、後宮の平穏を乱す者を最も嫌われる。シャハナーズ様が失脚すれば、オリオル殿下は、片翼をもがれたも同然です」


「……そして、その混乱の隙に、私が『救世主』として現れるわけか」


「左様です。……血を流すのは、常に他人であればいい。殿下はただ、汚れなき白い手で、落ちてきた果実を拾うだけでよろしい」


ジョルディは、ブライの冷徹な横顔を見つめ、背筋が凍るような高揚感を覚えた。

この男を敵に回さなくて本当に良かった。そう思わせること自体が、ブライの戦略の一部であることにも気づかずに。


---


翌日、後宮の南に位置するシャハナーズの住まう「紅玉宮」。

皇太子の母、シャハナーズは、匿名で届けられた小さな文箱を前に、顔を紅潮させていた。

中には、まばゆいばかりの紅い宝石と、一通の短い手紙が入っていた。


『陛下が、来月のウリャーナ嬪の誕生日のために、密かに職人に作らせていたものです。陛下のお心の片隅にはウリャーナ嬪が』


「……っ、ウリャーナ! あの卑しい女が!」


シャハナーズは、宝石を床に叩きつけた。宝石は柔らかい絨毯が衝撃を受け止め転がるのみで、それが彼女の心を逆撫でする。彼女の罵詈雑言が宮殿の壁を震わせる。

傍らで控えていた女官長カサンドラは、主人の荒れ狂う様を無表情で見守っていたが、その心には、得体の知れない「不吉な予感」が芽生えていた。


この贈り物を配下のものが聞きつけ、女官によってウリャーナに渡る前にシャハナーズの元へ来た。少なくともシャハナーズはそれを信じている。

それはシャハナーズの中に眠っていた嫉妬の炎に、油を注ぐには十分すぎた。


「カサンドラ! あの女を……あの女とマルクを、二度と陛下の前に立たせてはならない! どのような手段を使っても構わない。オリオルにとって大事な時期に陛下の心を掠め取るものがあってはならないわ!!今すぐ、あの親子を破滅させる計画を立てなさい!」


「……御意に。ですが、お妃様、慎重にならねば――」


「黙りなさい! 私を誰だと思っているの! 皇帝陛下の寵愛を一身に受けてきたのは、この私よ!オリオルを皇帝に就け、国母皇太后になるのもこの私よ!」


シャハナーズの瞳に宿ったのは、理性ではなく、純粋な狂気だった。皇后になれなかった女は、皇太后という立場が喉から手が出るほど欲していた。それ故に、冷静になれなくなる瞬間がある。

それこそが、ブライの狙い通りであった。


その夜、ブライはジョルディの別邸のテラスに出て、夜風に喉を冷ましていた。

リタが背後から、厚手の外套を彼に羽織らせる。


「……上手くいったわ。シャハナーズ様は、冷静さを失っている。……でも、これでマルク様まで危険に晒されることになる。本当に、それでいいの?」


リタの問いに、ブライは答えなかった。

彼は、遥か遠くに揺れる「静謐宮」の灯火を見つめていた。

そこには、自分を殺した過去の亡霊たちと、守るべき唯一の光であるマルクがいる。


「……マルク。君は、もう一度だけ地獄を見ることになるだろう」


ブライの掠れた声が、風に溶けて消える。


「だが、安心していい。……その地獄の蓋を開けた後、その蓋を再び閉めるのも私だ。……君が歩む王道のために、私はこの手で、全ての闇を焼き尽くす」


ブライの胸の奥で、毒の後遺症が激しく疼いた。

だが、その痛みさえも、彼にとっては復讐の甘美な旋律に過ぎなかった。


蜘蛛の糸は、既に帝国の心臓部にまで届いている。

あとは、誰がその糸に触れ、自らの首を絞めるのかを待つだけだ。

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