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第2章:毒を食らう賢者-其の四

帝都モン・セラの華やかな喧騒から切り離されたかのように、第3王子マルクが住まう「静謐宮せいひつきゅう」には、常に沈滞した空気が流れていた。

かつては「帝国の良心」と謳われた第3妃マリソルが愛したこの宮殿も、彼女の死後は、主を失った書斎のように、埃と沈黙に支配されている。


マルクは、月明かりだけが差し込む薄暗い部屋で、一冊の古い日誌を広げていた。

傍らには、老教育係エドワードが、蝋燭の火を絶やさぬよう静かに控えている。


「……エドワード。やはり、計算が合わない」


マルクの声は低く、どこか祈るような響きがあった。

彼の指がなぞっているのは、15年前の「垂緑軍すいりょくぐん」全滅に関する公式記録と、母マリソルが隠し持っていた私的な手記の対照表だった。


「公式の記録では、あの日、国庫北部の湿地帯は『十数年に一度の豪雨』に見舞われ、川が氾濫したことで、帝都からの援軍は進軍を阻まれたことになっている。……だが、母上の日記にはこうある。『今日も空はどこまでも青く、マルクとアシュレイは丘の上で日が暮れるまで木刀を振るっていた』と」


マルクは顔を上げ、エドワードを見つめた。その瞳には、深い困惑と、静かな怒りが混在していた。


「帝都と戦地は、早馬でわずか半日の距離だ。片や子供たちが遊び回れるほどの快晴、片や進軍不能なほどの大雨……。そんな気象の断絶が、人為的な意図なくして起こり得ると思うか?」


「……殿下。それは、私が15年間、喉に刺さった棘のように感じていた疑念でございます」


エドワードは重い口を開いた。


「当時、国境守備隊の指揮を執っていたのは、まだ年若い、しかし誰よりも才気溢れるアシュレイ殿でした。彼は第3王子殿下の学友であり、将来の帝国を背負うと期待されていた。……だからこそ、彼は『消されなければならなかった』。第2妃シャハナーズ様、あるいは皇太子派にとって、殿下の勢力が力をつけることは、何よりも忌むべき事態だったのです」


マルクは、机の上に置かれた「エメラルドの指輪」を手に取った。

母マリソルの形見。その裏側に彫られた極細の溝は、ルーペで覗き込めば、ある特定の進軍経路と、一つの「署名」を浮き彫りにする。


「……母上はこの真実に近づきすぎてしまった。だから、病死という名目で処刑されたんだ」


マルクの拳が、みしりと音を立てた。

彼はこれまで、政治という名の泥沼を避けて生きてきた。母を失い、友を失い、自らの無力さを呪いながら、本の中に逃げ込んでいた。だが、ブライという「賢者」が現れ、帝都の空気が変わり始めた今、彼の内側で眠っていた何かが、ついに牙を剥こうとしていた。


「エドワード。あの全滅の夜、現場にいたはずの生存者は、本当に一人もいないのか?」


「……記録上は、全滅。生存者はゼロとされております。ですが、奇妙な噂が一つだけございます。……焼かれた死体の中に、アレイシュ殿の身体的特徴と一致するものがなかった、という話です」


マルクの心臓が、大きく跳ねた。

「……生きて、いるのか? アレイシュが?」


「いいえ、期待はなさらぬよう。あの『腐食の霧』を浴びて生き残れる人間など、この世にはおりません。もし生きていたとしても、それは人間としての姿を保ってはいないでしょう。……ですが、殿下。最近、ジョルディ殿下が招き入れたというあの軍師……『ブライ』なる男。その立ち振る舞いが、どこか……」


「……ああ、私も聞いた」


マルクは立ち上がり、窓の外、遠くに光る第2王子の別邸を見つめた。


「掠れた声、陶器のような肌。……姿形は全く違う。私の記憶にあるアレイシュは、もっと太陽のように笑う少年だった。……だが、昨日、遠目に彼の横顔を見たとき、魂が震えたんだ。……あいつが、地獄の底から私を呼んでいるような……そんな、吐き気がするほどの懐かしさを感じた」


マルクの脳裏に、15年前の別れの日が蘇る。

「マルク、君がいつか皇帝になったら、僕は君の剣になろう」

そう言って笑ったアレイシュ。その少年が、今や誰の顔も見せず、闇の中でジョルディに策を授ける「軍師」として戻ってきたというのか。


「……もし彼がアレイシュなら、なぜ私の元へ来なかった」


マルクの呟きは、虚しく部屋に消えた。

エドワードは答えなかった。ただ、主君の孤独な背中を痛ましげに見つめるだけだった。


「……エドワード。私は、もう逃げない」


マルクは、母の指輪を自らの指に嵌めた。


「母が命を懸けて守ろうとした真実。そして、アシュレイを地獄へ突き落とした黒幕。……それを暴くためなら、私はこの手を血で汚しても構わない。ジョルディ兄上やオリオル兄上が権力を求めて踊るなら、私はその足元の地獄を暴き出してやる」


マルクの眼差しには、かつての穏やかさは消えていた。

それは、友を救えなかった後悔という名の毒を、自らの力へと変えた男の目だった。


その時、宮殿の庭から、微かな鳥の鳴き声が聞こえた。

それは義仲団の連絡用に使われる、特殊な口笛の合図だった。

ブライが放った「影」は、すでにこの静謐宮の奥深くまで入り込んでいたのである。


マルクは気づいていなかった。

自分が真実を追うその歩みさえも、ブライが描いた巨大な盤面の一部であり、自分が「太陽」として輝き続けることが、親友アレイシュにとっての唯一の救いであることを。


「……アレイシュ。君がどこにいても、私は君を見つけ出す。……たとえ、君が私を拒もうとも」


マルクの決意が、夜の静寂の中に溶けた。

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