序章:賢者の拾い物 ―一ヶ月前の密会―
帝都モン・セラを南北に分かつ運河のほとり。華やかな中央区から遠く離れ、石畳の隙間に泥が詰まった「水路街」の路地裏に、その酒場はあった。
『濁り月』
看板は長年の潮風と煤に焼かれて文字も判然とせず、店内に一歩足を踏み入れれば、澱んだ空気と安酒、そして湿った古木の腐敗臭が鼻を突く。ここは、真っ当な市民や官吏が足を踏み入れる場所ではない。給金の大半を酒に溶かした日雇い労働者や、名前を捨てた流れ者が、死ぬまでの時間を潰すためだけに集う、帝都の「吹き溜まり」である。
激しい雨が、帝都の全てを灰色に塗り潰していた。 『濁り月』の店内は、雨漏りの音と、誰のものとも知れぬ低い呻き声、そして時折響く雷鳴に支配されていた。 中堅文官であるルイスがこの卑俗な場所を選んだのは、趣味ではない。「誰も自分を知らない場所」でなければならなかったからだ。 高級な料亭や会員制の酒場には、必ず政敵の息がかかった密偵や、噂好きの官吏がいる。彼はエリートとしての自尊心を捨て、泥にまみれることで、束の間の「透明な時間」を買ったのである。
その最奥の卓で、ルイスは、死人のような顔で安酒を煽っていた。卓上に広げられたのは、本来持ち出し厳禁であるはずの「軍需品調達台帳」の写しだ。
「……終わりだ。明日には、近衛が私の首を獲りに来る」
ルイスは、政敵が仕組んだあまりに完璧な「罠」に絶望していた。彼の署名が記されたその台帳には、身に覚えのない巨額の横領記録が、あたかも事実であるかのように居座っている。
その時、雨音を切り裂くように、地を這うような掠れた声が響いた。
「……その『九』という数字、あまりに不自然だと思いませんか」
ルイスが跳ねるように顔を上げると、そこには深々とフードを被り、顔を薄布で覆った影が立っていた。男は断りもなく対面に座ると、布で覆われた口元から、熱鉄で焼かれたような掠れ声で言葉を紡ぐ。
「ひ……っ! 誰だ! 役人か? それともあいつらの回し者か!」
声の主は、ボロボロのフードを深く被ったまま、隣の席に腰を下ろした。 男の周りだけ、雨の冷気がそのまま居座っているような錯覚を覚える。
「私はフェランと名乗っています。通りすがりの病人に過ぎません。ただ……あまりに拙い『嘘』が紙の上で踊っているのを見過ごせなかった」
男――フェランと名乗ったその影は、細く白い指先で台帳の一箇所を指し示した。
「三月前の十四日。この記録によれば、貴殿は百頭分の軍馬の飼料を受け取ったことになっている。……だが、ルイス殿。貴殿はその日、この帝都を襲った記録的な大雨をお忘れですか?」
ルイスは困惑した。大雨? それが一体何だというのか。
「あの日、帝都の主要道路は川のように溢れ、荷馬車の通行は一切が禁じられていた。その中で、百頭分もの飼料を運び込むなど、魔法使いでもなければ不可能です。……しかし、この台帳には『定刻通りの納品』とある。貴殿の署名と共に」
フェランは懐から、一振りの小刀を取り出した。彼は台帳を乱暴に扱うこともなく、その背表紙の綴じ目を、外科医のような手つきで器用に割いた。
「……さらに見なさい。この台帳の紙は、ダルワーズ侯爵領で作られた特注品だ。だが、この綴じ紐だけは、あえて安価な『西方の麻』が使われている」
「……紐? それがどうしたというんだ!」
「西方の麻は、水分を含むとわずかに青く変色する性質がある。もしこの台帳が、あの豪雨の中、現場で記帳されていた本物なら、綴じ紐は雨を吸い、芯まで青く染まっていなければならない。……だが、見てのとおり。この紐は、生まれたてのように白く、乾いている」
ルイスは、言葉を失った。 目の前の男は、たった一目見ただけで、紙の出所、数ヶ月前の天候、そして素材の化学反応までもを繋ぎ合わせたのだ。
「……つまり、この台帳は後から差し替えられた偽造品。それも、雨の日の状況を現場で見ていない、温室育ちの役人が机の上で作り上げたお粗末な空想です。……明朝、監査官が来たらこう言いなさい。『台帳を水に浸けてみろ。紐が青まぬなら、それは偽物だ』と」
フェランは布越しに、自らの顎をなぞった。
「犯人は、西方の麻を独占的に扱う商会と繋がっている者。……貴殿を告発した男、そのその人だ」
ルイスは震える手で、フェランの袖を掴んだ。 「……なぜだ。なぜ私を助ける? 貴方は、一体……」
「……私は、静かな寝床を探している病人だと言ったはずです。……ルイス殿。私は貴殿の命を救い、失いかけた名誉を倍にして返す手助けができます。その代わり……私は貴殿の屋敷の奥で、ただの『フェラン』として休ませてはもらえないだろうか」
フェランの瞳が、布の隙間から冷たく光った。
「私を客人として迎え、誰が訪ねてこようとも、あなたは私をただの旅人であると証言する。……それが対価では如何か。……外は土砂降りだ。監査官が来るまで、まだ時間はたっぷりある。……私の言う通りにすれば、貴殿は明日も、その立派な外套を着ていられるだろう」
ルイスは、目の前の「怪物」の瞳に、抗いがたい希望を見出した。 この澱んだ酒場に、これほどまでの知性が存在するはずがない。だが、そのあり得ない現実こそが、今の彼にとって唯一の救いだった。
こうしてルイスは絶望の淵から生還した。 だが、彼が屋敷に連れ帰った「病人」が、一ヶ月後、大陸の頂点に立つ叡智――ブライという名の怪物であると知ったとき、ルイスは悟った。
自分はただの病がちな旅人に救われたのではない。 帝国を丸ごと焼き尽くす、青い炎を招き入れてしまったのだということを。




