第8話 白湯の温もりに融ける気持ち
「ほらね、やっぱり水の音じゃない?」
振り返ったマナ姉は言った。その黒目は大きく開かれて、期待があふれ出してきそう。
バタバタと地面を踏みつけ、いてもたってもいられない様子だ。
この調子なら、膝はなんともないんだろう。よかった。
「おおお、やった……」
少し声が震える。
嬉しさに、何の止めるものもなく感情が湧き出てくるのだ。
だって、この森で目を覚ましてさまよって、初めて成果らしい成果が出たかもしれないから。
昨日、マナ姉の足が限界になった場所で、大きめの木の幹に印をつけていた。
今日はそこから1時間ほど歩いただろうか。
小休止を何度か挟み、歩いた先で、最初に違和感に気づいたのは俺だった。それにマナ姉が川かもしれないと教えてくれた。
きっと今日だから気づくことができた。昨日ならどちらかの言葉が欠けて、通り過ぎていたかもしれない。
かすかに聞こえたドドドという音。
嬉しい違和感だった。
そこから、川が近いと推測し、俺たちは音の鳴る方へと向かった。
音が次第に大きくなる。
目に見えて木々の数が少なくなっていき、視界が開ける。
さきほどまであった無数の雑草の絨毯が、石混じりに変わっていく。
苔むした丸い岩があちこちに並んでいる。その間を潜り抜けるように、透明なきらめきが見えた。
目の前には右から左へ流れる水。ここまで渇きに飢えた俺にとってはなんとも瑞々しい水だった。
「川だー!」
向こう岸まで石を投げれば届きそうな幅だが、流れが速そうだ。入ったら留まることは難しいかもしれない。
口を潤すまでもなく、見ているだけでみるみる口の中が潤っていくのを感じた。
足が軽くなる。翼が生えそうだ。
まるで空気まで潤っているように感じる。
俺はごつごつとした足元を確かめるように岩から岩へと、踏み出そうとし、
「待ちなさい!」
ぴたりと体が止まる。そう、止まらなければいけない、俺たちはそう約束したばかりだった。
楓の葉より少し大きい程度の小さな手のひらが、2つ。しっかりと俺の二の腕をつかまえていた。
マナ姉は少し体温が高いのか、掴まれたあたりにじんわりとぬくもりが溜まっていく。
そうして体を止めることを先行させ、次に落ち着いて疑問を呈すことにした。
――なんでだ。
そう、せっかく念願の水を見つけたのに。
あとは水辺に近づいて、両手でじゃぶじゃぶと水を持ち上げ、
『ヒャッハー、うめええぞおおおお‼』
などと世紀末に跋扈するモヒカン野郎どものごとく、浴びるほどの水を浴びるように浴びるだけなのに。……世紀末しぐさはいろいろ渋滞する。
だが同盟相手の言うことだ。だから素直に耳を傾けた。
「念のため煮沸するわよ」
ぴっと人差し指を立てるマナ姉。つり気味の眉毛は天を打ち抜くようで、絶対に譲らない何かを示していた。
ん~、しゃふつ?沸騰か。
「え、お湯作るの?」
そういうこと、とマナ姉。
「アンタは知らないかもだけどね、自然の水とか意外と危ないのよ。寄生虫とか」
川の水は動物にとっても貴重な水源だ。寄生虫や病気のもとになる糞尿など混じっているかもしれない。
しっかり熱で殺菌しないといけない。つまりはそういうことだった。
「え、まじで? こんなに綺麗なのに?」
川の水は岩々で様々に流れが入れ替わり、ところどころ泡立っている。
だが、流れが穏やかな隅の方では、水は見事なまでに透き通り川底がよく見える。
魚だって泳いでいるんじゃないか?
「脳みそボーンてなりたかったら止めないわよ!」
マナ姉は、頭に両手を添えると、そのままその目いっぱい外に手を投げ出し、ボーンを表す。
そのしぐさがあまりにかわいらしく、話の内容はシリアスなのに、ちぐはぐでなんだか微笑ましい。
「はい、止めてくださりありがとうございます姉上」
「よろしい」
フンスと鼻から息を出すマナ姉。胸の前で組んだ腕が、めいっぱい『どやぁっ』としている。
俺は同盟の絆を強固にしたようだ。
「そのまま飲めないなら、どうやって火のところまで持っていく?」
しばし思案顔のマナ姉。
「そうねぇ」
言って、俺とマナ姉は同時にぽんと手を打った。
「「KDコーヒー缶!」」
前世?から持ってきた持ち物の一つ。
中身は道中での貴重な栄養源であり水分(……としては甘すぎて微妙だが)だったが、既に二人で消費していた。
なんとなく空き缶をビニル袋に入れたまま持ち歩いていたが、ここにきて役に立ちそうだ。
これなら水を入れて直接火に当ててもたぶん大丈夫。
「アンタが甘党で助かったわ。でも、ま、買ってあげたのはアタシなんだから感謝してよね‼」
にひひと笑うマナ姉。
か、勘違いしないでよね、別に感謝なんてしないんだから。
マナ姉、やっぱり事故より前の、元の調子に戻ってきてるってことでいいのかな?
それとも、そもそも記憶喪失なんて、俺の思い込みでしかなかったのだろうか。
「ひとまず、吹きこぼれてもいいから汲めるだけ汲んでいきましょ」
「おまかせあれい」
俺は、さきほどから再び俺の腕を固くつかんでいたマナ姉の手を、やんわりと外した。
マナ姉の口の端が少し下がる。手を離すのは少し不服なのか。
しかしどうか見守っていてほしい。
ここは岩が水に濡れて足元が滑りやすい。見るからに軽いマナ姉ではうっかり流されてしまう。こういう場所での作業は体重のある俺の出番だ。
じっと、水面を眺めた。入ったら立ったまま潜れそうな程度には深そうだが、底までよく見えている。
川の中央の方で2匹の魚が目に入った。お互いつかず離れず、川の流れに戻されつつも進み、その場にとどまっていた。
◇◇◇◇
俺たちは焚き火を囲んでいた。
マナ姉監修の即席コンロだ。
缶が倒れないように手ごろな岩を3つ並べて囲みを作り、その上にコーヒー缶を固定した。岩の間には、乾いた葉っぱや枝をくべて燃やしている。
コーヒー缶は、その半身を煤で曇らせ、口から白い湯気を立ち昇らせはじめている。
「なんか、ただの水のはずなのにとっても贅沢な気分」
うきうきとした様子で、待つマナ姉。
対面の俺は、そうだね、と返事した。
なんだろう、ちょっと目が熱いかも。煙にやられてしまったかもしれない。
沸騰して数分経っただろうか、汲んだのはアンタだからと、俺は先に口をつけることを許された。
缶の縁をつまむように持ち、口に持っていく。
「……あちっ!」
思わずお尻が浮き、缶を落としそうになる。あっつ。
唇と舌がひりひりする。
「バカね、もっとフーフーしなさいよ」
よこしなさいと手を出すマナ姉。缶を受け取るなり、口をすぼめて息を吹きかける。
あ、たぶんまだ、
「あひゅっ、あつつつ……」
言わんこっちゃない。
見てられず覆った手の隙間から、目を白黒させたマナ姉と視線がぶつかる。
「……ふふっ」
「……なんだよ」
「……あははは!」
気が付いたら、どちらともなく笑いだしていた。
ドドドという無機質な音に、息のある音が混じっていく。
一つの缶を交互に交わし、少しずつ、大切に胃の中に流し込む。
火傷した舌の痛みですら、お互いに分け合っているように感じた。
「……マナ姉、ありがとな」
「……何がよ、改まって」
「いや、煮沸とか。俺一人だったら、本当に脳みそボーンだったかも」
やっぱり、この森では、俺だけではとうてい生き延びることができない。
「マナ姉がいてくれて、本当に良かった」
そう言った瞬間、これまで当たり前だと思っていたことに、心から感謝している自分に気づいた。
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じる。
マナ姉は何も言わず下を向いた。
水気の多い、しっとりとした風が顔を撫でていく。
「……こっちこそ、ごめんね」
ぽつりと、呟く姉。なにがだろう?
「アタシ、昨日アンタにひどく当たってたでしょ」
特製コンロの火が、大きくぱちりと鳴く。
顔を上げるマナ姉。その瞳は、わずかに潤いを帯びているようだった。




