第21話 マナ姉ちゃん
澄んだ空気がすがすがしい夕方。
私はミナトと街を歩いていた。
ミナトは私より頭一つほど小さい、弟だ。
この4つ下の弟がやや仏頂面なのは、こたつでぬくぬくしようとしていたところを無理やり外に連れ出したからだ。
明らかに一日中そこから動かないと決めた様子だったのだ。あのままだとこたつと同化していたかもしれない。
危ないところだったのだ、感謝してほしい。
「缶コーヒー1本で釣れるとは、まだまだちょろいねキミ」
私が言うとミナトは明後日の方を見た。
「……KDコーヒーには勝てなかったよ」
照れると鼻をかくクセが抜けてないぞ、キミ。
分かっている、弟クンはお姉ちゃんに甘いのだ。おそらくそのコーヒーよりも。
――でも、最近はこうして並んで歩くこと自体、少なくなった気がする。
中学2年生になって、ミナトは変わってしまった。
中1の頃までは、まだまだ、宿題が分からないとか、スパイクの紐が切れたとか、どうでもいい理由で私の部屋まで来ていた。
「マナ姉、本棚の悪役令嬢モノの漫画、増えすぎだろ」
「あんたも読みなさい、面白いから」
とか、どうでもいい会話をしている時間が心地よかった。
大好きなサッカーで、結果が出なくて、話題に出すのも嫌そうな時期もあった。
そんな日は決まって、頭を撫でてあげたりしてた。ちょっと照れてるけど、拒んだりはしなかった。
けれど、中2になって、急にグンと体が大きくなった。体が出来上がってきたのか、努力が実ったのか、その両方なのか。
「今日は試合に出れた!」と信じられないくらい嬉しそうに報告してくるようになった。
……その代わり、私の部屋に来ることは、ほとんどなくなった。
それでも、手を出せばまだ繋いでくれると思っていた。
「花だけじゃなかったのかよ......野菜が重いんですけどー」
文句を垂れるな、がんばれ男の子。
弟には仏花一束と、イオンで買ったカレーの材料の入った袋を持たせた。私が持つのは仏壇用に買ったライターだけだ。
今日はお母ちゃんの命日だった。
お母ちゃんのカレーは、市販のルーを掛け合わせた絶品だった。だから、お母ちゃんを想う日はカレーに限る。
「お母ちゃんの命日なんだから、いいでしょ」
何か言いたそうな、けど言葉が見つからないといった顔をする弟。
分かってないな。
あんたも好きでしょ、カレー。
「帰ったらすぐカレー作るからね。あんた、また玉ねぎ泣きながら切る役~」
えええ、あんまりだ、とミナトは眉を寄せる。
玉ねぎを切る役であって、悲劇の主人公の配役じゃないんだけどな。
切る前から泣きそうな顔をしてどうするの。
――かつて私は、ミナトの泣き顔が嫌いだった。
泣いてお母ちゃんを独占する弟に、いつもムカついていた。
お母ちゃんは私のお母ちゃんなのに。構われるのはいつも弟。
「マナちゃん、マナちゃん」と、私の名前を呼んでくるのすら、生意気で憎らしかった。
こんなやつ、いなくなればいいのになんて思ったことすらあった。
そんな私に、転機が訪れた。
お母ちゃんが亡くなって間もないころ、お父ちゃんがセレンディリーランドに連れて行ってくれたことがあった。
たぶん、私たちを励まそうとしてくれたのだ。
うれしかった。初めて目の前に広がる、夢の国の景色に、私もミナトもはしゃいだ。
「マナ、ミナトは?」
気がついたら、ミナトの姿だけが消えていた。
探しに探し、やっと見つけたと思ったミナトは、一人泣いていた。
お母ちゃんに似た後ろ姿の女性について行ってしまったらしい。
「母ちゃん、いなかった。……マナちゃんは、ずっといてくれるの?」
ちくりと、胸が痛む。この痛みは、私と、ミナトの痛みだ。
私と同じ痛みを持ち、私よりもか弱い存在を、私が守らないでどうする。
たまらなくなり、ミナトを引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
「マナちゃんじゃないよ。マナ姉と呼びな」
ミナトは胸のなかでもぞもぞと顔を出し、涙を潤ませながら、にへらっと笑った。
ずっと嫌いだったはずのその泣き顔が、どうしようもなく愛おしかった。
金属のこすれる、耳障りな音がする。このあたりは再開発中の区域だ。
年末が近いのもあって、工事現場の人たちは忙しそうにしている。
仮囲いのフェンスが歩道まで出ていてやや道が狭まっている。
「このあたり、なんか怖いね……歩道狭いし、道路に出ないようにね」
車通りも激しい。
背中越しに後ろを歩くミナトに、縁石の上を歩いていた小学生の頃のミナトを重ねた。
何の気なしに、ミナトの手を取る。
「手まで繋がなくても……大丈夫だよ」
……また鼻をかいてる、分かってるよ。手を振りほどいたりしないことも、分かってる。
ミナトは基本的にお姉ちゃんに優しいのだ。お姉ちゃん子なのだから。
また、手大きくなったね。でももうしばらく、そのままのミナトでいてくれるよね。
私は試すように、少し冷たい手をやんわりと包み直した。
──僅かな、空気のずれを感じた。
なぜか分からないけど、肌が粟立つ。
得体のしれない不気味さを、頭上に感じた。
視界がコマ送りのようにゆっくりと進む。
見たくはない、見たくはないのだけれど。
私は、空を見上げるほかなかった。
最初、それは空に生えたヒビ割れに見えた。
けど次のコマではヒビは明確な輪郭を持ち、さらに次のコマでは、それが茶色の大きな鉄骨の束であることは疑いようがなかった。
見るからに大質量を伴うそれらは、次第に視界を埋めていく。
もう避けられないと理解したとき、世界から、音が消えた。
私は迷わなかった。
何を守るべきかは、明確だった。
ぎゅっと、ミナトの手を握る。絶対に離すものか。
「ミナトッ!」
ミナトを強引に引き寄せ、そのまま覆いかぶさる。
頭を打たないように抱え込み、そのまま胸でおしつぶした。
……苦しいよね、ごめん。
襲ってくる衝撃に視界が白くなる。
かすむ意識の中、私は抱きしめる胸の中に既視感を感じていた。
またもう一度、泣きながらにへらって笑ってくれるかな?




