第2話 アンガーマネジメントスキルで6秒我慢と言われても
亀裂は次第に新しいひびをいくつも発生させながら、より太く長く成長していく。
その様子はきわめて無機質でありながら、貪欲かつ暴力的に感じられた。
うわ怖っ……。
死ぬ前に、見上げた空から落下してきた鉄骨を思い出す。
あの鉄骨は空に浮かぶ輪郭の無い影のようだったが、この亀裂もひびも輪郭はあいまいだ。
「自動化が中途半端なのよね、ワンオペ増えるの勘弁してほしいわ」
言いながら女神は、いそいそと手袋を外す。
「それじゃ1人用KY活動ね。え~と、この作業リスクは、魂を送り込むときに手袋が時空乱流に巻き込まれるかもしれない。対策、手袋を外す」
一人でぶつぶつつぶやきながら女神は端末に書き込んでいく。
ところで空気読めない活動ってなんだ。空気が読めないから1人用なのか?
「じゃぁ次は掛け声ね。魂をシステムに送り込むときは手袋を外し、手の巻き込まれに注意しよう」
女神は、自身の左手を右手で指さしし、「手袋外しヨシ」などと言った。
なんだろ? 作業の危なそうなところを自分に言い聞かせてる、のか。
「そんな入念にやる必要あるんですか?」
「何言ってるの、ヒヤリハット・キガカリ、危険予知活動に改善提案。リスクを感じ、考え、準備した先に、安全は保障されるのよ」
なんだそりゃ。ヒヤリハット? ひらりマントみたいな? 専門用語かな。
「さ、『トンネル』に飛び込んで、ほら、KY終えたから、もう何も怖くない。少なくとも私は」
背中押さないで。
足に力を入れてとどまろうとした。
無駄な抵抗な気はするけど。
「いや、普通『トンネル』っていったら、ちゃんと入れそうな形を想像しますよね……」
目の前に広がるのは明らかに肩幅よりすこし広いくらいの亀裂で、かつその縦幅は指先よりも少し大きい程度しかなかった。
穴ってより、割れ目だよね。明らかに頭が通れないよね。
「ほら、割れ目に手をいれてごらんなさい」
いたたた、力つよっ。
女神は俺の手首をつかむと、亀裂に差し入れようとしてくる。
せめて割れ目なのを否定してほしかった。
あーっ、だから手の巻き込まれを気にしてたのか。
「あの、ここから入れる保険は……」
「そんなんあったらここに来てないでしょー。残業時間やばいんですから早く」
躊躇なくグイグイと腕を押し込まれる! 一気に右手の手首まで亀裂の中に入ってしまった。
そんな殺生な! あ、もう死んでるんだった。
「うわぁ……」
ちょ、引っ張っても抜けないんですけどこれ。
それどころか、だんだん、飲み込んでいってません?
「あ、この袋も持ってってくださいね、ウチじゃ処理する場所ないんで」
女神はカレールーや玉ねぎの入ったビニル袋を持ち上げ、割れ目に押し入れる。
なんの抵抗もなく亀裂に呑み込まれていく袋に、俺はごみ収集車のような既視感を覚えた。
「あ、そうそう、ひとつ言い忘れてました」
この状況で保険以外の話が出てくるのか。
「さっき、元の世界から、別の世界に魂を移すって言いましたよね」
……なんかいやな予感がする。
「世界同士の互換性の関係から、エラーで元の体の情報が一部再現されないことがあったりするんです。まぁ発生率の低いエラーだし、大したことないんで安心してください」
……バチクソいやな予感がする。
「例えば、髪の毛の色とか――」
そう言って女神は、ぴっと人差し指を立てる。
俺は自分の髪が黒から金髪になった姿を想像する。
中学にもなると、部活の友達にも似たような髪の奴はいた。
それくらいなら……まぁ。赤とか緑はイヤかもだけど。
だが女神は、無慈悲に中指、お姉さん指と続けて立てていく。
「――年齢とか、性別とか。些細なデータですよね」
おい、……おい‼
「手順書に載ってないから、うっかり説明を飛ばすところでした」
舌を出す女神。
可愛さで誤魔化すな。
捕まえて抗議したいが、既に肘まで飲み込まれた腕は動かず、まさに手詰まりだった。
絶対この状況に追い込んでから説明したんだろ‼ 6秒数えるぞおい。
「こういう役割やってると、多いんですよね……無いものねだりする人」
はぁ、とため息。
「……やっぱり」
さっきのスキルの話、根に持ってたのか。
亀裂はいつのまにか肩まで飲み込んでいた。
っていうか、飲み込まれた先の腕の感覚がないんですけど。
「スキルなんて無くても、幸運や良縁っていうのはね、準備した者に訪れるんですよ」
もう頭も飲み込まれそうだ。割れ目がこんなに狭いのに……。
女神は続けた。これが、俺が聞いた最後のセリフだった。
「あなたのこれまでの準備はいかほどかしら、ね」
……俺は性転換ショタロリ転生の主人公だったのかもしれない。
◇◇◇
……チチチ、と鳥のさえずりが聞こえた。
真っ暗な世界から外の光を感じる。
背中がしっかりと支えられている感触を感じる。
薄目から入ってくる、白色のまばゆい光に、喉から声が漏れた。
なぜか白衣のようなイメージが頭をよぎる。
空気を吸えば草木の香りが鼻を通っていく。
……。
「あれ? 俺、さっきまで教室、に……」
とたんに頭に降ってくる女神とのやり取りの記憶。
……。
寝てる場合じゃない‼
性別。まずはそこを確認しないと俺は心が折れる。
すぐさま上体を起こすと、立ち上がり、真っ先にズボンとパンツを一気に下げた。
そして問題の箇所を覗きこみ――。
「……よかった、俺の尊厳、ちゃんとある」
力が、抜ける。TSじゃなかった、よかった。
膝から崩れ落ちた。
「……ミナト? あんた何してんの⁉」
ちょ、えっ。
この声、マナ姉⁉
期待と羞恥を抱いて顔を上げたら――。
小1くらいの背丈の、女の子がこちらを見ていた。
その目は、汚物を見るようだった。




