第14話 スパイスの効いた食卓で
「ミナト、今夜はカレーを作るわよ」
家の扉をぴしゃんと閉め、振り返るなりマナ姉は言った。
まだ明るさの残る外の景色が唐突に遮られ、ほのかに色を落とした室内で俺の目は戸惑う。
初めてのレンタル移籍をなんとか無事に終え、ユウリさんは俺を家まで送り届けてくれた。そのユウリさんにさよならの挨拶をし終えたばかりのことだった。
うちのカレーと言えば相田マナだ。元の世界で、相田家の台所を預かっていたマナ姉は、ひと月に2回はカレーライスを作ってくれた。
時々お父ちゃんも作ってくれることがあったが、俺は圧倒的にマナ姉の作るカレーの方が好きだ。なぜかは分からない。
ちょうど俺が部活の練習から帰るくらいの時間に、マナ姉はいつも台所で包丁を持っていた。
にんにくや玉ねぎ、サラダ油の匂いが10畳リビングに充満し、それがスパイスの効いた香りに置換され、部屋のどこにいても胃をくすぐっていたものだった。
「まずは、今日のメインの下ごしらえね」
姉の声に、瞬く間に視界のピントが戻る。記憶の中のリビングに漂っていた匂いは消え、代わりに鼻をついたのは、足元の袋から漏れ出す獣の臭いだった。
袋からブツを取り出すマナ姉。これを見てから、今日はカレーを作ると決めたのだろう。
今日の狩猟の成果、熊の足の肉だ。
俺の方で既に血を抜き、皮を剥いだものである。やり方はユウリさんが丁寧に教えてくれた。
マナ姉は熊肉にナイフを入れ、一口大に切り分けていく。そして切ったそばから鍋の水に浸し火をかける。
鍋に入れたとたん、どこからともなく熊の毛が水面に浮いてきた。
「ちょっとこれ、グロテスクじゃね? 人の毛に見えなくもないっていうか……」
皮を剥ぐときに、毛が混ざらないように気をつけたんだけどな。
事前に話には聞いていたけど、やはり見た目きついものがある。
「ちょっ、言わないでよ……せっかく想像しないようにしてたのに」
言いながらも、とにかく鍋の外に毛を掬いだす姉。
いつ途切れるかもわからない、毛との闘いが幕を開けたのだった。
沸騰直前でお湯を捨て、また水を注ぎ火をかける。繰り返すうちに浮いてくる毛もわずかになった。
「そうやって煮込みを繰り返せば、臭みが抜けるんだってさ」
春の熊はやや臭みが強いらしい。秋はもう少しマシ、ということらしいが。
「ユウリさんが言ってた」
マナ姉は入念に鍋を傾け、「ふぅん」と言いながらお湯を捨てていく。
「あ、そうそう、今日依頼のついでに香草採ってきたの。一緒に煮込んだら臭い消しに使えるかも?」
「どうだろ、いけるんじゃね?」
そういや、今日途中の森にいたな、マナ姉。
臭み抜きを始めてから30分ほど経過しただろうか。
ぷく、ぷくと泡を立てるお湯。
マナ姉は水面に浮かんでくる熊の毛を、1つ、また1つと器用にお玉で掬い取っていった。
慣れてきたのだろうか、その所作には無駄がない。
「……狩猟、がんばったんだね」
ぽつりとつぶやく姉。
「ん、これがさ、情けない話もちょっとあるんだけどさ」
俺は熊を捕まえるに至った顛末を話しはじめた。
熊と出会いがしらに叫んでしまったこと。
腰を抜かしながらも、木の陰に隠れて距離を取ったこと。
最後には死にそうな思いをしながらも、ユウリさんに助けられ、なんとか決められた場所に熊を追い込んだこと。
姉ちゃんは、俺が情けないピンチに陥れば笑い、凌いだところでなあんだと息を吐く。
なんだとはなんだ、死にそうだったんだぞ、と俺は姉の顔を覗き込む。
その瞳の端に、ちらりと光るものが見えた気がした。
「姉ちゃん?」
俺の視線から察したのか、マナ姉は目を拭ってしまった。
「……あ、あ~あ、ついにミナトに先越されちゃったか」
わざとらしく明後日の方を見るマナ姉。
考えてみればそうだ。
今日俺は初めてマナ姉とは違う依頼仕事をこなしたのだ。
年齢制限に引っかかるマナ姉にはどうしたってできない仕事だ。
俺は、あの森で目の前のバナナに手の届かなかったマナ姉を思い出した。
あのときの俺は、その場で軽はずみに手を差し伸べて、姉の自尊心を傷つけたと思う。
「俺、待ってるから」
だから今度は、手を差し伸べるより、何もしないことを選んだ。
スンと鼻を鳴らす姉。
「……うん、そうね、待ってて――」
「早く肉の下ごしらえが終わるの、待ってるから」
遮るように言ってやった。
「アンタね!」
これぐらいがきっと、今はちょうどいい。
「ったく、アンタはアレでも切ってなさい」
ほら、と姉は壁の方を指さす。
壁には玉ねぎが3個ほど、紐で縛って吊るしてあった。
「姉ちゃん、ことあるごとに俺に玉ねぎ切らせるよな」
「あはっ、泣いちゃえ」
「中一男子の目潤ませてもどこにも需要無いぞ」
俺はしぶしぶ玉ねぎを取り、ナイフを手に構えた。
姉はと言うと、首をきょろきょろと回していた。玄関と、窓の方見てる?
「姉ちゃん、危ないだろ。ニンニク刻みながらよそ見すんなよ」
「いや、なんかね。昔っからこういう美味しいタイミングで誰かが部屋に入ってくる気がしてね」
「美味しいってなんだよ。そもそも誰が入ってくるのさ」
「誰って、誰だろうね。お父ちゃんとか……縞ゴリラとか?」
「ねーよ」
ありえない。ひと思いに玉ねぎにナイフを通すと、思った以上に目に染みてきた。
袖で涙を拭う横で目に入ったのは、んふ~と鼻から息を出す姉。
なんだその誇らしそうな顔は。
「ほら、危ないって言ったろ」
姉の手元の鍋には火がかかり、早々に熱を帯びた油にニンニクがぱちりぱちりと跳ね始めていた。
「慣れてるからいいのよ。玉ねぎ、切ったやつからちょうだい」
ジャァという音。玉ねぎから弾け出た蒸気が、ニンニク、油の香りとともに、薄暗い部屋に満ちていく。
「これ炒めてる匂い、俺めっちゃ好き」
「古代ローマ時代の下水道と同じ匂いらしいわよ」
「うへぇ、なんだそれ。そもそもなんでそんな匂い知ってるのさ、マナ姉?」
「知ーらない、いま令和でしょ」
わざとらしく舌を出す7歳児。
知らないんかい。てか、そもそも古代ローマにカレーがあったのか? 謎は尽きない。
俺はテーブルに置かれたランタンに火をさし向けた。気が付いたら、指の影がさっきよりも濃くなっていた。
調理を始めてからかれこれ2時間ほどが経過しただろうか。
慣れ親しんだスパイスの香りが部屋を満たしている。
ここ異世界の食卓に、ついにカレーの皿が並んだ。その横に、マナ姉が付け合わせのパンを置いていく。
カレールーはあっちの世界から持ってきたとっておきだ。どこかとっておきのタイミングで食べようということにしていた。
熊肉を前にしたマナ姉にとっては、今日がその時、ということだったんだろう。
「「いただきます」」
揃っての合掌の後、しばしの静寂が訪れた。
俺は合わせていた手を離すと、向かいに座っている頭一つ低い姉を見る。
マナ姉は目を閉じ、胸の前で手を合わせたままだ。
この時間はいつも、姉がこの場にとどまることで時間が止められているかのような錯覚を覚える。
わずかに上下に揺れる肩の動きから、かろうじて時が動いているのだと理解する。
7歳の姿になっても、姉の所作は完璧だった。我が姉ながら、そのあり様の美しさに、息をのんでしまう。
たっぷりと20秒ほどの時間をかけ、姉の目が開くのを確認してから、俺はちぎったパンをカレーに差し込んだ。
口の中でほろりと崩れた肉は、牛とも豚とも違う、野生の臭いをかすかに残していた。
少し硬くて、でも噛むほどに旨味が広がって……。
「辛っ」
口の中に予想の外の痛みを覚える。
マナ姉は、口の端をにやりと上げ、カレールーの箱を2個取り出す。
目の前にぶらりと下げられた箱は、2箱とも封が開いていた。
「ミナト覚えてない?お母ちゃんのカレー。いろんなルーが混ざってて、ちょっと辛くてもいけるんだよ」
言って、パッケージを見せつけてくる。
さすがニオンスーパーで買い、転生ゲートを抜け、森のサバイバルや縞ゴリラからともに生き延びたカレールーだ。どことなく箱の面構えが違う。というか色が赤い。
両方ともブランドの異なる、辛口だった。
「マナ姉、辛党だからなー。」
「アンタ普段甘口しか食べないもんね。自分で選んだ辛さなら、準備すればいくらでも食べられるはずよ」
ふふん、と不敵に笑みをこぼす姉。
人生の教訓みたいに言わないでほしい。辛い物は辛い。そもそも俺は選んでないんですけど。
「辛っ」
今の声は俺じゃない。
ひ~んと舌を出すマナ姉。その目線は、裏切られた理由を探して上空をふらふらとうろついていた。
……ああそうか、今はお子様の舌なのか。
「さ、残さず食べようか、マナ姉」
辛口と書かれた赤い箱たちが、テーブルの上でランプの灯にゆらゆらと暖色をまとう。
ハチミツリンゴに、南国の島の定番カレー。
家庭をシンボルに掲げるカレーメーカーもまさか思いもよるまい。自分たちの製造したカレールーが、異世界の家庭の団らんをも彩っているだなんて。




