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第11話 白い壁はとおく、ふたりはちかく

 じりつく陽光が背中を(あぶ)る。だがいっこうに温度を感じられない。

 人を二人平らげてもまだ足りないような巨体は、身動ぎせず、じっとこちらを見ている。


 (しま)ゴリラのその不揃いの目から注がれる紅い視線に、俺たちはその場で(はりつけ)にされていた。

 湿度を含んだ風が、首筋を()ぜ抜けていく。その風が、大地に広がる足の長い草たちを重たく揺らしていく。

 

 ふっ、とゴリラの目線が、こちらを離れる。


 俺達に興味を失くしたのだろうか、背中を向け、手元の鹿に再び手を伸ばす様子を見せた。

 金縛りが解けたかのように、俺はぎこちなく首を動かした。

 マナ姉を見下ろすと、マナ姉もまた俺を見上げていた。

 

「急いで離れるわよ」

 

 コソっとつぶやく姉に、衣擦(きぬず)れの音すらでないようにゆっくりと俺は(うなず)いた。

 

 俺達はゴリラのいる川辺と反対の草原の方へ小走りを始める。

 走り出してすぐに視界からマナ姉が消えそうになり止まった。俺の走り幅が、小1のマナ姉より圧倒的に大きいのだ。

 手を差し出すと、マナ姉はまた親指を掴んでくれた。

 だが、俺はマナ姉の手首を掴み直す。今は変に離してほしくないんだ。

 マナ姉は何も言わなかった。四の五の気にしている場合じゃないのだ。

 

 視界の端から川が消える頃には、早くも息が苦しくなってきた。

 時折ぶつかりそうになり、小木や草を避ける。

 足の裏には変わらぬ乾いた土の感触。変わったのは俺の脚の重さ。

 うるさくなってきた俺の心臓。


 ああくそ、部活の練習でもシャトルランは苦手だったんだよな。

 止まりたくなる気持ちを、つないだ手の感触でかろうじて抑え込む。

 

 スピードを緩めて、マナ姉を見た。マナ姉も苦しそうだ。

 無理もない。俺が引っ張ってるとはいえ、サイズの合わない靴を履いてるんだ。消耗だって激しいに決まってる。


 300メートルほど走っただろうか、俺はようやく口を開いた。


「食事中だから、そっとしてれば、スルーしてくれるとか、ないかな…」


「そうかもね、既に目の前に、餌があるから、わざわざコスパに合わないことは、しないでしょうし」

 

 コスパ……。

 

 おそらく森で縞ゴリラと初めて対峙しただろう夜を思い出した。あの夜には、アイツと俺達の間に焚き火があった。

 鹿をたやすく捕まえるのだ。人間の子供を捕まえることぐらい、同じくたやすそうだ。

 あの夜それをしなかったということは、やはり火を前にして事を構えるのは、コスパ的に割に合わなかったということか。


 なら、焚き火のない、今のコスパはどうなのだろうか。


 コスパ次第なんだろうけどね、とマナ姉は続ける。


「オオカミとか獣によっては、食事中でも備蓄用に、近くで油断した動物を狩りにいくとかは、あるみたい……」


 マナ姉が言い終わる――ちょうどその瞬間だった。


 ドォン!と地面が大きく揺れる。雑草がわななき、そこら中の木がビリビリと共振する。

 

 続いてダンッダンッと、大地を鷲掴(わしづか)みするような、音が聞こえ始める。

 ……!

 嫌な予感しか、無かった。

 振り返りたくないけど、足を一度止めて振り返る。


 こちらを見据え真っ直ぐに跳ね向かってくる、紅い2つの輝点(きてん)があった。


 アイツ、俺たちを襲うのはコスパに見合ってるっていうのか!?

 

 50メートル。100メートル。跳ねるたびに加速する巨体。

 一つまた一つと前に繰り出す腕と足は俺の身長をゆうに超え、その一歩をぐんと大きくする。

 一度蹴り足が地面をダァン!と叩くたび、大地が醜くえぐれ、土砂が吹き上がる。

 土埃を伴う風すら置き去りに、破滅的な強勢で俺達に迫っていた。

 俺達が全力で作った300メートルぽっちの差など、いともたやすく無かったことにされそうだ。

 

 一縷の希望にすがって前を見る。遠くに見える白く長い建物は、今なら街の壁だと分かるぐらいに鮮明だった。

 だが、絶望的に届かない。


 ――これ、間に合わないだろ!


 脳裏に、あの夜の暗闇に浮かぶ輝点が蘇る。

 その並びのいびつさは余りにも理解から外れ、揺れる焚き火を先に置き、マナ姉の震える肩越しだからこそ、ようやく正視することを耐えられた。

 

 そのマナ姉の小さな腕から、かたかたと、わずかに振動が伝わる。

 

 ――『きっと姉のほうが、上手く選んでると思うんですよ』

 

 いつか女神に言った言葉を思い出す。

 ……。

 

 上手いとか下手とかじゃない。今大事なのは、――誰がそれを選べるかだろ。

 

 俺は掴んでいた腕を解放した。絶対に離すまいと掴んでいた、マナ姉の腕をだ。


「ミナト⁉ 走んないと」


 マナ姉からのとまどいと非難の交じる声が俺を刺す。

 

 これ以上は考えたら恐ろしくなるので、考えるのはやめだ。

 やりたいことだけを優先する。


「マナ姉、先行って! あれたぶん街だろ! 人呼んできてくれ」


「バカ! なんでアタシだけ」


「……俺、囮になるから、早く。体張るのが俺の同盟の役割分担だろ」


 ガァンという音とともに、砂埃が舞った。 

 振り向くと、縞ゴリラはもう目と鼻の先、10メートルほどで停止していた。


 くそったれ、俺達なんていつでも捕らえられるとか、思ってるんだろうな。


 口角は天を突かんばかりに上がり、隙間から禍々(まがまが)しく交差する歯が覗いていた。

 前にだらんと伸ばした腕は、マナ姉の胴よりも明らかに一回り太く、またマナ姉が2人いても足りないほど巨大な拳を備えていた。

 正面に迎えてよく分かる。初めは背中の姿からゴリラにこそ分類したが、このいびつなケモノはそんな生易しいものじゃない。


 縞ゴリラは、スっとその巨大な両腕を天に向けて上げた。

 逆光の巨体が伸びあがるとともに更なる影を作り、その影がこちらへと伸びていく。影の奥には紅い瞳が光っていた。


 そのままこぶしを一気に地面に叩きつけた。

 ズァンという激しい音とともに地面がえぐれ、砂ぼこりが舞う。

 びりびりとした振動が俺の足を通して頭まで届くのを感じた。


 威嚇(いかく)!? そういう言葉では不十分、いや余剰すぎるほどの衝撃だった。

 なにもかもが終わったと思えるほどの、脅威(きょうい)


 すぐに飛びかからないのは、やはりゴリラだけに賢く、慎重に様子をうかがっているのか。

 タタっと後ろで幼児が駆けていく音。その音がはやく遠くなってくれ、と願う。

 ほどなく、ずべしゃっとビニル袋を引っくり返したような音。放りなげていったんだろう、全力で走るのには邪魔だからな。


 あの夜よりちょっとだけでもカッコ良くなれただろうか、俺。

 

 気がつけば、がたがたと地面がうるさい。鳴らしているのは、俺の膝だった。

 腹のみぞおちの底に重いナニカが詰まっているようで吐き気がする。

 正直こんな火事場は、甘ったれでしまらない俺にとって場違いで、一秒だって生き残れる可能性のある場所ではない。


 今だって、マナ姉が傍から離れてくれたことによる安心が、マナ姉がもう傍にいてくれないことによる不安で押しつぶされそうだ。

 けどこれが、森でたくさん間違えてきた俺の、正解だ。


 俺は、顔の穴という穴からみっともなく垂れる汁を拭うこともせず、ただ眼の前の『不揃いの紅目』を(にら)み続けた。

 左手には汗まみれのビニル袋の感触。

 俺の方のビニル袋には、相棒のKD缶とバナナがあったはずだ。気を引くために音を鳴らすくらいはできるか。

 

 ゴリラがズンっと足を一歩進めた。

 飛び込んでくるか?

 膝を少し曲げて、すぐに動けるようタメを作る。


 ――その瞬間、視界の端に割り込む小さな影があった。


「マナ姉! なんで!?」

 

 眼前でくるりんぱが踊り跳ねる。

 その頭越しに見えるゴリラはその巨体をわずかに低くし、飛びつかんとしていた。

 

「小さくなったってね、これがお姉ちゃんの生き様よ!」

 

 言いながら両手を前に掲げるマナ姉。持っているのは、スマホ!?


 ――カシャンと聞き慣れた音とともに、ゴリラの赤い目にはじけんばかりの光が映った。

 

 次の瞬間、赤い瞳孔が白く潰れる。

 オォぉぉぉという(うめ)き声とともに、その場にかがむゴリラ。

 その顔は腕で覆われていた。


 フラッシュが効いたんだ。レンズを手で隠して、オートフラッシュさせたのか‼

 

 とにかくもう、こうなったら2人で走るしかない!

 俺はもう一度、マナ姉の腕を掴め……ない、振り払われた?


「アタシの身体じゃ走っても時間かかっちゃう。アタシが時間かせいでる間に、街まで行って人を呼んで」


 マナ姉は興奮気味に語ると、固く唇を噛む。

 その瞳は言い返しがたいほど力強かった。

 

 ……うそだろ?

 ぜったい、ぜぇったい!嘘だ!

 この人、また俺を庇って死ぬ気だ。鉄骨事故の時みたいに。


 前を見ると、ゴリラがぶんぶんと頭を振っていた。

 ゆったりと立ち上がり、そして、再び紅い目が見開かれる。その目が俺達を正視した。

 その口角が再び醜く天を突く。

 目をくらませはしたが、今度は見逃してくれる気には、ならなかったみたいだ。

 ……俺、今度もまたマナ姉に守らせて、死んでしまうのか。

 その時だった。


 ――ドトンッ!


 気勢を削がれたように、足をもつれさせる、縞ゴリラ。

 その紅い目がわずかに揺らぐ。

 

 ゴリラの肩口には、1本の棒が生えていた。

 

 棒の先には羽がついており、そこまで見てようやく俺は、誰かがゴリラに矢を放ったのだと認識できた。


 何かを探すように頭を回すゴリラ。その紅い目も無軌道に往復の残像を残し揺れる。

 ようやく左肩の矢に気づいたのだろう、肩口で視線が止まった。

 その矢の根本からはダラダラとだらしなく紅い血が流れはじめ、白と黒の腕を染めていく。


 ぴたりと、それまで早鐘(はやがね)のようだった時の流れが止まったかのように静寂(せいじゃく)が訪れる。

 そして、その巨体が、後ろに大きく飛び退いた。

 (ゆが)んだ紅い目が、俺たちと、そして矢の飛んできた方角を交互に見やる。

 

 ウォォォォォォオオオ!


 ビリビリと場が振動する。

 縞ゴリラ咆哮(ほうこう)を上げたのだ。


 ひとしきり叫ぶと、ゴリラは森の方へ向いた。

 そして轟音とともに走り出した。

 一度ぴたりと止まり、紅い瞳をこちらを向ける。

 グルルルという低い声を発した。

 そしてまた2つの紅い点は残像を残しつつ流れ消え、縞ゴリラは再び森へと去っていく。

 その姿はまたたく間に小さくなっていき、最後には残響とともに森へと溶けていった。


「助……かった?」


 思いがけない結末だった。

 顔を見合わせる俺とマナ姉。ゴリラの肩に見えた矢は、誰が放ったのだろうか。


「大丈夫かい!」

 

 声がしたのは、ゴリラが駆けて行った方角の反対からだった。

 見ると、金髪の女性らしき人が、こちらに駆けてくるところだった。

 らしいというのは、髪型がショートだったからだが、その声質はどちらかというと柔らかく高い。

 その手にはマナ姉0.5個ぶんといったサイズの弓を携えていた。

 意外と小さな弓だったんだな。


「間に合ってよかったよ」


 女性は、そう言って足を止めると一度深く息をついた。

 よほど急いできてくれていたのか、膝に手をつき、何度も息を吐いている。

 その息を吐くしぐさから女性の本気と頼もしさがうかがえ、ふつふつと温かいものが沸いてくる。

 

「ありがとうございます、その、本当に助かりました」


 深々と頭を下げるマナ姉。遅れて、俺も頭を下げた。

 女性はそんな俺達に、ホントに良かったよ、と告げると、


「私、ユウリっていうんだ。君たちを保護するために探してた」


 その名前とともに、なんともサプライズな目的を口にした。

 

 ユウリさんはすらりと長い脚の膝を曲げ、視線を俺の高さまで落とす。

 近づいたその顔は、ぱっちり目の、有り体に言って大人の美人お姉さんだった。

 

「君たち、ずばり日本人でしょ。っていうか、もしかしなくても転生者だよねっ?」

 

 にこりと、顔を少し傾けるユウリさん。短めのさらりとした金色の髪が、なで肩の上にかかる。


「……ええと、はい、そうです」


 一瞬、この世界について何の情報を得ることも無しに、それを伝えるのは憚られる気がした。

 が、屈託のないこの人の笑顔に、変な隠し事をしても意味が無い気もした。

 

「やっぱりね、お辞儀(じぎ)はやっぱり分かりやすい……じゃなくて、コホン」


 ユウリさんは一度咳払(せきばら)いをし、崩した顔を戻した。


「まずは、安心して。君たちを安全な街に案内するから」


 その黒い瞳は、凛々(りり)しいながらも優しさを湛えていた。

 俺はこの世界にきて一番の安堵(あんど)を得た気がした。


◇◇◇◇


 ユウリさんは、他にも2人の仲間と分かれて行動していたらしい。

 その1人に俺達を見つけたことを連絡し、もう1人の呼び戻しはその人にまかせ、俺達を街に案内することを優先してくれた。


 日はてっぺんを越え、傾きつつある。

 俺達とユウリさんが向かう先は、やはりあの壁の方向だった。

 

 街へ向かう道すがら、俺はマナ姉に尋ねる。


「そういや、あのゴリラ、結局何で追ってきたんだろうな」


「やっぱ食料の備蓄目的、とかかしら。考えたくないけど、あんなのが森で何匹も冬支度とかしてると思うと生きた心地しないわ」


 確かに二度とあの森には近づきたくない。

 

「あのゴリラは、森でも特別な、ヌシみたいなやつでね、……けっこう執着が激しいやつなんだ」

 

 少しトーンを落としながら、ユウリさんは教えてくれた。


「だから、君たち、ひょっとしてアイツが執着しそうな、あの森の匂いのするもの、何かもってたりしない?」


 匂いのするもの……。

 俺とマナ姉は揃って、お互いのビニル袋からバナナを取り出し、仲良く膝からくずおれ、顔を見合わせた。

 

「あっはっはっは」


 ユウリさんが盛大に笑ってくれたので、少し救われた気がした。

 なんだったんだよ、あの絶望感。


 顔を見合わせついでに、思い出したことを言うことにした。


「姉ちゃん、なんで戻ってきたんだよ。体張るのは俺の役だったろ?」


 正直、あれはヒヤヒヤした。

 ユウリさんが来てくれなければ、たぶんあそこで姉弟ともにジエンドだ。

 

 姉は、澄ました顔で言う。

 

「同盟は森を抜けるまでだったでしょ」

 

 それに、と付け加える。

「震えてる弟1人守れなくてなにが姉よ」


 ぴっ、と人差し指を立てる姉。

 

 マナ姉みてたの? サイコーにカッコ悪い俺。

 悔しいが、俺の姉はサイコーに格好良い。


 ――もっと、もっと。強くなってやる。もう守らなくてもいいって、姉から追放されるくらいに。


 ユウリさんはというと、そんな姉弟のやりとりに、一歩離れてくすくすと笑っていた。

 そりゃあ、ほほえましいこともあるかもしれないが、中学生が小学生に言い負かされている様子にちょっとは違和感を持ってほしい。

 

 いつのまにか景色は草原から広大な畑へと変わっていた。

 農作業をしている様子の人も遠くに見える。

 ユウリさんは時折、その人達に手を振り、農夫の人もそれに応えていた。

 

 街の外観も鮮明になっていた。

 遠くから見えた白い線は、やはり街の壁だったようだ。今なら分かるが、木々に隠れていただけでそれは川の方まで伸びていた。


「見えてきた、あれが街の門だよ」

 

 眼前に広がるのは、成形された巨大な石が幾重にも交互に重ねられた、文明の白い壁。 

 壁の向こうからは人々の声や、車輪の跳ねるような音が微かに聞こえる。

 その壁を割り込むかのように、大きく木製の扉が目に入る。

 周囲には、当たり前のように門番らしき人が2人、並んでいた。

 ようやく、新しい世界に来た実感が湧いてきた。


「ここまでよくがんばったね」


 ユウリさんはそう言うと、俺達の前に回り込んだ。

 そして、うやうやしく言う。

 

「二人ともようこそ、セレンデシティへ! さあ、第二の人生を始めよう、なぁんて、ね」


 ――セレンデシティ。

 

 唐突に出た『(えにし)の女神』の名前に、俺とマナ姉は、この日何度目になるのか、顔を見合わせた。



 ―第1章、終わり。第2章へつづく―

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