第10話 この森が教えてくれたこと
川沿いを歩き始めてから、何度か休憩を挟みつつも着実に進んだ。
気づけば、川の流れは穏やかなものに変わっていた。
天を仰げば、お日さまがそろそろてっぺんに来そうだ。そろそろ何かお腹に入れてもいい頃合いかもしれない。
景色は変わらず水と石と木なのだが、それでも少しずつ変わるものがあった。
親指が、クイクイと引っ張られる。
「ねえ、気づいてる、ミナト」
「うん、なんか、木の密度? みたいなの、減ったよね」
「そそ、これってそういうことなのかな」
「さぁ」
なんとなくだが、木の本数が減っているような気がするのだ。言葉の誤用を恐れず言えば森から林になったというか。
形の分からない期待がせり上がってくるのを感じた。
マナ姉の握る手にも力がこもっている。
「「あっ」」
――気づいたら、二人して小走りしていた。
敢えて川沿いを外れて林に向かい、最後の木を一つくぐり抜けて、立ち止まる。
顔を巨大な筆でなぞるかのように、ぶわぁっと風が横に抜けていく。
待ちわびていたかのように前方いっぱいに空が解放された。
「森、抜けたね」
マナ姉が、やれやれといった風に言う。
ただ、そうだねと、応える事ができる状況が嬉しい。
森を背にする俺達の、これからの足元には、草原が広がっていた。
やっと、抜けれたのか。
目の前には空と大地が広がり、どこを見渡しても景色の把握に目が追いつかない。
足元の草が風に揺れる音が、やけに大きく聞こえる。
踏み込むと乾いた土、そして草の匂いがした。
「ミナト、あれ、人の住処じゃない?もしかして」
マナ姉が指さす方を見やる。
右手の川から長く伸びる林がある。マナ姉が指さしていたのはその切れ目だった。
林に隠れ全景は全く分からないが、切れ目から白く細い長方形が、確かに見えた。
「ほんとだ、……壁に見えるね」
そうすると、次に目指す場所はあそこか。
特に合図もなく自然と二人とも歩き始めていた。
「どんくらい距離あるんだろうね、あの小ささだと」
草原にはぽつんぽつんと木が立っているが、さらに先の林の、さらに奥となると、比較になるものが無くてよく分からない。
「ん〜、ごめん、アタシ数学苦手だから」
なぜそこで数学が出てくるのだろう。
そう思う俺を横目にマナ姉は、けどね、と続けた。
「ミナト、アンタ頑張ったね」
「なんだよ、急に。それを言ったらマナ姉だって大変だったでしょ」
やぶからぼうに褒めてくる姉に、うろたえてしまう。
だが、マナ姉が大変だったのはそうだ。歩幅も小さく、体力も低い小学校低学年の体で。さらには自分の記憶に自覚がなく、なんなら嫌いな奴と同行していたのだから。
「ううん、アタシが振り回しちゃったぶん、アンタの方がずっと、がんばったよ」
「……マナ姉」
「よく、我慢したね、意地っ張りのアタシをおんぶして運んでくれたりとか……それだけじゃないよ、今朝みたいにめんどくさいアタシと向き合ってくれたりさ」
夜中にマナ姉の背中で、不揃いの輝点に震えたこともあった、恥ずかしいけど。
マナ姉は、ひとつひとつ撫でるように、がんばったねと、丁寧に並べていく。
その全てが、俺がマナ姉から言って欲しかった言葉で……。
目頭が熱を持ち始める。
……うちの姉は、ちょっとずるい。
「姉ちゃん、ちょっと向こう向いててくんないかな」
「……はいはい」
見上げる空は青く、そしてやはり広かった。
だが後から思うと、感傷に浸る時間はそんなに無かった。
「ねえミナト、あれ、何かな。シマシマっぽいやつ」
ぐいぐいと裾を引っ張られる。
「え、シマウマでもいた?」
マナ姉の指の先は、ここから100メートル無いくらいの川沿いを示していた。
たしかに白と黒の縞模様のダルマのようなずんぐりと大きな塊が見える。
なにか、押さえつけた動物を食べているようだった。
その揺れる様子で、捕食者は向こうを向いている事がわかる。
離れているにもかかわらず、動物を食べ散らかす様子から、びちゃびちゃと音がこちらまで聞こえてきそうだった。
ひどく、嫌な気持ちになる。
食べられている方の茶色な体から、道中見かけた鹿を連想してしまったからだ。
あのとき川沿いで見かけた鹿は2頭だった。もう1頭はどこかへ逃げたのか。それとも、もう……。
――ぴたりと縞々の捕食者は動きを止めた。そしてゆっくりと頭だけ振り返る。
直感が告げた。こいつは常識の範疇外の化物だ。
その姿は、知っている生き物と照合するだけなら、縞柄のゴリラだった。そんなもの聞いたことが無いが。
直視したままでいられず、俺は一度マナ姉を見る。せめて手近な安心が欲しかった。
けれどマナ姉の顔も困惑で溢れていた。
「目がさ、眼球いっぱい真っ赤じゃない?そんなゴリラ聞いたこと無いんだけど……」
「俺だって無いよ!」
低く絞るように聞いてくるマナ姉に、余裕なく返す俺。
俺は無理やり前に向き直った。
ゴリラの眉間右側には大きくえぐれた傷のようなものがあった。そのためか右目だけが小さく見える。
背中にどっと汗が吹き出ているのが分かる。
いやに見覚えがある。
その赤い目の不揃いな並びは、夜の森で見た光だった。
そして、森で感じた恐怖そのものだった。
――森を抜けても、アイツの縄張りを抜けたわけじゃなかったんだ。
俺達はまだ、何も終えていない。




