3.出会い
本の山を掻き分けながら、数年前の出来事を思い出していた。じつは四年ほど前、ファジル帝国の皇子、アルーン・ラマアーンと会ったことがあるのだ。
父カセムの釣りに付き合って、よく行くという小川を訪れた時のこと。
まったく釣れる気配のない釣りに飽きて、竿をほっぽり出し早々に離れたほとり、ちょうどいい頃合いの岩を見つけて、その上に座り笛を吹いていた。
すると突然、近くの茂みから、アルーンが現れたのだ。銀の髪をふわりとなびかせ、美しい織りの衣をまとい。
それは、まったくの突然で。驚いて思わず笛を取り落としそうになったくらいだ。
後で知った事だが、どうやら、アルーンも父マシュリクの川釣りに付き合わされたらしく。
しかし、それを知らなかった俺は、笛を口に当てたまま、驚いて固まった。その俺に向かっての第一声は、
「……村人か?」
だった。村人。まあ、そうだろう。
こんなへんぴな場所で、野良着に近い格好でのんびり笛を吹いているのだから、そう思っても仕方ない。
どう答えたものか、悩んでいる間に次の質問が来た。
「──その曲は?」
俺はすっかり村人の顔をして、これは自身の国に伝わる古い曲なのだと教える。そうして、また吹き始めると、曲が終わる頃、侍従に呼ばれアルーンは去っていった。
なぜ、アルーンと知れたのかといえば、侍従がそう呼んだからだ。
だが、平民でないことは薄々勘づいていた。なんせ着ているものが豪華過ぎたのだ。薄い青の絹地に、金糸銀糸で鳳凰や唐草模様が縫い込まれ。それを見ただけで貴族だろうと知れた。
加えて銀色の髪と灰銀色の瞳。平民にはあまり見ない色だった。
──あれはかなり印象的だったなぁ。
目を捉えて離さなかった。そこに精霊が舞い降りたのかと思ったほど。
──それに引き換え…。
その日も着古された野良着に首に手ぬぐい。村で畑仕事中に、カセムにつきあわされたのだ。
それを見れば村人その一にしか見えなかっただろう。逆に王子などと名乗らずに良かった。カセムの顔に泥を塗るところだ。それをアルーンが覚えているかどうか。
──まあ、ちょっと顔を見ただけだからなぁ。
記憶にも残っていないだろう。明日の謁見でも気付かないはずだ。
いくら親同士の約束とは言え、俺の様なものが妃になどなっていいものかと思うのだが、決まってしまったものは仕方ない。
他に好いた相手がいるわけでもない。形ばかり妃となる、それで約束は果たされるのだ。国の為にも、俺が逃げ出すわけにはいかない。
けれど本心は違って。正直なところ、このままこの国で勝手気ままに暮らしたかった。
民に混じって畑を耕し、漁に出て狩りをし。一年の収穫を一緒に祝い、その年無事に生かされたことを感謝する、そんなささやかな日々が好きだった。
ウイラは小国で、皆が顔見知りのようなものだから、それが可能だったのだ。
──どんな生活になるんだろうな…。
ファジル帝国での生活は。片付けの手がふと止まる。きっと豪奢絢爛たる宮殿なのだろう。金銀に溢れ、まばゆいばかりの。
日々、宴が催され、王侯貴族らと語らい、皇子の妃としての務めをなす──。
──でもそれじゃ息ができない…。
それに、なんとも不釣り合いに思えた。どう考えても、自分に金銀が似合うとは思えないのだ。
父カセムの話では、相手は乗り気で、迎える気満々なのだとか。しかし、詳しく聞くに、皇子よりもその父、マシュリクが楽しみに待ち構えている感が否めない。
何を好んで食べるのか、好きな色は何か、好む景色は何か──。
すべてマシュリクからの質問だ。
マシュリクは父カセムの無二の親友だ。その子息を迎えられるとあって、興奮しているのだろう。アルーンからは何もない。
求められない上、こんなんじゃ──な。
自分の手をじっとみつめる。昨日も最後だからと、畑仕事に精を出した。海へ出て魚を網で引いた。あちらに行けば二度とできないからだ。
そのため、手はささくれ、指の爪には洗っても取れない汚れがある。今晩、やっきになってルンが落とすのだろう。
謁見で身につける衣装は、以前、成人の式で着そこねたものだ。
ここではかなり貴重な絹を使い薄い水色の長衣を作り、そこへ銀糸の刺繍の縫い取りを施した。ほれぼれする出来だが、これをいざ自分が着るとなると──お仕着せにしか見えない。
粗野な自分が、取ってつけた様な衣装を身につけ、あのまばゆいばかりのアルーン皇子の傍らに立つ──。
なんとも、バカげたことだと思う。思うが仕方ない。
せめて、その地位に恥じぬよう、教養くらいは身につけていこう、そう思った結果、この本の山となったのだ。
「兄上。明日、行くのですね…」
最後の晩餐を終えたあと、弟ラトがしょんぼりした様子で声をかけてきた。深紅の髪はふわりふわりと風に揺れ、濃い茶色の瞳は伏し目がちに床に落とされている。
ちなみに、この紅い髪を持つものに神子の力が発現しやすかった。俺の髪は色の抜けた赤茶で。その時点で、神子の力は薄いだろうと判断された。
そして、実際なかった。そのひとかけらも。
物心つく頃、行った俺の呼びかけに、精霊は答えなかった。そして俺もまた、声を聞くことができなかったのだ。
俺はポンポンとその頭を撫でると、
「大丈夫。ラトは立派な王になる。それに精霊の加護もある…。不安もあるだろうが、皆が支えてくれる。安心して道を進むといい。俺も陰ながら応援しているから」
「……なぜ、神子が王にならなければならないのでしょう? 兄上の方が、民に慕われている。王になるのにふさわしいのに…」
「そんなことはない。ラトだって皆に愛されている。神子が王になるのは、決め事だ。そうしなければ、国が乱れる。王の言葉は精霊の言葉。神子と王とが別では、もし意見が食い違ったとき、諍いが起こるだろう? だから、神子は王であらねばならない。──そう教わっただろう?」
「ですが…」
「ラトならできる。信じるんだ」
「兄上!」
ラトは首筋に抱きついてくる。
ふわりと紅い髪が頬をくすぐった。それを抱きとめると、それまでのアウラで暮らした日々が、走馬灯の様に流れていく。
「お前の幸せを祈ってる…」
言いながら、ここでの生活の幕切れを感じて、途方もなく切なかった。




