17.簪
──簪が折れた。
目が覚めた時、一番、はじめにそう思った。
唯一、アルーン皇子から賜ったもので、父カシムから賜った剣と同等かそれ以上。
──大切にしなければならなかったのに。
じわりと目の端に涙が滲む。とても大切なものを壊されてしまった気がした。
そこまで思って、はたと覚醒する。慌てて飛び起きれば、
「つっ…」
ずきりと頭が痛んだ。
とっさに額を押さえれば、分厚い包帯が巻かれているのに気が付く。身体からは薄いすりきれた毛布がずり落ちた。
──これは、いったい…?
今、自分がいるのは四方を流木で支え作られた天幕の中だった。はたはたとはためく天幕の布地はボロボロで、隙間から空が見える。日差しの加減から見ると夕方だろうか。
これまた薄い布が敷かれた上に寝かされていたのだと気が付いた。身体の下はでこぼことしていて、小石が当たる。
「ここは……?」
「わしらの家さね」
俺の独り言に答える者があった。
声のした方へ振り返れば、焚き火を挟んで反対側に、白い布で身体をすっぽり覆った老人がいた。
それとわかるのは、被った頭巾から少しだけ見える目元や、袖の間に見え隠れする手足に年齢が刻まれているからだ。
老人は手元でなにか作業をしていたようで、よっている糸が見え隠れしている。
「あんたを助けたアルジャンは、医者を途中まで送って行ったよ。じきに戻ってくるだろう…」
「アルジャン…? 医者って…、手当も?」
「あんたを背負ってここまで連れてきた奴さ。ついでに医者も呼んでな。大門で衛兵にたてついたとか? ──バカなことをするんじゃないよ」
老人は笑うと、いったん手を休め、焚火にかけていた鍋から柄杓で湯をすくい、縁の欠けた木の椀に入れて差し出してきた。ふわりとあたたかい湯気が頬にあたる。
「…ありがとう。えーと…」
「シルバだ。もう少し寝ているといい」
「ありがとう、シルバ。俺は──リイン。…面倒をかけてすまなかった…」
話す間もずきずきと額が痛んだ。さぞ大きなたんこぶができたことだろう。椀の湯をフーフーと冷ましながら飲む。それで随分喉が乾いていたことに気が付いた。
「アルジャンが人を助けるのは珍しい。しかも医者まで頼んで…。わしらはなるべく人と関わらないようにしているからな…」
「その、アルジャンとは…どんな奴なんだ?」
「会えばわかる。若者だが…わしらと同じ病もちだ」
「病もち?」
意味が分からず問い返した。
言われてみれば、確かに不自然と思えるほど身体を布で覆っている。なにかを隠しているのだろうか。シルバは乾いた笑い声をあげる。
「お前さん、わしらを見るのは初めてか?」
「…はい」
シルバは軽く服の腕を捲って見せる。するとそこには赤くただれ、白く乾燥しひび割れた皮膚が見えた。見るも痛々しい。
「…それは?」
シルバはそれをまた布で隠すと、
「鉱山で働くものにでる病だ。空気が悪さしているのか、そもそも鉱石が良くないのか…。歳を重ねるごとにこの症状が身体全体にあらわれて、自由が利かなくなる」
「自由が…?」
シルバは頷くと、
「この辺りには、同じ病を持ったものが多く住んでいるのさ。伝染はしないが、見た目も悪い。家族は病のもととされる鉱山の側を離れ、街へ下ったが、こんななりでは皆、嫌って家など貸さない」
「……そんな」
「それでこんな河原の傍までおいやられたと言うわけだ。まあ、住めば都だがね。静かでいい…」
確かにここは河岸で、砂地やごろごろとした石が沢山確認できた。その中、葦や大きな石の陰に、ここと似たような天幕が張られているのに気づく。
「雨の時は? ここじゃ水が迫ってくるだろう…?」
「すぐに退散するのさ。だから、こんな天幕しか作らない」
シルバの視線の先に、はためく天幕がある。それでこんな簡素な作りにしているのかと納得した。
「幸い、天候は読めるからな? 雨と分かればすぐに街へ避難する。周りの街の人々も、それを分かっているから、軒先にわしらがいても、仕方ないと容認してくれている。──まあ、たまには嫌がらせするやからもいるがな?」
かかとシルバは笑うが。
「…そうなのか」
「リインといったか。あんたはどこから? 街の人間か? にしては見ない髪色だ…」
シルバは物珍しそうに髪を見つめてくる。言われて自身の中途半端な紅い髪を思い浮かべながら、
「隣の、ウイラから…」
「ウイラか? へぇ。それは珍しい。あそこの国のものは皆、外に出たがらないと聞くが…。そうか、ウイラか」
「けど、…今はこのファジルの城の中に住んでいて…。祭りの騒ぎに巻き込まれ、外に出されてしまったんだ。なんとか戻りたいんだが…」
するとシルバは大きく首をふり。
「やめておけ。そのなりじゃ中には入れん。奴らは見た目で判断するからな?」
「見た目…」
自分の姿を見直す。確かに紺色の上下はすっかり泥にまみれ、薄汚れていた。これでは幾ら『妃』と言っても無理だろう。
「何の仕事をしていたか分からんが、中のものが招き入れるか、許可書でも持たん限りは信用せんだろう。今度こそ、殴り殺されるぞ? 女子供とて容赦しない。あそこの衛兵は特に柄が悪くてな…」
「確かに、容赦なかったな…」
額の傷がずきりと痛んだ。
「それもこれも、今の宰相アスワドになってからだ…。以前はそんな乱暴を働くような輩はいなかったんだが…」
シルバはため息をつき、もう一度首を振ると、先ほどまで手元で行っていた作業に戻った。
どうやら腕輪を編んでいるらしい。どこで見つけてきたのか、鮮やかな青、紅、紫など、色とりどりの糸を器用に編んでいく。
素朴だけれど、綺麗な色合いだった。腕や髪を飾るのにちょうどいい──そこまで、思ってはっとする。
そうだ。簪は──?
慌てて握っていた手をひらいて見たが、そこには何もない。
周囲を見てもなにか置いてある様子はなかった。慌てふためく俺の様子をみてシルバが声をかける。
「どうした?」
「いや…。その、俺は何かもっていなかったか? 折れた簪なんだが…。先に緑色の石が付いている──」
「…これだろう?」
と、背後からくぐもった声が聞こえた。
驚いて振り返れば、長身の男が大きな手のひらに件の簪を乗せて差し出してきた。
確かにそれはアルーンから賜ったものだった。
「ああ、ありがとう…。なくしたかと…」
思わずほっと息が漏れる。
「…いや、ずっと握り締めていたのを無理やり開いて預かったんだ。シルバはいいが、中には柄の悪い輩もいる。盗まれても困るだろうと思ってな…」
男もシルバと同じ、かろうじて目元が見える程度で、あとはすっぽり頭巾をかぶり顔を覆っていた。身体も一緒だ。
ただ、シルバと違うのは、動きやすいように長袖と先のすぼまった長袴を身に着け、肌が露出しそうな首筋や手首などは包帯を巻いているところか。ちらとも素肌が見えなかった。
年は若そうだが、声はくぐもっているため、はっきりとは分からない。もしかしたら、かなり年上と言う事もありえる。
男は折れた簪を俺に手渡すと、
「──アルジャンだ。それはこれに入れて首からさげておくといい」
アルジャンはそう言って、長い紐のついた小さな袋を渡してきた。
革でできたそれは丈夫そうで、絞る様になっている口に、蓋がついていた。首に下げておけば落とすことも、盗られることもなさそうだ。
柄のメノウをしっかりと握り締める。心遣いが嬉しかった。
「…ありがとう、アルジャン。俺はリインだ」
「──いや、たいしたことじゃない…。それより、リイン、額の具合は? かなり腫れていたぞ。医者の見立てでは治るのに二週間ほどといっていたが…」
アルジャンが心配そうに顔を覗き込んでくる。それで、その瞳が銀色だと分かった。アルーンと同じだ。
懐かしさに思わず熱いものがこみ上げてきて、それをぐっとこらえると。
「…なんとか。まだ痛むけれど…。医者にも診せてくれて、ありがとう。おかげで命拾いした…。──ただ、俺にはなにも返すものがなくて。唯一の金目のものはこれだけなんだが…」
まだ手に握ったままの簪に目を落とす。
──これを仮に渡しておくという手もあるか。
助けてもらい医者にも診せてもらい、何もしないというわけにはいかない。それまで手の中に握りこんでいたそれを、思い切って開き差し出そうとすれば。
その気配に気付いたアルジャンは笑んで、その手を上から包み込むように握ると。
「──いい。あんたからはなにも受け取れない」
「けど──」
「いいんだ。──どうしても、と言うなら、動けるようになったら少し手伝って欲しいことがある…」
「…なにを?」
アルジャンは周囲に目を向けると。
「ここに住む人らの見回りだ。体調は崩していないか、きちんと食べているか、何か困りごとはないか──。聞いて回っている。年寄りや乳飲み子を抱えた母親には特に注意している。これだけいると、一人では手が回らない。他にも手伝ってもらってはいるが、みな、病持ちでな。身軽に動くことができないでいる。…頼めるか?」
「もちろん! ──って、その…アルジャンも病を患っているのか?」
「…ああ。鉱山で働く者はみな発症している。離れれば少しはましだろうが。──けれど、あそこは仕事場だ。俺は由縁があって、管理する側を任されているが、鉱夫は近くに住まなければ仕事にならない…。離れたくとも離れられないのさ」
「そうか…。そんなことになっていたとは…。知らなかった」
鉱山がいくつかあるのは知っていたが、書物で読んだだけでは、到底知ることのできなかった事実だった。
──これはいい機会なのかもしれない。
本当のファジルを知るための。アルーン皇子の妃としても、いつかこの知識や経験が役に立つかもしれない。
──というか、その前に。俺、戻れるのか?
今のところ、自ら動いてもだめだろう。シルバの言う通り、たんこぶを増やすだけか、運が悪ければ命を落とす。
皇子の妃が外に放り出され行方不明となれば、流石に探しにでてくれるだろうが、もしキヤーナの邪魔でも入れば、すぐにと言うわけには行かないだろう。──それまでの間。
「…アルジャン。しばらく、やっかいになるけれど、よろしく」
右手を差し出せば、やや躊躇ったのち、アルジャンも手を差し出して、俺の手を強く握り返してきた。どうして躊躇うのか不思議だったが。
「…街の人間は握手をいやがる。久しぶりだ。こちらこそ、よろしく。リイン」
「おう」
強くがっしりとした手は、武人の手だ。
いつかのアルーンの手を思い起こさせ、また胸のつまる思いがした。




