15.繊月
ある夜のこと。
いつものように龍笛を手に庭石へ座り、月を見上げた。糸のように細い月が上がっている。
アルーンが訪れなくなってずいぶん経つ。そのうち──そう思っていたのだが、一向に現れる気配がなかった。
──何かあったのか。
気にはなるが、かと言って、便りや使者を送るほどでもない。
元々、会う約束を交わしたわけではなかった。ふらりとやってきたのだ。突然、来なくなるのもあり得る事だった。
──気を揉んだところで仕方がない。
さあ吹こうかと龍笛を構えたところで、視界の隅を何かが横切った気がした。小動物にしては大きすぎる。
──人か…?
今晩の月明かりは頼りない。その何か、が人だと分かったのは、かろうじて輪郭を追えたからだ。
──こんな夜更けに、誰だ?
王宮の敷地内にいるのは中の者ばかり。
衛兵が見回りにでもきているのかと思ったが、コソコソした様子からするとそうでもないらしい。だいたい、今までこんな夜更けに見回りに来た試しがなかった。
その人物は、庭石に座る俺に気づかず、そそっと茂みの中に分け入り、さらに奥へと進んでいく。
ここは敷地内の外れで、よほどの用がない限り訪れる事はない場所だ。よくよく見ると、着ているものから侍従と知れた。余計に訪れた理由が分からない。
その侍従が塀の間際まで来て立ち止まると、ピーとひと鳴き、鳥が鳴いた。
──鳥? …いや。
鳥の鳴き声と言うより、笛の音の様だった。と、侍従は手にしていた何かを、ひょいと塀の向こうへと投げる。
錘でもついていたのか、風に惑わされることもなく綺麗な弧を描き向こう側へ消えていった。
すると、しばらくしてまたピーと鳥が鳴く。今度の鳴き声は、どうやら塀の向こうから聞こえてくるよう。
侍従らしき者はそれで用が済んだのか、周囲を用心深く見回した後、背を低くして庭を横切っていった。
こちらにはやはり気付いていない様。動かない限り、庭石のひとつに見えたのだろう。まさかそんな所に人が登っているとも思わないはず。
横切り様、その横顔がうっすらとした月明りに浮かび上がった。
──あれは──。
見覚えがある。
次の日、ルンと共に春光宮に書物を取りに行く途中で、久しぶりにキアーナと渡り廊下ですれ違った。相変わらず、ぞろぞろとお供を引き連れている。
「ああ、誰かと思えば。──あまりに見かけないから、田舎に帰ったかと思っていたよ」
薄い紫の長衣をひるがえし、扇で笑んだ口元を覆う。俺はにこりと笑むと。
「キヤーナ様もお元気そうで。庵は大変過ごしやすく、満足しております」
確かにその通りで。あの一件がなければ、今ごろ、春光宮で窮屈な思いをしていただろう。何を企んでいたにしろ、キヤーナには感謝しかなかった。
「…それは良かった。あんな王宮の片隅、辺鄙で何もない所だからどうかと思ったけれど…。案外、合っていたようだね。──アルーン様は訪れていないようだけれど」
「…色々ご都合がおありでしょうから」
こいつ、知らないのだな。
アルーンが、時折訪れていた事に。どうやら耳には入っていないらしい。
「…キヤーナ様、そろそろ」
と、そこへキヤーナの背後に控えていた、肌の浅黒い侍従がボソボソと声をかけてきた。そこで、ああやはりと思った。
この男──昨晩、見た男だ。
間違いない。
なぜあのような不審な行動を取っていたのか。あれはどう見ても、外部とやり取りをしていたとしか思えない。
あんな方法を取らずとも、文でも交わせばいいこと。それをせず、人目を忍んでいたと言うことは、よほど人に知られたくない、後ろ暗い所があるのだろう。
「──なんだ?」
キヤーナはじっと背後を見ていた俺に不審気だったが。
「何でもない…」
そう言って、何食わぬ顔で横を通り過ぎた。
──さて。報告すべきか。
アルーンに告げるまではいかないが、せめてイサクには伝えて置こうかと思った。
しかしその後、イサクはなかなか捕まらなかった。
その日の早朝、侍従らが忙しくなる前にと、アトフの部屋を訪ねると、イサクの行き先を聞いた。
するとアトフは困ったように眉を下げ。
「…最近、よく城外へ行くことが多いのです。アルーン皇子のお供で行っている様なのですが…」
「いったいどこへ?」
俺の問に、アトフはさらに弱ったように言いよどみ。
「その──…」
「私、昨晩、ほかの侍従仲間から聞きました!」
横から支度中のルンが会話に入ってきた。アトフと同室のルンは、朝早い時間の為、まだこちらで支度を整えている最中だったのだ。
ルンは髪をまとめながら、怒った口調で続ける。
「どこかの商家の娘に、会いに行っているらしいって話なんです!」
「…商家の…娘?」
「そうなんです! どうやら宰相の息のかかっていない女性のようで…。かなりの美貌で評判だそうです」
「──そうか…」
初耳だ。
ルンは唇を噛みしめ俯くと。
「あれだけちょくちょくリイン様のところに来られていたのに…、ほかでも親しい人をつくっていたなんて──。なんか、がっかりです…」
「それは──本当なのか?」
アトフを振り返れば、
「ええ…と。その──まあ…。イサク様がそうおっしゃられたので…」
「──なら、間違いないな。外の女人に逢いに行くなど、アルーンもやるじゃないか」
「リイン様!」
ルンがたしなめるように声を上げるが。
「皇子なら当たり前のことだ。外に通った所でなにも問題はない。俺は妃でも男子だ。何か言える立場じゃないさ。──だいたい、俺とアルーン皇子は友人に近い関係だ。逆に応援すべきだろう。宰相の息がかかっていないのなら、尚更だ」
「でも…。ここ最近、熱心に通う相手は、リイン様だけなのかと…」
あとで聞いた話だが、アルーンはひとりの側や妾に執心したことがないのだと言う。
だから、俺の所にちょくちょく顔を見せていたのはかなり特異なことらしく。後でその件を知ったアトフは驚いていた。
俺はぽんとルンの頭を撫でると。
「アルーン皇子は重責を担っている。心を許せる相手は多いほど、寛げる場所も増えるというものだ。悲しむことはなにもないよ」
「…せっかく、いい兆しが見えてきていたのに。また、以前に逆戻りなのでしょうか…」
ルンはうなだれた。
──逆戻り。また放っておかれるという事か。
確かにここ最近、夜も訪れなくなっていた。振り返った先、縁側にも花が置かれてはいない。
寂しいと言えば寂しいが、アルーンの事を思えば、それでいいのだろう。
「まあ、また気が向けば訪れてくれるだろう」
「リイン様…」
「ルン、俺は気にしない。お前も必要以上に気にするな」
そう言い残し、また庵へと戻った。
居間の飾り棚に置かれた一輪差しに活けられた花は、すでに萎れている。
真っ白なサギソウだ。鳥が羽根を広げたような様は、今はすっかり首を垂れていた。
ここへ来たばかりの頃は、ルンの方が妃に合っていると思っていたのに、いつの間にかそんな考えは霧散していた。
それは、アルーンと会うたびに、僅かと言えども、人として惹かれる自分がいたからにほかならない。
──当分、来ないのだろうな。
そっと花を手に取って見つめる。
──これが縁側に置かれていたのは、いつの頃だったか──。
それは、はるか昔の事のように思えた。
◇
キヤーナは、リインの様子に引っかかりを感じていた。
──あの王子は思っていることが顔に出やすい…。
こちらを見て、何か思う所があるような素振りを見せていた。
──何を驚いたのか。
なにかあの田舎者に関わることがあったかと振り返るが。
「──カラザ。おまえ、昨晩の連絡は何事もなく済んだのだったな?」
背後に控えていた肌の浅黒い侍従に声をかける。カラザと呼ばれた侍従は軽く平伏し。
「──はい。なにごともなく」
「そうか…」
──あの田舎者に見られたか?
たしかに、あの場所は北の端、ぼろ小屋の近くではあるが、あの晩は月の光も弱く、辺りは暗かったはず。
──しかし、用心するにこしたことはない…。
「──少し、リインの身辺を探れ。少しでも変わった様子があれば知らせろ」
「は──」
侍従は頭を下げた。




