10.その言葉
ルンとは湯殿を出たあと別れた。侍従らの部屋で休むからだ。
間際まで一緒についていくと粘ったが、寝る前に笛を吹きたいんだと言えば、大人しく引き下がる。
俺が飽きもせず吹くのは知っているし、いつ終わるとも知れないそれに、付き合えば就寝時間が削られる。そんなことになれば、朝の早い侍従らの仕事に差し障りが出る。
それに、終わるのを待っていると思えば、俺が満足いくまで吹けないだろうと考えたのだろう。
「ほどほどにして、早めに寝て下さいよ?」
「わかってる」
ルンが別れ際、まるで幼子を諭すようにそう口にした。主への態度に、迎えに来た侍従が驚いていたが、すっかりこれが普通になっているため、別段、気にはならない。
ルンは、絶対、早くなんて寝ないんですからっ! とブチブチ文句を言いながら、侍従と共に去って行った。
「──では、行きましょう」
俺の前には手に灯りを持ったアトフが行く。月明かりに照らされる廊下に、その灯りだけがぼんやり浮かんだ。
前と同じ様に、いったん庭へ降りたあと、庵の前まで来て。
「後ほどイサク様が参りますので…」
「もう、夜も遅いのに? なにか急用か?」
夜もすっかり更けている。先ほどまで上がったばかりだった月も、今は天頂へ移動しつつあった。アトフは庵に入ると、手にしていた灯りの炎を、室内の燭台へと移し。
「──いえ。お話ししたいことがあるようで。この度の不手際をお詫びしたいと…」
「ああ、それか…。まあ、仕方ないとわかっているんだが──断るのもな。それなら、待っているよ」
「よろしくお願い致します…」
深々と頭を下げたアトフは、灯りを手に元来た道をとぼとぼと戻って行った。
言われた通り、部屋の中には丁寧に布団が敷かれていた。敷き布団の下には、厚めの下敷きを敷いてある。上に乗ればふかふかだった。
それに気を使ったのか、干し杏や干し芋、ナツメにナッツの類が、枕元に置かれた菓子鉢の中にドッサリ盛られていた。この分だと、ルンも同じ扱いを受けているだろう。
──これで、十分今日の色々は帳消しなんだがな。
布団は温かいし、幾ら笛を吹いても怒られない。小腹がすけば、菓子鉢に盛られた干菓子を食べればいい。何の不足もなかった。
強いて言えば、アルーン皇子のお渡りがないことなのだろうが、俺個人としては、余計な気を使わずに済む。ない方がありがたかった。
ふと、土間の釜土に目が行く。かなり使い込まれたそれは、黒い煤の跡が残っていた。
──ここで自炊をしていたんだな…。
そう思うと、ウイラでの日々を思いだした。
よく城を抜け出して、こもっていた小屋で自炊してたのだ。この庵でならそれが可能だった。
──こっちへ食事を運んでくるのも大変だし、かといって、いちいちあっちの部屋へ食べにいくのもな。
それなら、ここで自炊も悪くない。ちょうどイサクが来るというなら、相談してみようと思った。
布団と共に運び込まれていた荷物の中から龍笛を取り出し、月の光の下、縁側で手入れをしていれば。
「…夜分遅くに失礼いたします。イスハークです」
凛とした明瞭な声が、木戸の向こうから聞こえてきた。
「どうぞ」
つっかえ棒などで錠はかけていない。手入れの手を止め、それに答えた。やや間があって木戸が引かれると、イサクが姿を現す。
丁寧に扉を閉めたあと、まずは深々と頭を下げ、それから板の間に上がり手を付くと。
「──本日は輿入れ初日というのに、至らぬことばかり、大変申し訳ございませんでした」
そう言って、床に額がつくほど深く頭をさげた。
「気にしなくていいよ、イサク。俺はなにも不自由に思っていないから──」
「そういうわけには参りません。謝って済むことではありませんが、まずは謝罪させて下さい」
そうして、床に額をつけたまま。
「──にもかかわらず、アトフにお咎めなきようにとお心遣いいただき、ありがとうございます。お手紙を拝読し、深く感動いたしました…。すべての責任はこの私にあります。アルーン様はただいま、ご就寝中でありますが、明日にはこの旨報告し、処分について仰ぐ所存で──」
「もういいって、イサク。頭を上げてくれ」
「──」
頭を下げたイサクの肩がぴくりと動いた。
「俺はほんとうに何とも思っていないんだ。──逆に楽しんでいる位でさ。この庵で十分、満足してる…。アルーン皇子に報告の必要はないよ。報告するなら快適に過ごしてるって、それだけでいい」
「しかし──」
「いいんだ。──俺はさ、ここに来る前、ほとんど城に帰らず、村人に混じって暮らしていたんだ。だから、堅苦しいのや煌やかなのには、慣れていなくて…。処遇に不足はない。──これで十分なんだ」
「しかし、本来であれば、ここへ皇子が来られるはずで──」
一旦笛を置くと、紅い髪をかき回しつつ、
「それなんだが──アルーン皇子が来ないのも、実は内心、ホッとしてるんだ…。皇子が来てもどうしていいのか分からないし、キヤーナみたいなのが好きなら、俺じゃきっと満足しないだろう?」
「リイン様…」
「気を悪くしないでくれ。君の主人を悪く言うつもりはないんだ。──ただ、現実から目を背けるつもりはないってだけで…。気乗りしないまま、事を進めるのもな…。だいたい、これは親の言いつけに従ったまで。お互い、無理をする必要はないさ」
「……」
「俺は神子の力がなかった。…なんの役にも立たない『力なし』なんだ…。こんな俺を受け入れてくれて、感謝してる──。アルーン皇子には、ありがとうと伝えてくれ」
「……承知致しました」
イサクは何か言いたげだったが、口にはせず深々と頭を下げた。
「そうだ、イサク。ついでに、頼みがあるんだが──明日からここで食事を作ってもいいか?」
「…ここで…自ら?」
俺は頷くと。
「見れば、立派な釜土も水場もある。人ひとり、十分暮らせるよ。ここのもと主はきっとそうしていたんだろうなぁと思ってさ」
「…確かに、皇太后様は、前皇帝亡きあと、こちらにてお過ごしになられておりましたが…」
「どうも、豪華な食事は口に合わなくてな。村で過ごしていた時もちょくちょく自炊をしてたんだ。この庵にきたらそれを思い出してさ…。少しでいいから食材を分けてもらえれば助かる。いいものじゃなくていい。切れ端とか傷んだものとか…。金が必要なら言ってくれ。ある程度、持たせてもらっているから」
イサクは眉間に皺を寄せ、かなり困惑した様子だったが。
「…ご命令とあらば。──承知致しました。金銭については必要ないかと。余剰がありますので。──それでは明日、早いうちにこちらへお持ち致します。外の入口へ置いておきますので。他にも必要になりそうなものも揃えさせていただきます」
「すまないな」
「いいえ…。それでは、夜分遅くに失礼いたしました。よくお休みを…」
イサクは丁寧に頭を下げ、庵を後にした。
色々あった一日だった。
ウイラを出た早々、牛糞に頭を突っこんだのを皮切りに、マシュリク皇帝とアルーン皇子に謁見し。謁見が終わりホッとしたのも束の間、入るはずの宮殿はまた牛糞まみれ。朽ちかけた庵に案内され、侍従らと同じ薄い粥を食べ、風呂をもらい。
「なかなか、面白い一日だったな…」
思わずくすりと一人笑んでしまった。ルンのように怒りは湧かない。こういう一日もあるのだと思える。
改めて手の中の龍笛に目を落とし。
「さて。──吹くとするか」
ニンマリ笑うと、笛を背の帯へ差し込み、庭へと出た。
月は頂天にある。白く光る月は淡くけぶって見えた。それをしばし眺めたあと、庭に置かれた石の上によじ登る。
小山の様なそれは、先ほど目星をつけておいたのだ。つるっとした滑らかな表面は、ひんやりとしていたが、冷たいと感じるほどではない。
「よっと…」
そこへ胡座をかき、背に差した笛を取り出すと、おもむろに唄口に下唇を押し当てた。
腹から息を吐き出すと、思っていた通りの高音が飛び出す。周囲に遮るものがない為か、音が吸い込まれるように天へ昇っていった。
──気持ちいいな…。
強弱をつけながら吹くうちに、今日あったことも忘れ、ただ音の中に浸った。
吹くのは郷に伝わる曲だ。作曲者は分からないが、古くから親しまれている。力強く、時には切ない響きとなる。
今日、もし強いて一番堪えたのはなにかと問われれば、絞り出した挙げ句、アルーンの一言に尽きるだろう。
『力なしだからだ』
その言葉以外、後はたいして気にはならなかった。
◇
その夜、キヤーナの飾り立てた宮殿へ、アルーンが訪れる。そこで酒を飲み、夕餉を取るためだ。
アルーンは公務の合間を縫って、間隔をあけながらも、それぞれ側や妾の元を訪れる。誰か一人に入れ込むことはないため、今のところ、互いにいがみ合うようなことはない。
ただ、今いる側や妾が、キヤーナに面と向かって立てつくことはなかったが。
アルーンは杯を手に、視線を窓の外、月の昇る夜空に向けていた。
「…今晩は、月もよく見えます。──どうぞ」
「ああ…」
空になった杯になみなみと酒を注ぐ。
本来なら、今晩はここにいないはずだった。
今日はウイラより妃を迎えた日。本来ならそちらで晩餐となるはずだったが、宰相を通じ、今日はこちらへ渡って欲しいと懇願したのだ。
宰相は、妃となるリインと、ほかの側や妾が争うようになってはならないと進言し、とりあえず、今一番古株となるキヤーナの機嫌をとるべきとすすめたのだ。
「申し訳ありません…。大事な日、わたくしの我儘を聞き入れていただき…」
「──かまわない。どちらにしろ、形だけだ。あちらにも十分支度はさせてある…」
「ああ…。それなのですが、夕になって、春光宮で騒ぎがあったようで…」
「騒ぎ?」
アルーンの杯をもった手が止まる。この男には珍しく、表情を変えて見せた。それが、おやとキヤーナを思わせたが。
アルーンはめったなことで感情を表に出さない。自分を抱いている時でさえ、どこか冷静さをもって対応しているくらいだ。
「…はい。口にするのもはばかられますが…。なにものかが、部屋を牛の汚物で汚したようで…。きっと、どちらかの側か妾の仕業でしょう。あとで調べさせ、かならず犯人をあげましょう…」
もちろん、汚すように指示をしたのはキヤーナだ。
一番の側近である侍従に指示し、誰にも気づかれぬようにと言い含め。
この罪は、適当な側か妾にかぶせればいい。確か気の弱い、こちらのいいなりになる、いつもびくびくしている側がいたはず。あれにかぶせればいい、そう思っていたのだが。
「──いや、いい」
そうとだけ言うと、杯の中身をすべてあおった。視線はまた、外へと向けられる。
「しかし、せっかくご用意された品々も、ほとんどが傷んでしまったようで…。掃除を手伝った侍従が、かなりいい品だったのに残念だと申しておりました…」
その品さえ、汚れを落とし、また使うとリインは言ったらしい。
──どこまでも、うす汚い田舎者めが。
家畜のふん尿にまみれているのがお似合いだ。そう、心の中で毒づくが。
それは、后が持つような品々だったと言う。揃えたものすべて上質で、意匠のこらされた高級な一品だったとか。マシュリクの后や側でさえ、持たないような品も混じっていたらしく。
──誰の指図か。
キヤーナは感情の読み取れないアルーンの横顔を見つめた。
たいていは、傍付きの侍従が指図する。だが、報告をきくだに侍従のみでは用意することはできない品ばかりだったとか。あまりに高価なものは主の指図がなければ勝手に用意などできない。
──まさか、このアルーンが?
いや。誰にも興味を示さないこの男が、顔も知らぬ相手にそれほどまでするものか。きっと、皇帝マシュリクが気を利かせて用意させたに違いない。
ウイラの王とは懇意だと聞く。この婚儀もかなり昔に約束してあったのだとか。取りやめさせたかったが、それだけは宰相アスワドも口を出すことはできなかったらしい。
「──あれは──父が用意させたものだ…。この件は伏せて置け。知れば騒ぎになる」
「承知いたしました…」
やはりそうだったかと納得する。このアルーンが他人に興味を持つなどありない。長い間ずっと見てきたのだ。
──しかし、もし、誰かに現を抜かすというのであれば──。
キヤーナは冷えた眼差しを、今も外を見つめるアルーンに向けた。
どこからか、かすかに笛の音が聴こえたのは気のせいか──。天頂には煌々と辺りを照らす、半月が浮かんでいた。




