9.庵
井戸は使えた。手押しの取っ手を何度か押し下げると、青銅色の蛇口からどっと水が吹き出す。濁りもない。
──水は大丈夫だな。あとは──。
背後に佇む手つかずの庵を振り返った。とりあえず掃除はひと間だけ。三人いればなんとかなるだろう。
その後、アトフとルンが持ってきた掃除道具一式で早速掃除を始めた。
月が中天に差しかかる中、皆で囲炉裏のあるひと間を、はたきをかけ、雑巾で拭き、塵を掃き出す。
いったい、いつから掃除をしていなかったのか、かなりの汚れだったが、そうは言っても六畳あるかないかの広さ。皆でやれば案外あっという間だった。
一段落した所で、アトフが控え目に声をかけてくる。
「──あの、夕餉はこちらにお持ちしますか? それとも、よろしければ先ほどの控えの間にご用意いたしますが…。その間に、ここへ寝具の類をお運びいたします」
「はいっ! はい、はい! 夕餉は控えの間にお願いします!」
ルンが勢いよく手を上げて宣言する。
「しかし──」
俺が異を唱えようとすれば。
「その方が、準備も片付けも楽ですから。断然、控えの間で!」
ルンは譲らない。俺はあきらめて肩をすくめると、反論はしなかった。
ルンの言う通りでもある。わざわざ長い廊下を渡って、また庭へ降りて、この庵に食事を運ぶなど、手間がかかり面倒だ。
「──では、そのように。準備が整い次第、お呼びいたします」
アトフは微笑むと軽く頭を下げ足早に去って行った。アトフは年若いが、慌てているようでいて、臨機応変に対応してくれる。流石、イサクの部下だ。
「あー、楽しみ! いったいどんなお料理が出るのでしょう!」
輿入れしたその日の晩餐だ。ファジルではどんな祝の膳が出るのかと、ルンは期待で胸を膨らましている。
が、そうして半時程して現れたアトフは、ひどく申し訳なさそうな顔をしていたのだった。
「…お食事なのですが、手違いで既にこちらの食事が済んだと思われ、粗方片づけられてしまっており──。申しわけございませんっ!」
そこへ座ると、土間に額をすり付けて謝る。
「えぇー?!」
ルンが声を上げた。
「急いでご用意したのですが、私どもと同じ物となってしまい…。イサク様にご相談しようにも、アルーン様のそばに控えているとのことで、すぐには会えず…。大変、申し訳ございません!」
ルンはあんぐりと口を開けたまま、なにも言葉を発する事ができずにいる。俺は慌てて土間へ降りるとその肩に手を置き、顔を起こさせた。
「──謝る必要はない。手違いなどいくらでもある。食事など腹になにか入ればいいんだ。──ほら、顔を起こして。君らと同じもので充分だ」
「リイン様…。本当に申し訳ございません……」
「気にするな。それと、あとで手紙を書きたいんだ。紙と書くものを用意してくれるか?」
「…はい…。のちほどお持ちいたします…」
すっかり意気消沈したアトフは、俺とルンを先ほどの控えの間へ案内した。
夕餉の食卓に乗ったのは、僅かに具の入った汁物の碗とおこげの混じった、殆ど糊状になったおかゆ、大量の茄子の漬け物だった。それでも、アトフが頑張ったのか、量はひとり二人前はある。
「おかわりはございますから、遠慮せずお召し上がり下さい」
健気に微笑むアトフだが、どこか無理をしている様に思えた。俺はしばしその前で佇み、腕を組むと、
「──アトフ。俺たちはそこまで腹は減っていないんだ。俺の分をルンと分ける。後は下げてくれないか?」
「ですが──」
「アトフ。君の心遣いはとても嬉しいよ。でも、その気持ちだけで充分だ。いいから下げてくれ」
「…はい」
そうして、しおしおとアトフはひとり分の食事を下げると、後ほど書くものをお持ちしますと言い残し、庵を後にした。
その背を見送ったあと、ルンは眦を吊り上げ、
「どうして、あんなことを? これだけじゃ、絶対、おなか空きますよ? せっかく用意してくれたのに…」
「これはたぶん、アトフの分だ。もしくは、同僚達のな…」
「ええっ?」
「大きなお屋敷に行くと、下の者ほど食事は後になり、必然的に質も落ちて量も減る。──ウイラでも昔はそうだった…」
「そうなんですか?」
ああ、とうなずくと。
「…まだ幼い頃、夜の一人寝がさみしくて、乳母に会いにいった事があったんだ。その時、乳母は暗くて寒い台所の隅で黙々と食べてた。──皆が食べ終わって、余った米をお湯で延ばした、ほとんど水みたいな粥をな…。俺の乳母は下っ端で若い方だった」
「…そんな」
「父の代になって見直したんだ。だから、ルンの頃はちゃんと充分、量も質もあったはずだ。俺たちと同じ物を食べてたよ」
「…知りませんでした」
「ま、だからこれもきっと同じだなと。大国と言えど、案外、変わらないのだな?」
俺は笑って見せるが、ルンは意気消沈している。
「そうですね…」
「──それはそうと、さっき庵の庭でナツメがなってたぞ? 後でいただこう。ほったらかしの庭だ。少しくらいご相伴に預かっても、文句は言わないだろう。あれで結構空腹はしのげるぞ?」
それを聞いたルンは、よよと顔を覆うと。
「……うう。不憫です…。今ごろ、煌びやかなお部屋で絢爛豪華な食卓について、アルーン皇子と酒を酌み交わしていただろうに…。なのに! 部屋はすすまみれで、食事は延ばされた糊状のおかゆと茄子の漬け物、果ては庭の木の実って! どうしてこんな事に? 皇子はなにも知らないのですか!」
「そう興奮するな。皇子はお忙しい身だ。それどころではないのさ。──それに、食べられるだけマシなんだぞ? この漬け物、美味そうだ。さあ、冷めないうちにありがたくいただこう。アトフ達の気持ちだ」
そうして、半泣きになるルンと共に、ささやかな夕餉を粛々と済ませたのだった。
食事が終わると、すっかりしょげかえったアトフが持ってきてくれた紙と筆、墨で早速手紙をしたためる。
脇にあった文机でサラサラと迷いなく書き付けると、ルンが横から覗き込んできて。
「何をお書きなのですか?」
「ちょっとしたお願いさ。大したことは書いていない──」
「もっと綺麗な部屋と食事を! ──って?」
「ちがう、ちがう。──さて」
そう言って書いた手紙の墨を吸い取った後、ぱたりとぱたりと折り込み、片付けに訪れたアトフに差し出した。
「──これを、イサクに渡してくれるか?」
「…はい。分かりました」
やや不安げな顔をしたものの、それを大事そうに懐へしまい、また済まなさそうに眉をハの字にして、
「──その、湯殿なのですが……」
「え! お湯も使えないのですか?」
先走ったルンが声を荒げるが。
「い、いいえ。使えるのですが、実は湯殿はただいま、アルーン様がお使いでして…。その…」
言いづらそうにするアトフにピンと来たらしいルンは。
「──まさか、あのキヤーナと?」
詰め寄るルンにアトフは更に泣きそうな顔になりながら、
「…は、はい。今しばらくお時間がかかるようで…」
「うわー、もー、なんなんですか? 今日はどんな日か分かっているので? リイン様の輿入れの日ですよ! ファジルではこれが普通なのですか?」
「も、申し訳ございませんっ!」
怒り出すルンに、平身低頭するアトフ。
もう喜劇の様だ。俺は二人の間に立って、それぞれの背をなだめるように、ぽんぽんと叩くと。
「ルンそれくらいにしておけ。アトフに怒っても仕方ない。彼が悪いわけではないんだ。──アトフも必要以上に自分を責めるな。今日はそういう日だったんだ」
「わかってます! わかってますけど! 幾らなんでも酷すぎますぅ!」
「お、お湯は、私どもが使っている湯殿があります! そちらをお使いいただければ…」
ルンは嘆き、アトフは必死に言い募る。
「──けど、俺たちが使えば、その間、皆は待つことになるだろう? どうせなら、一緒に入ってしまえばいい」
「そ、それはっ、流石に──」
アトフは狼狽えた。ルンが今度は顔を真っ赤にして怒り出す。
「そうですよ! ここはウイラとは違うって言ったじゃないですか!」
「ウイラでは、王家の方々一緒に入るのですか?」
アトフは目を丸くするが。ルンは手ぶり身ぶりで精一杯否定する。
「違うんです。この方だけがおかしいんですぅ! 普通は一緒になんて、入りません! この人、平気で身分の下のものと一緒に入るんですっ。私どもとも入りますし、村人等とも公衆浴場で一緒に入るんですから!」
「村人とも…」
アトフの目は真ん丸だ。
「まあ、俺が気にしないんだからいいじゃないか。皆にはルンの配下だとでも言えばいい。──そう言う事で」
「そういうことじゃありませんっ!」
「ああ、別に致しますので──」
オイオイ泣き出すルンに、アトフもアタフタし出すが、
「アトフ、気にするな。ルンはいろいろあって不安定になっているんだ。お湯は遠慮なく使わせてもらうよ。アトフたちはいつも通り使ってくれ」
「は、はい…。分かりました…」
「すまないな。アトフ」
「いえ。──それでは、私どもが使う湯殿は、ルン様がご存じですので、ご案内はお任せ致します。こちらに入浴に必要なものは揃えてございます。あちらの宮に就寝の準備も整えさせていただきました」
「ありがとう。アトフ」
「いいえ…。ルン様は私とこちらで同室となります。後ほど、お迎えに上がりますので…」
アトフは恐縮しながら、手紙を携え退がっていった。
「……私、この事は一生、忘れませんから」
ぐすっと鼻を鳴らし、ルンは悔しそうに床を睨みつけていた。
その後、ルンをなだめすかし、湯殿へ向かった。脱衣所には使った形跡があったが、人気はない。
「きっとアトフが気を使ったんだな」
「…使用人が使った後なんて…」
「入れるだけましだ。ほら、さっさと入ろう」
ルンを急かして、手ぬぐいを手に浴場に入った。モワモワと白い湯気が立ち、ヒノキのいい香りがする。
四、五人も入ればいっぱいだろう湯船には、満々とお湯が湛えられていた。きっとアトフが手を回したのだろう。普通なら、汚れてお湯も減っているはずだ。
「さ。背中を流してやる。ルンと入るのは久しぶりだな? …ちょっと太ったか?」
「っ、太ってなんか、いませんっ」
ずっと機嫌が治らないルンをからかいながら湯を済ませた。




