宇宙服実習 その1 初めての宇宙服
朝、ホームルームの前。
藍崎華瑠奈が後ろの席に付いた気配を感じた浅井は振り返る。
「おはよう」
「おはようございます」
今日は宇宙服を着て月面に出る実習授業がある。
浅井にとっては初めての宇宙服だし月面にでるのも初めてなので、ちょっと楽しみだ。藍崎はここで生まれたんだから何度も経験があるだろうし、どんな感じかちょっと聞いてみるか。
「今日、宇宙服の実習あるよね」
「はい」
「宇宙服もそうだけど、月面に出るのも初めてだから楽しみにしてたんだ」
一限目の授業の準備を続けながらかるくうなずく藍崎。
ちょっと待ったが何も話しそうにないので、浅井は質問することにした。
「宇宙服とか月面ってどんな感じ?」
藍崎はちょっと考え込むような表情の後、話し始める。
「宇宙服はいわゆる1気圧宇宙服だから、プリブリーズとかは必要なくてそのまま着るというか中に入るだけ。あと、月面は灰色」
ちょっと反応に困る浅井。まあ、そうなんだろうけど、そういうことを聞きたかったわけじゃないんだが。
「あ、プリブリーズっていうのは...」
「みんな、おはよう」
藍崎が聞き慣れない言葉の説明を始めたところで担任が教師に入ってきた。
「じゃあ、また」
そういうと浅井は体を前に向ける。なんか毎朝こんな感じの「会話」をしている気がする。
「今日は宇宙服実習がある。転入生には初めての者もいるかな」
担任が今学期から地球から転入してきた生徒の方を見る。
「ツアーで月面に出たことがあります」
前の方にいる女子生徒が発言する。彼女も転入生だったな。
宇宙服は地球軌道のステーションでも体験できるが、地球以外の天体で一般人が宇宙服を着て地表を歩けるのはここだけということもあり、宇宙服で月面に出るムーンウォークツアーは人気がある。人気どころか、このツアーを利用しない観光客はいない。
「観光客が使う宇宙服も今日実習で使う宇宙服もどちらも1気圧宇宙服といって、事前の準備が必要なく普段着のまま着ることができるタイプだ」
宇宙服といえば、一部の宇宙飛行士しか使うことのなかった時代には宇宙服内の気圧は確か0.3気圧くらいだったはずだ。なので、昔は宇宙服を着るまでに時間がかかったんじゃなかったかな。
さっき藍崎が説明しかけたなんとかっていうやつだなと浅井は思い出す。低い気圧にしていたのは、気圧が高いと宇宙服が膨らんで動きにくくなるからだが、今では1気圧のままでもパワーアシスト機能によって動けるようになっているそうだ。
「実習は各クラスごと、このクラスはこのあとから。場所は、宇宙港の観光ツアーと同じところだな」
ホームルームの後、宇宙服の構造や装着の仕方、緊急時の対応などの説明を一通り受ける。転入生以外は退屈そうに聞いている奴も多いが、浅井にとっては初めての経験だし月面で自分の命をあずける装備なので、ちゃんと聞いておくことにする。
そして、レクチャーの後、担任の引率で地下鉄を使い宇宙港駅に移動する。
地下鉄を降りると月面ツアーの案内がある。ここは月の南極に近いので月の裏側へのツアーなんてのもあるんだな。
さて、向かう先は観光客と同じなので案内の通りエレベーターホールに向かう。観光客の集団もいる。
エレベーターで地上部まで上がり、更に案内に従い宇宙服着脱室と書かれた部屋に向かう。中に入ると、なんか花火というか火薬のようなにおいがする。浅井は越してくる前に読んだ月に関する案内に、においについて説明があったことを思い出す。これは月の砂、レゴリスのにおいなのだろう。
「これらの宇宙服は、そのままの格好で、靴も履いたままで装着ができる」
担任はそういうと、実習授業のための待機場所に並べられた宇宙服の方を指さす。近くには宇宙港の職員のような感じの人が何人かいる。
「人数分あるから、宇宙服のところに移動」
宇宙服は腰のあたりで上下に二分されている。上半身はハンガーのようなものから吊るされており、下半身部分が膝の高さくらいまで下がっている。下半身部の後ろには台があるので、そこに座って下半身部に両足を入れるようだ。藍崎は浅井から5つ目の宇宙服のところにいるようだ。
「手袋が置いてあるから先につけて、それから台に座って下半身部に両足を入れる」
教師の指示に従い浅井は白くて薄い手袋を手にはめる。宇宙服は共用だから直接皮膚が触れないようにするためのものだろう。ちょっとかがんで台に腰をかけ下半身部に両足を入れる。
「次に、上半身部をかぶりながら立ち上がる。下半身部を持ち上げるのは後から」
なるほど。確かに先に腰のところを持ち上げても、上半身部をかぶる際には両手を使うから下にずり落ちる。
そんなことを考えながら浅井は上半身部の連結部をつかみ持って体を通す。ちょっと引っ張るとハンガーから外れたような感覚がある。両腕を上に上げてヘルメット部をかぶり両腕を腕の部分に通す。肩に上半身部を支えるクッションがあるようだ。ヘルメット部は結構大きく、内側にはディスプレイがあってクリーニング済みと表示されている。
正面のフェイスプレートの下側にはいろんな情報やメニューが表示されている。透明な部分は正面の180度、いやちょっと狭くて160度くらいかな。
ディスプレイに、すべてのチェックがOKと表示された後、急に視界が広がる。ヘルメットの内側にはディスプレイになっているところがあり、真横からちょっと後ろ側までが透明になったように見える。正面上部には後ろの様子が映る車のバックミラーのようなエリアがあ、振り返らなくても後ろを確認できるようだ。
両腕を宇宙服の手の部分まで通し、かがんで下半身の連結部を持ち上げる。上半身部の連結部に近づけると磁石の力だろうか、カチッとくっつく音がする。さらに締め付けているようなモーター音が聞こえ、靴も宇宙服の足の部分に固定されるような感覚がある。上半身部をかぶった際には、宇宙服を肩に乗せてるような感覚があったが、下半身部分との連結が完了すると、肩の部分が上に持ち上がり肩にかかる重さがなくなった。
ディスプレイには「連結完了」と表示され、更に生命維持装置の各項目とか通信機能、温度調整とか二酸化炭素の処理装置等のチェックが次々と画面に流れ、すべて正常と表示される。水分補給用のストローや、携帯トイレも装備されているようだ。
空気残量は8時間、メインタンクが4時間、予備タンクが2つでそれぞれ2時間か。結構長いな。後、二酸化炭素濃度は正常と表示されている。
『連結ができたら前に出て』
担任の声が宇宙服内のスピーカーから聞こえてくる。フェイスプレートの右下に担任の顔が映っている。右上にカメラが付いているようだ。
そして声は右斜め前のちょっと離れたところしゃべっているように聞こえる。位置関係を元にしているのだろう。映画館のサラウンドシステムのような感じか。音が伝わらない真空の環境では重要な情報だ。
ハンガーに吊るされていた上半身部は下半身との連結が完了した際にハンガーから外れたようだ。浅井は前に向かって歩き出す。




