月下の斬影
その夜、戸川市の郊外で発生した異界漏出事案は、正式には「第二〇七号忌獣出現・無許可宗教者関与案件」として処理された。
だが、現場を目撃した市民の証言は一様にこうだった。
「……刀を持った高校生が、怪物を一太刀で斬ったんだよ。銃も無しに」
熊に白兵戦を挑む愚か者が居ないように怪物は基本的に人間よりも身体能力の優れた存在であり、銃器でなく白兵武器で挑もうとする者は極々少数派だ。
事件があったのは、山手通りの外れ。倉庫群の裏手にあたる薄暗い道だった。雑居ビルの裏に、忌獣──人の形をした瘦せ細った犬のような影が、誰にも気づかれずに入り込んでいた。
だがそれは、不意に何かの“気配”を感じ取ったのか、身を翻した。通りの向こうに立っていた人影に、牙をむいた。
その人物は、剣道の稽古着のまま、背筋を伸ばして立っていた。
古賀史紀。戸川高校剣道部主将。刀を持つ少年。
彼はゆっくりと右手を伸ばす。黒塗りの鞘から、月光に照らされて輝く真剣が抜かれる。
「成仏せい」
その言葉と同時に、獣が跳んだ。
轟音のような唸りと共に突進してくる忌獣の姿は、もはや人間の目には残像でしか捉えられない。
だが、次の瞬間には──。
銀の弧が一閃。
獣の胴体が真横に裂かれ、赤黒い内臓と液体が宙に舞う。古賀の肩口から腰へと一直線に伸びた斬撃は、何の抵抗もなく忌獣を断ち割っていた。
「……結界、完了」
地面に描かれた五芒星の護符が淡く光を放ち、獣の残骸は黒煙となって四散する。
静寂。
鞘に刀が収まる音だけが夜に響いた。
翌朝、事件を聞きつけた自警部は彼のもとを再び訪れた。
「……だから言ったろ。俺には群れは似合わん。俺のやり方は、お前らと違うんだ」
そう告げて、古賀史紀は再び校庭の隅にある剣道場へと歩いていった。
彼の背中には、誰もが否応なく黙らされる“本物”の気配が漂っていた。