ちょうちょ
「ねえ、ヴィル、かわいそう。逃がしてあげましょうよ。」
マリーヌが今にも泣きだしそうな声でヴィルヘルムにささやいた。
それに対し、冗談じゃないや、と彼はふんと鼻で笑った。 せっかく捕まえたんだぜ。
めったにいない、濃い深い青をした珍しい蝶。
ヴィルヘルムは昆虫の採集が趣味であった。・・・特に蝶が好きだった。
子どもながらに学者顔負けの知識の持ち主でもあった。
しかし・・今回つかまえたこの蝶は、あまりにも珍しく見た事もない類のものだった。
模様もこれまで見てきた中でとりわけ美しく、そしてどこか非現実的で、神秘的。
とにかく魅力的だった。
それがかえって彼の興味を大いにそそった。
さっそく帰って片っ端から図鑑を広げて調べ、ひととおり吟味をした後・・・・針で刺して標本にするつもりである。
そして額縁の中のコレクションのひとつとして加える。
彼は蝶の体に針を通す瞬間が、一番好きだった。
うららかな春の庭園。
虫かごの中の蝶をうっとり見つめるヴィルヘルムを見てマリーヌは深くため息をついて言った。
「どんな小さな生き物にだって命はあるのよ。」
「君だって毎日、肉や魚を食べてるだろう?」蝶から視線を話さずにヴィルヘルムは言い返した。
「・・・・・。」そう言われると、返す言葉もなくマリーヌは黙るほかなかった。
「じゃあな。」幼なじみに冷たく言い放つと、ヴィルヘルムはさっさと行ってしまった。
取り残されたマリーヌは彼を見送るしかなかった。
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「さて、と。」
部屋に戻ったヴィルヘルムは早速、図鑑を広げてコレクションの制作に取り掛かった。
しかし、どの図鑑を調べても、インターネットで調べても・・・いっこうに蝶の種類はわからなかった。
今までにない事だった。
写真をアップして専門家に聞く、という事も考えたが・・気が乗らなかった。これは彼の静かな趣味であり、仮に新種の蝶だったとして大騒ぎになるのがうっとうしかったのだ。
有名になれるチャンスでもあったが、彼には彼の美学があるようだ。
・・・どこまでも偏屈な少年、それがヴィルヘルムであった。
少し苛立った彼は、図鑑を閉じるとためらいなく蝶に針を刺した。
蝶は、それきり動かなくなった。
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それから二週間後。
ひとつの騒ぎが起きていた。
ヴィルヘルムが行方不明になったのだ。 最後の目撃者は彼の母親。
休日の昼頃にマリーヌと別れた後、家に帰った彼は母に声をかけて自分の部屋に行き、夕食の時間になってもダイニングに現れなかった。母親が様子を見に部屋に入ったところ、息子の姿はなく、勉強机の上に製作途中の標本らしきものと図鑑が何冊か置いてあるだけだった。
そのあとも家中を探し回ったものの、結局彼は見つからず、ついには警察を呼んだのだがそれでもいっこうに見つからずに現在に至る。
しまいには、警察は彼の母親にも疑いをかけていた。発見時、窓ガラスが割られることもなく部屋の窓には鍵がしっかりとかけられていた。”親子関係は良好だったのか?””証言に嘘があるのでは?”
連日、学校にも彼の家の周りにも警察が出たり入ったりしているので周囲は落ち着かなかった。
マリーヌは心配でたまらなかった。警察の車に乗る彼の母親は憔悴しきっていた。
彼女は知っている。
離婚して母子家庭の親子の仲はとても良かったこと。
彼女は悲しかった。
離婚を境に昔の彼とは変わってしまったこと。
・・・ヴィル、どこに行ってしまったの?
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蝶がたくさん飛んでいる。
ここはどこだろう。 ヴィルヘルムはあたりを見回す。
うっかり昼寝して気が付いたらここにいる感じであった。
見た事もない場所だな。 異常なくらい蝶が飛んでるし。
昼だか夜だか朝だかわからない空の色。
どこまでも続いている花畑。
ああ、そうか。これは夢の中だろうな。
自分の蝶好きに呆れつつもなにげなく手を伸ばす。すると右手の人差し指に蝶が一羽、とまった。
それは昼間見た例の蝶だと一目でわかった。
そして今、周囲を飛んでいる青い大群が全部、同じ蝶である事にも。
「きれいだなぁ。」
ヴィルヘルムは抑揚のない声でぼそりとつぶやいた。
完