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日の出と残照

作者: 水谷秋夫


   一、高校野球


 ピッチャーがマウンドで膝から崩れ落ちていた。

 キャッチャーが駆け寄ってきた。

 そのキャッチャーが、ピッチャーの背中をグローブで叩いてもピッチャーは動かなかった。彼は泣いているようだった。キャッチャーは何も言わずにピッチャーの体を起こして肩を貸した。長く思えた時間が過ぎて、ようやく二人はホームベースの前まで歩いていった。

 ホームベース前で彼らはチームメイトと共に整列し、礼をした。

 夏の全国高校野球選手権大会県大会、いわゆる夏の甲子園県予選の二回戦。ピッチャーは青木浩。キャッチャーは向嶋輝義。二人の高校野球最後の夏が、サヨナラ負けで終わったところだった。

 六日前、一回戦でこのピッチャーが抑えきった直後、二人は笑顔で互いのグラブを叩いた後に、並んでホームベース前に向かったものだった。咲良友子はその試合も観客席で斜め上から見つめていた。あの日と今日とは好対照だった。

「青木君と向嶋君、何も話さなかったね」

 友子の隣に立っていた河野公子が感慨深そうに言った。青木と向嶋は友子と公子のクラスメートだった。

「そう言えば、一回戦で勝った時も、笑いながらグラブを叩いただけで、何も言わなかったな」

「男同士って、肝心な時は言葉がいらないんだ。あたしたちだったら、あんな風にはいかないよね。いつまででも語っちゃうよね。あのさ、黙って肩を貸していた向嶋君、なんかカッコ良くない?」

 友子は、公子と意見が違った。

「サヨナラヒットを打たれて、敗戦の責任を全部自分一人で背負って、素直に泣いている青木君のほうがいいかも」

「ああー、友子は面食いだな」

 青木は顔かたちが美形なばかりではなく体型もすらっとしていて、強面でずんぐりむっくりしている向嶋よりも見た目が良かった。

「いやいや、男は顔じゃないって」

 その時、部長の声が響いた。

「おーい、校歌の準備」

 言われて友子は自分の立場を思い出した。吹奏楽部員のオーボエ奏者であるからには、校歌の伴奏をしなければならない。隣の公子もクラリネットを手に取った。

 野球部員が目の前で並んだ。青木はもう一人で立っていたが、まだ泣いていた。その隣で向嶋がぽんぽんと青木の背中をグラブで叩いていた。スタンドで、校歌斉唱が行われた。試合後のセレモニーもそれで全て終了した。野球部三年生の青春がこれで終わった。


 八月の下旬に県の吹奏楽コンクールが開かれ、友子と公子も参加した。だが、残念ながら全国大会出場はならなかった。友子ら吹奏楽部の三年生もそれで活動終了となった。

 友子らの高校は普通科で、主に三分の二が大学に進学し、三分の一が就職する。友子も公子も進学志望だが、理数科目の苦手な友子が地元の私立大文系を志望したのに対し、成績が満遍なく良い公子は地元国立大の教員養成系志望だった。

 受験勉強にシフトしても友子は何かの拍子に吹奏楽部に顔を出すことがあった。二学期が始まって四日目、私用の楽譜を取りに音楽室に向かった。部活動が行われる音楽室の一角にそれらの楽譜を置くスペースがあったのだ。三年生はそのスペースを下級生に明け渡さなければならなかった。

 音楽室の手前には理科室などがあり、放課後の廊下は人気が無かった。その廊下を歩いていると、青木が立っていた。

「ああ、咲良、さんか」

 友子の苗字を呼び慣れていないからだろう。ぎこちない言葉で青木が話しかけてきた。

「ちょうどいい所で会った。話したいことがあるんだ」

 周りに人のいない所で、憧れのあった男性にそう言われたので、友子は瞬間的に緊張した。

「テルが、いや、向嶋が、あんたのことを好きだって言うんだ」

 途端に緊張が抜けた。ああ、キャッチャーのほうかと。

「あいつ、話す勇気は無いみたいで、見ていられない。見ていられないから、咲良さんにどんなものか聞こうと思ったんだ」

 緊張が抜けた上で、少し腹立たしくなった。

「そういうことは友達を介してじゃなくて、私に直接言ってほしい」

「良かった」

 え、何が良かったんだろう、と友子は思った。

「いや、いきなり、テルのことを嫌いだとか、気持ち悪いとか、あんなのと付き合うなんて有り得ないとか、そういうんじゃなくて良かった」

「向嶋君って、嫌うほど知っている人じゃないし」

「じゃ、自分でちゃんと話せって、テルに言っとく」

 会話はそこで終わり、青木は音楽室の手前にある階段を走り下りて行った。

 その翌日、友子は向嶋の告白を受け、付き合ってもいいですと伝えた。卒業後二人は同じ大学に進み、多少の波風はあったものの付き合いは長く続いた。そして大学卒業後二年間を経て結婚した。

 ただ、この向嶋との長い日々よりも、友子が学生時代のことで真っ先に思い出すのは、この音楽室の手前の廊下に立っていた青木の姿だった。

 廊下には西日が差していた。掃除をした直後だったからだろうか、窓から斜めに差し込んだ光を受けて、細かい塵がきらきらと輝いていた。日陰にいた青木の顔は、友子の返答を受けて、ほっとしたようでもあったが、決して嬉しそうではなかった。それどころか逆に、歪んだ苦い顔をしていた。

 あれは、二学期の四日目。あの場所は掃除が終われば、放課後に吹奏楽部員の他には滅多に人が通る場所ではなかった。青木は四日間、そこで友子が通るのを毎日待っていたのだろうか。そんなことを思ったのは、実はその日から何年もしてからだった。


   二、沙月誕生


「おうっ、テル、鯛、持ってきたぞ」

 玄関先で白い歯を見せながら青木浩が声をかけた。

「ああ、ヒロか。まあ、入れよ」

 向嶋輝義は、青木とは対照的に声が沈んでいた。

「なんだなんだ、不愛想だな。娘が無事に産まれて嬉しくないのか」

「いや、無事産まれたのはいいんだが。ところで鯛なんかどうするんだ。友子はまだ寝たり起きたりだ」

「俺がさばいて刺身にする。台所を借りるぞ」

「ヒロ、魚なんてさばけたっけ?」

「最近、海の仕事が多い。釣り仲間も出来たし、見よう見まねで覚えてしまったな」

「あら、青木さん」

 顔を出したのは輝義の母である。友子の姑にあたる。

「いつも気の利いたものを持ってきていただいて、すみませんね」

「いや、いいんですよ。こちらは選ぶのを楽しんでいるんですから」

「鯛をさばいていただけるんなら、他の肴も用意しましょう。お酒、召し上がりますよね」

「はい、ぜひ」

 時刻は昼下がりであったが、これで青木が夕食を共にし、夜まで居座ることが確定した。

「こちらこそすみません。鯛を持ってきただけで何もかもご馳走になって」

「毎度のことだ。うちの母さんと何度同じ会話をしているんだ、ヒロ」

「いいえぇ、青木さん、すみませんねぇ」

 奥の部屋から女の声がした。

「おおっと。出てきちゃいけないよ、友子さん。夕飯が出来たら呼ぶから寝てなさい」

「挨拶くらいならかまわないじゃないか。友子は病気で寝てるんじゃないんだから」

「ちょっと待て。魚を片付けたら顔を出すから」

 やがて青木は鯛を三枚におろして刺身にし、後はお願いしますと輝義の母に頼んだ。それから彼は、友子の寝室に入って来た。

「おお、この子が友子さんの産んだ子か。さすが女の子だ。可愛いなあ」

「よく見ろ。まだ、しわくちゃじゃねえか。可愛いものか」

「テル、さっきから嬉しくなさそうなことばかり言うんだな」

「そりゃあな、他所の子供を見るんなら可愛いと思うんだよ。でもこっちはこれからこの子を育てなくちゃならねえ。手間もかかる。金もかかる。その上、女の子だからな。可愛い可愛い、大きくなった、綺麗に育った、と思ったらもう嫁に行っちまう。結婚式で友子のお義父さんみたいに泣かなきゃならん」

「まあ、見てな。テルのことだ。そのうち娘にメロメロになって、今言ったことなんて忘れるから」

「どうだろう」

「なんだかねえ、こんなことばかり言ってるんですよ、うちの旦那さんは。私じゃなくて、旦那がなんとかブルーっていうのになってるみたいで」

 友子がゆっくりと起き上がった。そのタイミングで赤ん坊が泣きだした。

「おや、俺が起こしちまったかな」

「さて、おむつはさっき替えたばかりだし、腹が減ったか」

「それじゃ、この子と隣の部屋に行きますから」

「友子、この間、公子さんが来た時はこの部屋でおっぱいをやっていたじゃないか」

「公子ならいいけど、青木さんの前じゃ嫌です」

「恥ずかしいか。なんか、友子はテルが来ると普通じゃなくなるんだな。今朝テルがこっちに来るって聞いたら、退院後初めて化粧していたし」

 輝義の言葉には答えずに、友子は赤子を連れて部屋から出ていった。

「おっぱいをやるんなら、俺が部屋から外に出ていかないといけなかったかな。ところで、名前は決めたか」

「さつきにしようと思っている。五月生まれだからだが、さはさんずいに少ないと書いて沙。沙月」

「ほう。なかなか洒落てる。沙っていう漢字はどんな意味だ」

「水で細かくなった砂って意味らしい」

「海と関係しそうだな。雄大だ。それに子供の子がつかないのは今風だ。誰がつけた」

「読みは俺だが、漢字は友子が考えた」

「向嶋沙月か。いいんじゃないか。美人になりそうだ」

「青木さんには目出度い話はないんですか」

 台所仕事が一段落したのか、輝悦の母が部屋にやってきてお茶を入れ出した。

「テルはね。もてるの。あっちこっちのバーだのスナックだのの女を泣かせてるの。でも所帯を持とうとはしないんだな」

「いやあ、家庭って言うのはね、俺はテルの一家を見てるだけでもう十分ですよ。大変だもの、見てると」

「平凡な家庭だと思うんだがな」

「平凡な幸せってのが、一番難しくて大変なんだよ」

 やがて輝義の父も帰宅した。青木も交えた夕食が始まった。向嶋家では毎度の光景だった。


   三、沙月五歳


 沙月の五歳の誕生日が来た。青木はプレゼントのぬいぐるみとケーキを持って向嶋家を訪れた。

「おう、ヒロか」

 慣れた声で輝義が声をかけた。沙月が廊下を走って玄関までやってきて、青木に飛びついた。

「沙月、ちゃんと挨拶しろ」

「あおきのおじちゃん、こんにちは」

「こんにちは。沙月ちゃんは見る度に可愛くなるな。これは別嬪さんになるぞ」

 青木が玄関から上がると、友子が正座して待っていた。

「いつもいつも、ありがとうございます」

 友子の化粧した顔はいくらか上気していた。しかし真っ直ぐに青木を見ようとはしないのだった。

「いえいえ、こちらは勝手にやっているだけですから」

 青木もまた、友子の顔を正面からは見ない。

「お母さんは?」

「朝から病院だ。様子を見に行っている」

「お父さん、いよいよいけないか」

「まだ一応、会話はできる。でもあと二、三週間、ってところらしい」

「お祝いを持ってきて良かったのかな」

「それはいいさ、今日や明日って話じゃない。お祝いはお祝いでやってしまおう。昨日、沙月を病院に連れて行ったら、父も沙月におめでとうと言っていたしな。お誕生会に参加出来なくて残念だと。綺麗な服でも買ってやれと母に言っていたくらいだ」

 輝義と青木が話している横で、沙月がプレゼントの封を開けた。

「わあー、これカバさん?」

 そのカバは可愛らしくデフォルメしたものではなかった。

「面白い顔をしているだろう。本物のカバに近い顔だ」

「こんな精巧なぬいぐるみ、高いんじゃないですか」

「それは気にしなくていいんだよ。こっちは独り者だ。金の使い道がない」

「おじちゃん、ありがとう」

「テル、景気はどうだい」

 輝義はディーラーに勤めている会社員だ。自動車販売の営業をしている。

「良くない状況で横ばいってところだな。ヒロのほうはどうだ」

 一方、青木は父親のやっていた倉庫業を継いだ。会社組織にはしているがほぼ自営業と言って良い。

「コンピュータ化の流れに乗って、インターネット化の流れにも乗れた。今の所、景気の良い会社と付き合って、預かったものを効率よく回せている。父親から本格的にまかされた直後に付き合っていた会社が倒産して、差し押さえられた製品を結局自分で捌く羽目になった。酷い目にあったと思った。でも今思えば良い勉強をした。あの時、あちこち走りまわって人脈も出来たし、危ない会社の見分け方もわかるようになった」

「あの頃は心配したよ」

「沙月ちゃんのぬいぐるみを遠慮なく買えるくらいの儲けは出ている。安心しろ」

「というわけで、青木のおじちゃんは社長さんでお金持ちだ」

「でも、あおきのおじちゃん、まだ、どくしん、なんでしょ」

 沙月がたどたどしく質問した。

「そうだよ」

「それじゃあ、沙月が大きくなったらお嫁さんになってあげる」

 青木は破顔一笑した。

「ああ、沙月ちゃん、気持ちは嬉しいけどな。そういうのは小さい時に言っても駄目だ。あと二十年ぐらいしてからもう一度考えよう」

「ケチ」

 今度は輝義も友子も笑った。


   四、北陸のバー


 青木は見知らぬ部屋で目が覚めた。二日酔いの体を起こすと、台所で女が朝食の支度をしている後姿が目に入った。ここはどこで、自分は何をしていたのか、と思った。

 昨日の出来事を思い出した。仕事で初めて北陸に来ていた。H工業という会社を訪ねた。東北まで販路を伸ばしたい、そこで東北に物流の拠点を作りたい。物流の拠点として御社、青木の会社を考えている。そんな申し出があって打ち合わせに来たのだ。しかし、話し合いは難航した。そのH工業に販路拡大の意欲はあったが、何をいつまでどれだけ倉庫に搬入して売り捌きたい、その時誰が責任者となりどのように営業するのか、という具体的な計画がなかった。打ち合わせの予定時間を大幅に過ぎたが埒が明かず、青木は計画が具体化したらまた連絡してくださいと言い置いて席を立った。遠くまで来て無駄足になったと思った。

 乗ろうと考えていた東京行き電車の時間は過ぎていた。どこに宿を取ろうかと思った時、目の前にバーがあった。腹も減っていた。中に入ると、三十代前半くらいの女性が一人でやっている店だった。テーブルは三つ、カウンターが五席。テーブルの一か所に地元客らしき二人連れがいて、カウンター席に客はいなかった。カウンターの左端に座り、腹にたまりそうなつまみとビールを頼んでから、この辺りに泊まれるところはないかと聞いた。ここの二階に泊まればいい、と店の女性に小声で言われた。何かの冗談だろうと思ったが、その女主人はテーブル客の相手に行ってしまって確かめることが出来なかった。

 まあいいか、と思った。テーブル席に長椅子があったからそこで寝かせてもらえばいい。そう思ってさらに飲んでいたら、テーブルの常連客が帰っていった。

「今日はもうお店閉めちゃうから、先に二階に上がっていて」

 おいおい、本気だったのか。そう思いながら青木は二階に上がった。畳んだ布団があったのでそれを拡げ、部屋を暗くして寝た。少しうとうとしてきた頃、バーの女が上がってきて、その布団に潜り込んできた。当たり前のように抱いた。

(あれ?)

「俺、ゴムしたかな?」

 最近、近所の水商売の女と良い仲になっていて、常に避妊具を持ち歩いてはいた。しかし昨夜、酔っ払っていた中でどうしただろうか。

「してた。あたしは無くてもよかったんだけど」

 女に聞こえていたらしい。即座に返事が返ってきた。

「おいおい、どういうことだよ」

「毎日常連客相手の水商売をしていると、何か違うこと、例えば家庭的なことをしたいっていうか、このまんま子供を産まずに一生終わるのかなとか思って。かといって、女房子持ちの常連客と寝たんじゃ波風が立つし。知らない人の子供ならいいかなって」

「おいおい、それは最初から、てて無し子で子供が可愛そうじゃねえか。そんで十年経ったら商売が行き詰って、この人があなたのお父さんよ、って俺を探し当てて訪ねて来るパターンだろ」

「あははは。そうなるかも」

「冗談じゃねえ。実はあんたと寝ている間に、俺の女房に何しやがるって男が出て来るかなって思っていたんだ。でもこいつは美人局に殴られるよりも怖い話だ」

「あはは。でもあなた、女房も子供もいないでしょ。いいじゃない」

「あれ、そんな話、したか?」

 酔っ払って身の上話でもしただろうか。

「独身の人はなんとなくわかるの。そうでなかったら泊まっていけなんて言わないし」

「ふうん。独身だと顔に書いてある、か。そっちは? 独身なんだろうけど、旦那さんとかはいないの?」

「いた、と言うべきなのかな。もう亡くなったけど」

「へえ。爺さんか」

「私の、祖父の姉の旦那さんの兄の息子」

「ん? 遠縁の、血の繋がらない親戚、ってことか」

「それでお金持ち。それがね、私が金沢でバーのホステスをやっていた時、お客さんでやって来てどこかで見た顔だと。出身地を話したら、あっ、ということになったの」

「ほう、遠縁でよくわかったもんだ。それで?」

「こんなところでホステスをやっているのだったら地元に帰れ。店を出してやるって言われて、それでこの店が出来た」

「それはあれか、妾というか二号さんになれ、っていう話か」

「あたしもそう思ったの。でも大きなバーのホステスで指名を争っているのも疲れていたし、それよりもいいか、と思って」

「旦那が出来て、二号さんになったわけだな」

「それがね、抱こうとしないの。あたしを」

「ナニが立たなかったのか」

「そんな筈ないんだって。この店を出した頃も他所で産ませた子供を認知するのしないのって揉めていたんだから。本妻以外にもあっちこっちに女がいた艶福家の伯父さんなんだから」

「よっぽどあんたを好きだったのかなあ。男って不思議なもんでさ、あんまり好きだと却ってその女を抱く気になれないことがあるんだよ」

「それ、あなたの話?」

「いや、友達がその友達から聞いた話」

「ふうん。それでその伯父さんにね、あたしを妾にする気だったんじゃないの、って聞いたの。そうしたら、違う、と。昔、二十何年前のことになるか。親戚の法事で、あんたが五歳ぐらいの時に初めて見たんだ。世の中にこんなに可愛い女の子がいるものかと思った。あんたがその後、どういう人生を送って来たかは知らん。今は綺麗な大人の女になった。夜の女になるまでいろいろあったんだろう。もちろん処女じゃあるまい。何人かの男とくっついたり離れたりして来たんだろう。だがそんなことに興味はない。俺は、あの時の五歳の女の子を援助しているんだ。世界中で一番可愛いと思った子だ。その五歳の子に裸になれ、股を開けと言うわけにはいかんだろう?」

「それは……」

「変でしょ。思い出に生きる小児愛者?」

「いや、わからないでもない。可愛い女の子が大人の綺麗な女になっていくのを見ているとさ、成長しなくてもいいから、そのまま、可愛いままでいいから、って思うことはあるから」

「そういうものなの?」

「こういう話を男が女の人に言っても理解されないんだな」

「ふうん。とにかく、店を出してもらってこっちからの見返りってものがないんなら、お金は月割りで返す、って言ったの」

「ただで店をくれるっていうのに。あんたも律義な人だね」

「だって気持ち悪いじゃない。五歳の頃がどうとか言って、昔の話だし。それで三分の一ぐらいお金を返した頃かな、その伯父さんがぽっくりいっちゃって。心臓病だって」

「返す相手がいなくなったわけだ」

「それで弁護士がここに来たの。向こうの家族宛の遺言書にあなたについて記載がありました。借金はチャラにして、店はくれてやって縁を切れと」

「自由にしてくれたってことか」

「そう。だからその旦那さんの葬式も法事も出なかったし、墓参りもしたことがない。それで借金無しで細々と少ない常連客相手にこの店をやっております」

「今でもあれか? ここではその遠縁の伯父さんの妾だったと思われているのか」

「そういう人もいる。でも気にはしていないし、違うと言う気もないし。さて、あたしの話はこれでおしまい。お兄さんはどうなの」

「両親は健在だ。倉庫と畑を持っていた。俺が倉庫を見るようになってからは、親は畑仕事に集中して精を出している。それから妹がいて、嫁に行って何年になるかな。妹には子供が三人いる」

「お兄さんは結婚しろとか言われないの」

「それは毎日言われている。でも親友がいてね。そいつに女房と娘がいて、それを見ていると、あれだな、平凡で幸せな生活ほど手間のかかる大変なことはないって思うな。働いている合間に子供が生まれて育てて親が亡くなって葬式してその合間に女房の機嫌を取り続けて子供の心配をして。大変だ。俺は独りでいいよ」

「お仕事でこっちに来たんでしょう。倉庫はどうなったの?」

「最初は実家の倉庫ひとつを見ていたんだが、今は手を拡げて物流全般の仕事をやっている。ここの近所にH工業ってあるだろう。そこに呼ばれて営業に来たんだ。だが、どうも話がはっきりしない。どんな会社だ」

「うちに常連さんが一人いた。四か月前くらいに残業代が出なくなったとこぼしていて、それっきり来なくなった」

「やっぱり景気が悪いんだな。販路を拡げて打開しようとしているが、具体的な計画はないってところか。それで大手には相手にされないから、インターネットで探して俺のところに来たと。そんなところだろう」

「お兄さん、また来る?」

「H工業相手に仕事が出来れば来るんだろうけど、そんな様子じゃ無理だろう。ところでいくらだ? 金払うよ」

「払ってくれるの? 四千五百円になります」

「酒とつまみ代だけでいいのか?」

「あたしはね、会ったばかりの行きずりの男と寝るような尻軽女だけど、売女ではないのね」

「それは失礼した。五千円。釣りはいらない」

「あらどうも。領収書いる?」

「もらっておこうか。会社の経費で落とせるかな」

「また会えるといいけど」

「それはどうだろう」

 半年後、H工業が倒産したことを青木は業界紙で知った。結局その後、青木は北陸のバーとは長くご無沙汰になった。


   五、向嶋家の転勤と帰還


 自動車のディーラーに勤めている輝義は、転勤のため一家で故郷を離れていた。その間、実家では輝義の母が一人で暮らしていたのだが、青木がしばしば様子を見にやってきて、世間話などをしていた。

 輝義の転勤先は県内なのでそれほど遠くはない。月に一度か二度、輝義は実家に顔を出した。すると青木が待ち構えていて茶や菓子を出したこともあった。

「俺よりもヒロのほうが息子みたいじゃないか」

「ほんとうにねえ。わたしが母代わりってことになるね」

 輝義の母は嬉しそうに答えるのだった。美男子の息子が出来たようで嬉しいらしい。

「ヒロちゃんはお嫁さんをもらわなくてもいいから。もらったらうちに遊びに来なくなるじゃない」

「母代わりとしては、あるまじき科白だな」

 それでいて母を一人にしておいても青木がいるから安心、と輝義が思っていたのも事実だった。

 その輝義の母が突然脳卒中で倒れた。倒れていたのを見つけたのも、様子を見に来た青木だった。早急に青木は救急車を呼び、輝義に連絡した。輝義が病院に駆けつけた時、母は意識不明の状態で、間もなく亡くなった。

「俺がもっと早く顔を出していたら助かったかもしれん」

「いや、そもそもヒロが来てなかったら死に目に会えなかった。ありがとう」

 その後、葬儀が執り行われた。喪主が輝義。その手足となって青木が奔走した。

「葬式も大変だが、相続っていうのはもっと大変だな。父が亡くなった時は母と相談できたんだが、母が亡くなると俺が全部背負わないといかん。ヒロも覚悟しておいたほうがいいぞ。親は元気だと思っていても、いつ亡くなるかわからん」

「テルは一人っ子だからまだ単純かもしれん。こっちは妹もいるし」

「骨肉の争いとか?」

「逆だな。いまどき田舎の畑など、誰も欲しくないだろう。たぶん押し付け合いになる」

「家は? 住んでいるんだろ。それに倉庫は? 商売道具じゃないのか」

「最近は海のそばの事務所で寝ることが多いな。向こうの商売が主体だし。それにこの町の倉庫はわが社発祥の地だが、儲けになっていない。なくてもいい」

「地元に冷徹な奴だな」

「うちの従業員が今は十人もいてそれぞれに生活がある。そいつらの生活を守らないといけない。冷徹じゃないと商売はやっていられん。まったく、野球のことしか考えていなかった頃が懐かしいね」


 それから一年半後、輝義の転勤希望が叶い、輝義は実家近くのディーラーに栄転。家族で実家に帰ってきた。

 引っ越し荷物が来る前に向嶋一家三人が実家に来てみると、青木が玄関先で庭掃除をしていた。

「おいおい、誰の家だ。俺たちがまるでお客さんみたいじゃないか」

 輝義が声をかけると、青木は笑いながら言った。

「ああ。ここがまるで俺の別宅みたいな気分でいた。でもそれも今日までだ」

 青木は鍵を輝義に渡した。

「テルの母さんから預かっていた鍵だ。返す。今日からは俺が客だ」

「まったく母さんは……。本当にヒロが息子だとでも思っていたのか、それとも通いに来る若い恋人とでも思っていたのか」

 その時、挨拶もそこそこに友子が家の中に入っていった。

「どうした?」

「ああ、化粧直しだよ。ヒロがいるとおめかしする」

「青木のおじさん、お久しぶりです」

「おお、沙月ちゃん。お祖母ちゃんのお葬式以来だね。ちょっと見ない間に随分大人になったなあ。これは別嬪さんだ。男の子にもててもてて、お父さんは心配だ。そうだろう、なあ、テル」

「そうかあ? 俺は全然心配していないが。沙月がいい気になるから、あまり褒めるなよ」

「いくつになったんだっけ」

「もうすぐ十五歳です」

「中学三年生だったね。受験生だ。もうおみやげにぬいぐるみって歳ではないかな」

「おじさんのかばのぬいぐるみ、大事にしています」

「そいつは良かった」

 その時、大急ぎで化粧を直した友子がお茶の間に入って来た。話を聞いていたらしい。

「この子、ぬいぐるみはいくつか持っているんですけど、あのかばが一番偉いんです。わたしが買ってあげたお猿さんや、親戚が買ってくれたワンちゃんよりも高い所において他のぬいぐるみを睥睨してるの」

「当然です。青木おじさんのカバは偉いんですから」

「ぬいぐるみの偉さはおじさんにはわからんよ」

 青木は笑いながらも、本当にわからないという顔をした。

「受験といえば、沙月ちゃん、高校はどうする?」

「地元のT高校に行きます。青木おじさんの後輩になります」

「お父さんとお母さんの後輩、だろ。あそこなら沙月ちゃんの成績なら入れるだろう」

「さて、引っ越し屋さんがそろそろ来るぞ」

「よし、手伝おうか」

 その後引っ越し屋のトラックが来た。てんやわんやの後に、青木は当たり前のように向嶋家と夕食を共にしてから帰っていった。


   六、高校野球


 T高校吹奏楽部三年の向嶋沙月は、目の前で夏の全国高校野球選手権大会県大会が繰り広げられているのを見つめていた。

「0対4。最後の攻撃か。このまま負けそうだね」

 一方、沙月の隣では、クラリネットを持った河野綾香が譜面をめくりながら文句を言っていた。

「この『狙いうち』とか『サウスポー』とかって、いったい何十年前に流行った歌なんだろう?」

「それ、うちのお母さんも吹いてたって言ってる。いつ流行ったのかよく知らないって」

「沙月のお母さんもこの高校の吹奏楽部だったんだっけ」

「そう。それで、お母さんの目の前でその時キャッチャーをしていたのが、うちのお父さん」

「へえー」

「その時ピッチャーをしていたおじさんがお父さんの親友で、よくうちに遊びに来る。独身で、そのおじさんのほうが格好いいの。お母さんなんか、そのおじさんが来ると聞くと、もうそわそわして」

「へえ、三角関係?」

「わたしもそのおじさんが子供の頃から好きで」

「え? 四角関係?」

「あたしはそのおじさんにいつまでも子供だと思われているんだけどね。でもその格好いいおじさんを見ているから、同級生とかを見ても子供にしか思えなくって」

「そうお? あたしは沙月の話を聞くと、未来の夫が目の前で投げたり打ったりしているのかもしれないと思ってわくわくするけど? ほら、スポーツマンって、動かないで笛を吹いているわたしらからしたら憧れじゃない?」

「泥にまみれて走っている彼らからすると、上から音楽を奏でている私らに憧れている男たちもいるって。お父さんとそのおじさんが話してた」

「へーえ。それじゃ頑張って吹かないと」

 そうこうしているうちに、二人の眼下で敗色濃厚だったT高校は敗れた。校歌の準備、と部長の声がした。沙月はオーボエ、綾香はクラリネットを手にしながら準備を始めた。


   七、あの一球


「ヒロとは長い付き合いだ。最初に会ったのは少年野球だ。ほとんど同じ時期にチームに入った。あいつは向嶋も輝義も長くて呼びにくいと言って俺をテルと呼んできた。だから俺は青木でも浩でもなくヒロと呼んできたんだ」

 ある日、輝義が友子にそう言ったことがある。酒を飲んだ後で機嫌が良かった時だ。そこで、尋ねてみた。

「旦那さんって、青木さんと野球部の思い出話は沢山するけど、実際にやった野球の試合の話はほとんどしないんだね。それに二人とも、今は野球しないし。子供の時から野球をしてきたのに、二人でキャッチボールすらしようとしない」

 友子はよく公子と、何年生のいつの大会で公子が音を外した、いや、友子のあれこれでのミスのほうが酷かった、などと十年以上も前のことを話すことがあった。そうした話は輝義と青木の間で聞いた記憶がない、と思ったのだ。

「ああ、それは、ヒロが嫌がるからだな」

「嫌だって言っているの?」

「いや、聞いたわけじゃない」

「え? どういうこと?」

「言い出さないから、わかる」

 そのあたりの男同士の呼吸、というものが、友子にはよくわからないのだった。

「あいつは本気でプロ野球に行く気だったんだ。だから大学に入るための勉強も就職活動もしていなかった」

「スカウトとかが来ていたの?」

「いや、それは全然。でもけっこう良い球は投げていて、県では五本の指くらいの投手だったと思うよ。大会で勝ち上がっていけばスカウトの目に絶対止まるって本人は思っていた」

「ふうん」

「あの最後の試合、一点勝っていた。九回の裏、ツーアウト一・三塁。相手は四番。配球は今でも覚えている。内角高めのストレートをファウル、低めのフォークを見逃してボール、カーブを振らずにストライク、ワンボールツーストライク。それまでその四番は外角低めのストレートで振らせるかポップフライで打ち取っていた。でも、四打席目はそのストレートにヤマを張っていた。それで、俺は外角にカーブのサインを出した。あいつは首を振った。次に高めのつり球のサインを出した。それも首を振った。それで外角低めのストレートのサインを出したらOKと。つまり、あいつはそれまでと同じボールで決めるつもりだった。そしてヒロが投げた。あの日一番良いボールが外角低めに来た。コースもぎりぎりで最高だ。それが打たれた。ライトセンター間に飛んだ。一塁ランナーも帰ってきて逆転サヨナラ負けだ。あれからしばらくしてヒロと進路の話になって、プロは諦めたのかと聞いた。もう野球はやらない。自分の力がわかっていない奴が野球を続けたら、この先、他の八人に迷惑がかかる、と言っていた。俺も野球はそこでやめた。だいたい俺はヒロの球を受けるためにキャッチャーをやっていたようなものだったし。まあ、自分の子供が男の子だったらその子とキャッチボールぐらいしようという気になったかもしれない。でも、沙月は女の子だし。その沙月も、スポーツじゃなくて、母親に似てオーボエのほうに行ったし」

 そう言う輝義は遠い目をしていた。


   八、輝義の病気


 腹痛で病院へ行った輝義がそのまま入院したのは、四十五歳の秋だった。さっそく青木が見舞いに来た。

「おいおい、どうした。殺しても死なねえ奴が」

「ああ、それがな、どうも殺されたわけでもないのに死ぬらしいんだよ」

 青木の顔色が変わった。

「深刻な病気なのか」

「膵臓ガンだと。医者に、それは助からねえやつじゃないですか、って聞いたんだ。そうしたら医者が五秒くらい黙り込んでしまった。ああ、駄目だ、とその五秒の間に思ったね。そのあと、あと三ヶ月くらいだと言われた」

「他の医者に当たってみたのか。誤診ってこともあるじゃないか」

「当たった。そっちは二ヶ月だと。だからこっちの、三ヶ月の方に入院した」

「それは……」

 二人とも黙り込んだ。五秒よりも長かった。

 沈黙を破ったのは青木のほうだった。

「友子さんと、沙月ちゃんはどうする」

「ああ、まあ、二人ともこの世の終わりみたいな顔をしているな。でも大丈夫だ。俺の父親や母親が亡くなった時も、その時は泣いているが、いずれ悲しみは癒えるし、いないことに慣れるもんだ。うちの女たちは強いよ」

「でも稼ぎ手がいなくなったら大変じゃないか」

「いや、それはなんとかなる。俺の父親はあまり年を取らないで亡くなっただろう。その時に、自分がもしうっかり早死にしたらと思って生命保険に入っていた。沙月も今年大学三年で来年卒業だし、どこかに就職するだろう。金のことは心配いらない。しかし、自分が父親が亡くなった歳よりも若いうちに死ぬとは思わなかったな」

「そうか」

「それでだ。ヒロ、お前は好きにしろ」

 青木は怪訝な顔をした。

「どういうことだ」

「いや、考えたんだが、俺が死んだ後の友子と沙月について、ヒロにああしろ、とかこれはするな、とか俺が言うと、お前、その通りにするだろう。だから、何も言わん。友子と沙月にも、青木とどうしろとは一切言わん。だからお前は好きにしろ」

「そうか。何でも言ってもらっていいんだが。お前には借りがある」

「いや、借りがあるのはこっちだ」

「そうか」

「お互いに借りがあると思っていたのか」

「それじゃあ」

「チャラか」

「チャラだな」

「よしわかった。それならやっぱりヒロは好きにしろ」

「わかった。好きにやるさ」

 それで会話は終わった。その時には青木は、好きにする、というのが何をすることなのか、何をしないことなのか、何も考えていなかった。

 だが、三ヶ月のうちに考えもまとまった。その頃、最初に診てもらった医者が言った通り、輝義は膵臓癌で亡くなった。


   九、日の出と残照


 輝義の葬儀が済むと、青木は向嶋家に近寄らなくなった。

 もともとそれまで、青木は輝義が在宅であることを確かめてから向嶋家に来ていた。そうしたことを沙月は改めて思い出した。

「青木のおじさん、来なくなっちゃったね」

 四人掛けのテーブルに二人で食事をしている時、沙月が呟いた。

「青木さんはお父さんの親友だから。お父さんがいなかったら来る理由がないじゃない」

そう語る友子は、それが当たり前、という口調だったが、少し寂しそうだった。

その翌年、大学四年生になって数ヶ月してから、沙月は青木を喫茶店に呼び出した。席に座る沙月を見て、日の出と残照だな、と青木は思った。これから社会に出ようとする沙月と、そこから引っ込みつつある自分と。

「おお、沙月ちゃん、しばらく」

「青木のおじさん、お久しぶりです」

「東京に就職するんだって?」

「ええ。母から聞いたんですか?」

「いや、直接じゃない。お母さんの知り合いを通じてだな。沙月ちゃんが出ていったら、お母さん、あの家で一人になるじゃないか。それは寂しいだろう」

「寂しいんなら、青木のおじさんと一緒になればいいじゃないですか」

 ほう、と青木は思った。

「そんなことを言いに呼び出したのか」

「お母さんとおじさん、好き合っているんでしょう?」

「結婚なんて、考えていないよ」

「私は、お父さんが死んだ時に、お母さんと青木さんがこれから結婚するんだと思っていました。二人とも好き合っているのはわかっているし。私が東京に就職するのも、お母さんと青木さんが二人で暮らしているのを見るのは辛いな、って思ったからです。私、青木さん好きだし」

 ああ、言ってしまった、と沙月は思った。それは、向嶋家では誰でも感じていて誰も口に出さない公然の秘密というものだった。しかし、心に思っているだけではもう耐えられない、と沙月は感じていた。何もかも明るみに出して、それで何かが壊れてもかまわない。とにかくはっきりさせたかった。

 それを聞いた青木は驚いた風でもなく平然としていた。いつか誰かがそんなことを言うだろうと思っていたのだ。そして、若い沙月ならそんなこともあるだろうと予想していた。

「ああ、俺は友子さんが好きだよ。でも向こうはどうかな。用もないのに訪ねて来る旦那の面倒くさい友達、ぐらいにしか思っていないんじゃないかな」

「全然違う」

 崖から飛び降りるような気持で思い切って話したというのに、顔色を変えない青木に沙月は苛立っていた。

「お母さん、青木さんが来るってわかると、もう普段の倍も時間をかけてお化粧始めるんだから」

「そうか? さほどの化粧とも思えなかったが」

「おじさん、ぜんっぜん、わかってない。自然らしく見える薄化粧のほうが、厚化粧よりよっぽど大変なの」

「そうか。水商売の女の人の厚化粧ばかり見ていたから、化粧はそうしたものだと思っていた。友子さんが俺に気を使ってくれていたんなら嬉しいね」

「それで、青木さんはお母さんと結婚する気はないんですか」

「さっきも言っただろう。全くない」

 即答だった。

「どうして。好き合っているのに」

「好き合っているかどうかはともかく、向嶋家というのは、出来る時に俺が少しばかり関わったんだ。俺はだから、向嶋家を見ていると、自分の作品、陶芸か絵画を鑑賞しているような気分になる。それはとても良く出来た作品だ。その作品の中に自分が入ろうなんて思わないね」

「よくわからない」

「絵の中にいる沙月ちゃんにはわからないよ。自分がどんな立派な絵の中にいるのか。そしてその絵を壊したくない人がいるということもね」

「私が東京に行って向嶋家がばらばらになったら、その絵も無くなるってことですか」

「ああ。だから、勝手だが東京に就職するのはやめてほしいと言っている」

「おじさんが私と結婚してくれるなら、東京に行くのはやめます」

「それは駄目だ」

 青木は厳しい口調で即答した。

「私が絵の中の人だからですか」

「違う。それ以前の問題だ」

「年の差があるからですか」

「違うよ。沙月ちゃんが俺と似たような年のおじさんが好きで、だから結婚すると言っても、沙月ちゃんが選んだ人だったら俺は反対しない」

「じゃあ、私には女としての魅力がないんですか」

「沙月ちゃんは、別嬪さんだし、大人の女性になった。俺以外の男の人が見たら素敵な女に見えるんだろうと思うよ」

「それなら、なぜ」

「俺は沙月ちゃんを赤ん坊の頃から見ている。おっぱいを飲んだりおむつを替えたりしていた頃からだ。俺にとって沙月ちゃんはテルの小さな可愛い娘だ。そんな女の子が自分の手で女になっていくところなんて見たくないね。君を女にするのは俺じゃない。別な男だ」

「ずっと、青木さんが好きだったのに」

「本当にそうなら諦めなさい。いつか沙月ちゃんに結婚する日が来たら式に呼んでくれ。父親代わりにバージンロードを歩いてやったっていい。そしてテルの、父親の代わりに俺が泣いてやる」


   十、その後の青木


 沙月は結局、東京に就職した。家には友子が一人で残された。青木がそんな向嶋家を訪れることはなかった。青木は輝義存命の頃、輝義本人か輝義の母が家にいる時でなければ向嶋家を訪ねることはなかった。友子と一対一になると、

「うっかり友子を口説きたくなってしまうかもしれないし、押し倒してしまうかもしれないし」

 青木は一人で苦笑いをしながら、そう呟いた。

「そんなことをしたらテルに顔向けが出来ん」

その上で、彼はまだ四十代後半であるのに、働く元気が無くなってきた。

 青木は懸命に物流業を立ち上げ、続けてきた。向嶋家で青木は、お父さんのお友達のお金持ちのおじさん、という立ち位置にいた。だから輝義の家をいささかの誇りを持って訪ねていた。だが、自分の姿を見せに行く向嶋家という存在がなくなって、張り合いがなくなった。それに妻も子もいない青木は働いて守るべき家族が無い。

 物流大手企業の傘下に入らないか、という誘いは何年も前からあった。その場合、青木を支社長として迎え入れるという条件だった。人の下に立つ気になれない青木は、ずっとそれを断ってきた。といって大手と競うのも難しいから、大手が手を出しにくい中小企業や個人を多く相手にしてきた。難しい舵取りが必要だったが、そうした難しさに挑む気力もなくなってきた。

 結局、青木は権利を大手企業に売って仕事から離れた。その時、配下の部下は大手の傘下に入り、変わらず雇ってもらえるようにと条件をつけた。青木の右腕だった専務が青木の代わりに支社長になった。部下たちの多くは青木と別れるのを残念がり、女子社員の中には泣く者もいた。それは嬉しかったが彼の決意は変わらなかった。

(さて、これからどうするかな)

 何か、次にやりたくなることが見つかるまで、旅行でもしようかと思った。以前に仕事で訪ねた所を再び旅する、というのはどうだろう。例えば、あの北陸のバーは今でも店を続けているのだろうか。


   十一、その後の友子


 輝義に一度、友子は冗談めかして、

「私の大切な旦那様」

と言ったことがある。輝義は笑いもせずに、

「そうさ、俺は友子の一番大切な旦那様さ」

と答えた。少しドキリとした。

 一番大切な人が、必ずしも一番好きな人とは限らない。それを見透かされたのかと思ったのだ。

 輝義が亡くなってから、青木はこの家に来なくなった。それは寂しいことだが、ほっとする思いもあった。友子は友子で、青木に対する想いを露わにしたくなかったのだ。

 そして、沙月も東京に就職してこの家を去った。友子と沙月は母と娘として、決して仲が悪かったわけではない。ただ沙月は友子に対して、何か鋭い目つきをする時があった。それは、青木が向嶋家に遊びに来ていた時に多かった。恋敵に対する目だ、と友子は感じていた。

「わたし、東京に就職するから」

 初めて沙月が言った時、

「沙月の人生だから沙月の好きにすればいいの」

と、友子は言った。二人の就職に関する会話はそれだけで終わった。

 沙月は家を出る時に何か言いたそうだった。だが結局、友子には何も言わないで東京に去った。

 友子に何かを言わないようにするために、沙月はこの家を出たのかもしれない。実際、沙月がいないことは寂しいが、あの鋭い目を見なくてすむことには、ほっとするところがあった。

 一人で家にいると、よく昔のことを思い出す。例えば高校三年生の時、輝義とつきあうことにした、と公子に話した時だ。

「友子って、青木君のほうが好きだって、言ってなかった?」

「だって、青木君は私を好きだって、言ってくれないんだもの」

「友子は向嶋君を好きなの?」

「好きというのとは少し違う。隣にいると安心する」

 そんな状態のまま、何十年も過ごして来た。

 輝義が亡くなった時、公子はこう言ってきた。

「まだ四十五歳だけど、再婚とかは考えてないの?」

 その再婚という言葉には、青木の存在が公子にも引っかかっていたに違いなかった。

「私はこれから、貞淑な未亡人っていうのをやっていくつもりだけど」

 友子は、輝義と築いてきた家庭を、輝義がいなくなったからといって壊すつもりはなかった。

 さらに沙月が家を出ると、公子は、

「友子、一人で暇なんじゃないの?」

と電話をかけてきた。

「暇じゃないよ。この間、お風呂をリフォームしたし」

「そういう家の中のことしかやっていないのを暇だって言うの」

 結婚し、教師を続け、三人の子供を育てている公子には、友子が、

「退屈で死にそうなんじゃないの」

と思えるらしい。

「近所に、学生の時に吹奏楽をやっていた人を集めたサークルがあるの。年に二回、市の文化会館で公演してる。昔やっていたんなら参加しないかって言われたんだけど、とてもそんな暇ないって断ったの。そうしたら友だちを紹介してくれって。あのさ、暇だったら参加してみない?」

 公子がそんなことを言うので、久しぶりに学生時分に使っていたオーボエを取り出して吹いてみた。

(ああ、ちゃんと鳴る)

 タータタ、タータタ、タータター

 最初に友子が吹いてみた曲は、ピンクレディーの「サウスポー」だった。


<了>


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