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喫茶店のマスター倉宮

作者: 湧水紫苑

「へぇ、殺人か。この辺も物騒になったな。今日は戸締りをちゃんとしないと」

小さなテレビに映るニュースを見ながらつぶやく。

ここは街の片隅にある古ぼけた喫茶店『クラクラ』。

そこでは店をひとりで運営するひとりのマスター倉宮豊がカウンターの裏でテレビを見ていた。

店の名前は彼の名前から取った安易なネーミング、面倒なことを避ける性格が店の名前にもよく出ている。

そしてそんな店に今日も珍客が現れるのだった。

からんころん。

入り口のカウベルが鳴るとひとりの男が入ってきた。

倉宮はいつものようにあえて低い渋めの声で迎え入れる。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

入り口に立っている客を見ると、店に入ることを躊躇しているようにも見える。

「よければカウンターへどうぞ。今は他に誰もいませんので」

いつも全然客が入らないのだが、今日は偶然空いているという雰囲気を出してみる。

喫茶店は客商売。店に入ったときから勝負は始まっているのだ。

周りをきょろきょろと見渡しながらその男はカウンターへ座った。

何かに怯えているようにも見える。

まさか。

洗い終わったカップをもう一度手に取り、洗う振りをして視界の隅で男の背格好を見た。

色の薄いデニムシャツに青いキャップ、それに確かこげ茶のズボンを履いていたような気がする。

報道されていた犯人像と一致する。

しかしこれはありふれた服装だ、そう思いなおすと男の前に立ちオーダーを取った。

「いらっしゃいませ。何になさいますか」

「ホットで」

男は下を向いたまま呟いた。

「かしこまりました。しかしお客様、少しお疲れのように見えますが何かございましたか」

「いや、ちょっとやっちゃいましてね」

力なく答える。

ほお、殺人か。

しかしここで荒立てては危険だ、そっとなだめることにする。

「まあ人生色々ありますからね。私もこの店を出したときは一千万以上の借金からスタートですよ」

「そんな状態からでもやり直せるんでしょうか」

「ええ、ちゃんと真っ当に生きていれば何とかなりますよ」

話の端々に更生を促すキーワードを入れながら、サイフォンにアルコールランプを灯しコーヒーを淹れ始める。

静かな店内にサイフォンのぽこぽこという音が響く。

男は道路側に背を向けて座っているので気付かなかったが、パトカーが目の前の通りを音もなく抜けていった。

「日本はいい国ですよ、私のように借金まみれでもなんとか生きていけるのですから」

変な借金ではなく開業資金なのではあるが、借金していることに嘘偽りはない。

「失ったものは還ってくるでしょうか」

「還ってくるものもあれば、還ってこないものもあります。しかし精いっぱい生きていれば誰かが助けてくれるでしょう」

まるで占い師のようだなと思いながら、アルコールランプを外し、サイフォンからフラスコを取り出す。

できあがったコーヒーをカップに注ぎ、ソーサーにチョコレートを乗せてカウンター越しに渡した。

それまで小さくなっていた男は顔を上げ、両手でカップを受け取った。

ん?シャツの袖口に血が。

返り血か。

こいつは派手にやったもんだ。

凶器はナイフか、包丁か。

もしかしたらバッグにまだ包丁を隠し持っているかもしれない。

「私は若い頃はボクシングをやってましてね。もう衰えてしまいましたが、こう、今でも体がうずくことがあるんですよ。格闘技はお好きですかな」

完全なブラフである。

「試合を見に行ったことはないのですが、まあ年末年始の特番を見るくらいですね。嫌いじゃないです」

「自分でやるのも楽しいですよ。こうストレートが顔に入った感覚はなんとも言えません」

もちろん人を殴ったことなど一度もない。

しばらく巧妙な駆け引きをしたあと、男はコーヒーを一口飲んだ。

「お、これはなかなか旨い。普通のコーヒーとはちょっと違う」

「今日お淹れしたのはアフリカ産の豆でしてな。ちょっと柑橘系の香りがするでしょう。爽やかな香りが疲れを癒すのにピッタリなのですよ」

男は納得したような顔で一緒に乗せておいたチョコレートにも手を出した。

ふむ、甘い物も好きか。ならばこれでどうだ。

「あ、そうだ。じつはケーキの試作品がありましてな」

そう言ってケーキ屋から仕入れた新作のチョコレートムースを取り出した。

皿に乗せて再びカウンター越しに渡す。

「これはサービスです」

男はスプーンで一口食べたあと、とてもうまそうに一気に食べきった。

「ああ、心がほぐれるようです」

人は甘いものを食べると闘争心が薄れるという。知らんけど。

「辛いことがあったときは旨い物を食べるのが一番。私など店の経営がうまくいかないときはぶくぶく太ってましたからな、ははは」

つられて男の顔もほころぶ。

「ありがとうございます。なんとかなるような気がしてきました」

「お、そうですか。元気になっていただけたのなら光栄です」

男はポケットをまさぐり、しわだらけの千円札を取り出し渡してきた。

あまり金を持っていないということは物取りではなさそうだが、しかしこのお札は大丈夫なのだろうか。

「いや、今日は私も大変勉強になりました。なにより楽しかった。お代は結構です」

そう言って受け取りを断った。

「あ、どうも」

しばらく茫然としていた男は千円札を再びポケットに仕舞い込んだ。

「世の中分からないものですね」

なにやら呟きながら男は店を後にした。

***

男は交番に向かっていた。

「ここでいいだろう、どこに行っても同じだ」

入り口に立ち、中の警察に声をかける。

「あ、すみません。財布を落としてしまいまして」

「それではこちらへどうぞ」

警察に促されて席に着く。

「数時間前なんですが、歩いていると突然鼻血が出てきて、それで慌ててカバンからティッシュを取り出そうとしたんですけど、たぶんそのときに財布を落としたんだと思います」

「なるほど、あ、服に血が付いてますね」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 客は犯人なのか犯人じゃないのか…どっちなんだと思いつつ読みました。 倉宮のキャラがいいですね。 いつもは客がいる風を装ったり、巧妙な駆け引き(自称)をしたり。 クラクラ、流行って欲しいと思…
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