空気の体
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おいい〜っ、つぶらやくん! なんで冷房をつけないのかね!
――お客様がいらっしゃるまで、エアコンをつけることはやめろのお達し?
ははは、どなただい? そのようなことをおっしゃった御仁は。この事務所の光熱費が、他の事務所と比べて高いのは、すでに知っているけどね。さすがにこれじゃあ、我々の方が肉まんじゅうになっちゃうって。
ええい、ならサーキュレーターだ。サーキュレーター。あ扇風機に近しいものだろ? あれならエアコンより電気代を食わないはずだ。たぶん。
ふーい、全開! 全力! 全ぶっぱ! はああ〜、生き返るう〜!
サーキュレータは、もともと空気の循環を良くするために使う。締め切らなきゃいけない室内だと、どうしても空気がよどんで体調を崩しがちだからね。
つぶらやくんも、風を浴びるのは結構好きだって話していたっけ? あの感覚に心地よさを覚えるの、わかるなあ。
この肌に触れる空気。やはりなじんでいるかどうかは、体に及ぼす影響が大きいらしい。それに関する昔話、聞いてみないかい?
むかしむかし。
ある村にとても暑がりの女の子がいた。夏はもちろん、冬のさなかの家の中でも「暑い、暑い」としきりにもらして、着ている服を脱ぎにかかってしまう。
まだ五歳とはいえ、このまま大きくなったときも治っていなければ、少なからず問題が起きるだろう。男はいいかもしれないが。
四六時中、手製の扇子を持ち歩くのみならず、キンキンに冷えた井戸水を袋に入れて、服のあちらこちらに仕込むこともした。だがそれも、外の空気と彼女の体温に挟まれては、たちまち熱を持ってしまい、十全に冷やすことかなわなくなってしまう。
我慢、辛抱などという言葉も、両親はかけづらかった。以前、本当に耐えさせたことがあったのだが、とてつもない熱を出して寝込んでしまったことがあったからだ。
あのときは、娘の体ばかりでなく、寝かせている布団からもどこか焦げ臭いにおいがして、大慌てで冷たいものを大量に用意したものだ。
この体質がどうにかならないか。
両親は時間を見つけては、娘を連れてほうぼうを尋ねまわった。
薬を処方されたり、祈祷をされたりとおおよそ考えられる手は打ったものの、さほど効果をあげることはできなかった。
そんな彼らに治療法を提示したのは、意外や意外。露店で花を売っていた女性だったというんだ。
町中でも「暑い、暑い」と隠さずにつぶやく娘を、彼女は呼び止めた。よかったら、自分に診せてもらえないかと、申し出てきたんだ。
彼女は娘の顔と、頬と額の温度を確認。さらに、自分の店の台の下から、数本の花が入った箱を取り出してくる。中に入っていたのは、小さな花弁をつけたユリの花に思えた。
気を落ち着かせて、花のにおいを嗅ぐように女性は指示してくる。ほとんど押し当てるような形で、娘の鼻腔から滑り込んだ芳香は、顔にさした赤みをみるみるうちにひかせていった。
娘ももはや暑がる様子を見せない。礼をいう両親と娘だったが、女性は険しい顔をしたまま。
話を聞いてみると、いまの治療が効いてしまったということは、本格的に手を打たねばいけないらしかった。あれはあくまで一時しのぎの療治であり、さほど日を置かずに再発してしまうだろうことを、女性は告げてきたんだ。
家族の家へ案内してもらった女性は、裏の畑の一角を借りたいと申し出てくる。
先ほど嗅いでもらった花を、育てさせてほしいとのことだった。娘の命がかかっていることもあり、両親は承諾。女性は懐から種を取り出すと、許可をもらった一角に撒き始めた。
この植物は特に成長が早く、数日間であの箱に収まっていた花と、同じくらいの大きさに育つとのこと。実際、撒いてからわずか一日で、背の高い双葉が顔を出していた。
女性は馬小屋を貸してもらい、ほぼ泊りがけで植物の面倒を見続けている。なぜここまでしてくれるのか、不審に思った両親が尋ねてみると、過去に女性も同じ体質だったことが分かった。
「娘さん、発症前に神隠しにあったことはありませんか?」
女性から返される問いに、両親は息を呑む。
いや、あれが神隠しかどうかは分からない。ほんの一晩だけのことだったから。夜に起きたら娘の姿がなく、家の近辺を探しても見つからない。
すわ一大事と、いったん家の中へ戻ってみたら、もとの布団にくるまる娘の姿があったというものだ。冬のことだったとはいえ、その体は冷たい鉄に触ったような感触だったとか。
そのわずかな時間だけ、娘が消えたことをさしているのだとしたら。
「私を治してくださった方の話によると、この病は放っておくと、発症してから10年以内に決着がつきます。もちろん、体側の敗北という形で。
そのような人を、増やしたくはない一心で、お力添えをしている次第です」
この話も、この先も、にわかには信じられないでしょうけれども、と彼女は付け足す。
そして三日後。箱に収まっていたものよりも背が伸び、家の屋根近くまで育った数本の花たち。四角の頂点を務める形で咲く花の様子を見た彼女は、両親と娘に新たな依頼をする。
子供が乗ることのできる、大きなざる。その端にひもを渡して、あの花たちの真ん中へ置いてほしいというんだ。それが済んだら、娘にはそのざるの上に乗り、座り込んでほしいとも。
それらの準備が終わり、両親と女性が見守る中、娘はざるの上にひざを抱えて座り込んだ。
暑いとは声に出さなかったものの、その顔にはじんわりと汗がにじんで、鼻息が荒い。その肩にそっと手を添えて、女性が告げる。
「そこでじっとしていると、やがて目の前の景色が変わるはず。
それはきっと、あなたが忘れていた景色で、置いてきてしまったものもある。
景色が変わったら、久しく感じなかった寒気に震えそうになるでしょう。でも、それらをぐっとこらえて、息を長く長く吐きなさい。もうこれ以上ないというところまできたら、今度はうんとうんと吸って、これ以上吸えないというところまで行きなさい」
そう話す女性の手が肩から離れるや、娘の前から女性が、両親が、花も畑も一斉に見えなくなった。
いや、厳密には花だけは見えていた。
自分を四角形に囲む、先ほどまでの姿じゃない。自分の周り、そして足元に至るまであの花でいっぱいだったんだ。
娘は宙に浮いている。ざるごと空につるされて、どこか高いところにとどまっている。確かに体は震え、漏れ出す息は白くくぐもっていて、長く感じていなかった寒気を、娘は覚えていた。
だが、本当の仕事はここから。娘は女性に教えてもらったように、口を大きく開けて自分の息を吐きだしていく。
じくじくと、自分の胸からいがいがしたものが転がり、のどを上って口から出ていくのがわかる。色も形もない、ただの感覚だったけれども。
限界まで吐き出すと、いがいがも一緒に消えた。そして今度は、胸を膨らませるように大きく息を吸っていく。
あのいがいがを、また吸い込んでしまったような感触はない。唇に触れるときはひんやりと、しかし口の中ではぬくぬくと、ほてりに似たものが今度は転がり落ちていく。
いつも感じていた、苦しさとは無縁の暖かさだ。これもまた彼女にとっては、久方ぶりのことだった。吸って吸って、あともう一息で限界を迎えるというとき。
ふわっと、確かに口の中と舌の上をなでていった、柔らかい感触があった。のどの奥へぶつかったそれは、とろりと垂れて胸と腹の中へ落ちていく。その味はどこか、先日に嗅いだ花の香りを思わせるものだった。
はっとすると、娘は畑に戻ってきていた。
両親がいる。彼らには、娘がうつろな表情で息を吐いたり吸ったりしていたので、だいぶ心配していたらしい。
娘は自分の体を見やるけど、これまで一日たりとも引くことのなかった熱気が、すっかりなくなっていたとか。
女性の話によると、あれは神隠しというより、神運びとでもいうべきものらしい。
目的は分からないが、何かしらに備えて、人の元来の体質を変えようとしている、何物かがいるのでは、との話だ。