蜘蛛男
E氏は最近、寝不足に悩まされていた。というのも、夢見が悪いせいだった。
最初にその悪夢を見たとき、E氏は悲鳴を上げて飛び起きた。そして闇雲に電灯スイッチの延長紐を引っ張ったのだった。
汗をびっしょりかいて、煌々と明るくなった天井を見上げ、それが夢だったことを自分の頭が理解するまで、肩で荒い呼吸を続けた。
彼はついさっき、この部屋の天井の隅に、手のひら大の巨大な黒い蜘蛛が糸で垂れさがっているのを、くっきりとこの目で見たのだ。
『いや、今この手で電気を点けたんだ。それまで真っ暗だったんだから、あんなにはっきり蜘蛛が見えるはずはないんだ…』
現に今、天井のどこを見渡しても、部屋の中央に電灯スイッチの延長紐が垂れ下がっているだけで、蜘蛛の姿はどこにもない。
『だからやっぱり、夢だったんだ…』
夢で見た部屋の天井は、嫌にリアルだった。おかげで、夢の中ではそれが夢か現実か区別がつかなかったほどだ。
それにしても、嫌な夢だ。蜘蛛を見て、ぞくっとしない人間の方が珍しい。それが、手のひらほどの大きさもあるなんて、悪夢そのものだ。
『夢を見るなら、もうちょっと夢のある夢を見たいもんだ…』
夢の後味の悪さを引きずっていたE氏は、寝ればまた夢の続きを見るのではないか、となかなか寝付く気にもなれず、ベッドサイドテーブルの本でも読もうかと迷っていたか、やがてやっぱり眠気に負け、もう一眠りしたのだった。
こんなことが一度だけだったなら、蜘蛛の夢を見たことなんて、ころっと忘れてしまったかもしれない。
しかしE氏は立て続けに何度も同じ夢を見た。
「うわあーーーーっ!」
次にその夢を見たとき、蜘蛛は天井の隅からそろそろと這い出し、さらにその次に見たとき、蜘蛛は天井中央の電灯の近くまでやって来た。
『なんか、だんだん近づいてきていないか…?』
E氏は夢を見ることを恐れるあまり、安眠できない日が続いた。睡眠不足は自然、ストレスになる。周りの人たちは彼を心配したが、夢で蜘蛛が少しずつ近づいて来るんです、なんて言ったら、ヤバそうな奴と思われるそうで、言えなかった。
さらにまたその夢を見たとき、蜘蛛はベッドのすぐ隣のサイドテーブルまでそろそろ降りてきた。その様子を、隣で眠るE氏はまざまざと目にした。
今までにない至近距離で、全身の毛が逆立ち、金縛りにでもあったかのように身体は動かなかった。
そしてサイドテーブルにいる蜘蛛が、その長い脚をE氏の顔に向けて伸ばしたとき、E氏はとうとう悲鳴を上げそうになったが、
「んむぐぐーーーーっ!!」
E氏は閉じた口の隙間からうめき声を漏らすことしか出来なかった。なぜなら手のひら大のその蜘蛛は、ちょうどE氏の顔にピタリとかぶさって、E氏の口を塞いでしまったからだ。
蜘蛛の脚の毛の、ザラザラとしたおぞましい感覚が、おでこや頬、顎を走る。E氏は声を出せないまま、もがき苦んだ。そして、
『そうだ、電気の紐を引っ張れば…!』
夢の中にあったE氏は、何度も悪夢を見てきた経験が活きたのか、側にあるはずの電気スイッチの延長紐に向かって、一心に手を伸ばした。
そして力強く引っ張った。
パッと灯りがつき、顔の嫌な感覚は一瞬にして消え去った。顔に載っていたはずの蜘蛛はいなくなったのだ。
『はあ…、またあの夢か…』
E氏は肩で荒い呼吸をしながら、天井を見上げた。
いつもなら、そこで自分の狭い部屋の天井が目に入るはずだった。しかし今回は違った。そこはまだ夢の続きだったのだ。
パっと点いたはずの灯りは、暗闇に飲み込まれていった。
E氏がいたのは、どこまでも続く真っ暗な空間だった。
振り返ると、そこにはすらりと背が高く、嫌に手足の長い男がいた。顔には悪趣味な黒い蜘蛛の被り物を被っている。暗いはずなのに、なぜかその男の姿だけがくっきりと浮かび上がって見えた。
『これは夢なんだな…』
悪夢であっても、それが夢だとわかっていれば恐くない。E氏は勇気を得て、啖呵を切った。
「お前だな。いつも夢にでてくるのは!」
なぜそう思ったかと聞かれれば、直感としか答えようがなかった。蜘蛛が人になっているのは、夢特有の不条理というものだ。
「いかにも」
男の声は、糸を出すようなスルスルという音が混じっていた。
「なんなんだお前は!なんの恨みがあって俺の夢に出て来る!」
「一ついっておく」
蜘蛛男が歩み寄った。E氏は「被り物」と思っていたその醜い造形をまじまじと見つめてしまって、身の毛がよだった。細部までがこまかに動いているところを見ると、それは被り物などではないようだ。
「我が貴様の夢に出るのではない。我はただ、糸を紡ぎ巣を張るのみ。貴様が勝手に巣にかかった。それだけのことだ」
「巣にかかった、だって?」
E氏は手足を動かそうとした。しかし動かすことが出来なかった。いつのまにか彼の手足は背後にある大きな蜘蛛の巣に絡めとられていたのだった。動かせるのは口だけだった。先ほどの威勢とは打って変わって、E氏は命乞いをした。
「俺、餌なの…?俺マズいよ、不摂生してるから!巣から出してよ!」
男は屈んで、E氏にぐっと顔を近づける。息が詰まる。蜘蛛の8つの瞳は威圧的な存在感でE氏を見つめ、目を逸らすことも出来なかった。
「お前の意志で決めることではない!」
遠くからは黒だと思っていた蜘蛛の色は、こうして間近で見させられると、青や緑、黄、赤、茶色、様々な色を含んでいた。そして中央から正確な対称となって八方に伸びた脚は、なぜだか曼荼羅を連想させた。
「お前は喋りすぎるようだ…」
男は糸を吐き出すと、E氏の口をぐるぐると覆い始めた。
「んむーーー!!」
E氏の叫び声は、声にならなかった。
8つの瞳が同時にE氏の顔を覗きこむ。その瞳一つ一つに、E氏の顔が反射しているのが見える。さらに男は口の辺りで左右対になっている、鎌のような形をした顎をわしゃわしゃと動かした。
「そう、それでいいんだ」
男はゆっくりと言うと、E氏の顔をパクリと飲み込んだ。蜘蛛男の口に飲み込まれたE氏は、そのまま暗い迷宮の中に落ちていくのを感じた。
「うわあーーーーっ!」
叫び声を上げながら飛び起きたE氏は、がむしゃらに電灯の紐を引っ張った。
『よかった。部屋だ…』
E氏は肩で荒い呼吸をしながら、両手で顔をごしごしとこすり、手足が絡めとられていないことや、口が蜘蛛の糸でぐるぐると覆われていないことを再三確認した。
あんなおぞましい夢の後で、E氏はもう少しも、眠る気はしなかった。そしてもういい加減、一連の夢を見るのはごめんだ、何か出来ることはないかと、真剣に考えた。
『変な夢を連続して見るのは、きっと疲れているせいだ…。今日は何か、気分の替わることをしよう…』
そして思いついたのは、掃除だった。
『そうだ、それはいい考えだ。ちょうど今日は休みで、時間はある。部屋を奇麗にすれば、きっと夜は気持ちよく寝付けるし、それにひょっとしたら、部屋に蜘蛛が潜んでいるからあんな夢をみたのかもしれない。掃除機をかけて、綺麗にしてしまおう…』
E氏はまめな人ではなかったので、部屋の掃除はずいぶんと久しぶりだった。
散らかった物を片付け、カーペットに掃除機をかける。すると、小さくな黒いゴミがカーペットに引っ掛かっていて、掃除機では吸い取れないことに気が付く。
なんだろう…と思って、近くで見てみるとギョッとした。それはぺちゃんこに潰れた、
『蜘蛛の死骸だ…』
E氏は目にしたものが信じられず、呆然とそれを見つめた。一体いつからそこにあったのだろうか…。気付かない内に踏みつぶしてしまっていたのか、それとも、段ボールか何かを床に置いたとき、たまたまそこにいたのを、つぶしてしまったのだろうか。
E氏は思い出そうとしたが、何も心当たりはなかった。
結局E氏は、それをティッシュでくるんで、ゴミ箱に捨て、掃除を続けた。
それきり蜘蛛のことは忘れてしまって、思い出したことは二度となかった。