大佐さん、ご機嫌いかがでしょうか?
***
――平穏ってやつは、そうそう簡単には戻らない。そして悲劇の幕が下りたところで、その余韻は確かに残留してしまうものであって。
「……リリィちゃん、大丈夫かな?」
「……ふん、説教されずに済んで幸いだ」
「あんたねえ……」
今となってはどこか懐かしさすら感じる、いつもの部屋。基地内部にある、ノワールの執務室で。
あの屋敷での一件から数週間後の、時刻は昼十二時少し前。ノワールはブランシュとヴェルメイユと共にテーブルを囲み、穏やかな、それでいてどこかそわそわとした落ち着かない時間を過ごしていた。というのも、
「主犯のダリアは死亡、亡骸はノワールの懇願もあって手厚く埋葬されたとはいえ……そのせいでリリィちゃんは被害者でありながら重要参考人扱い、か。ノワールの地位や功績を持ってしても、帝国式の尋問紛いの事情聴取は、避けては通れなかったな」
「……だね。おまけに私やヴェルメイユがその尋問に立候補したけれど、立会いすらお断りの門前払いだもんねえ。ノワールにいたっては、治療に専念せよって名目で軟禁状態だったし。しかもどっちも皇帝陛下直々の命って……どーにもできないよねえ。リリィ、大丈夫かな?」
「……ううーん、大丈夫、だとは思うけど。かれこれもう一月近いからな……さすがにちょっと、心配にはなるな」
と、いうことであって。
ブランシュもヴェルメイユも、リリィベルのことを本当に心配してくれているのだろう。だからこうして毎日、意味もなくこの部屋に集まってきてはこのように顎に手を当てるなり頭を抱えるなりして悩んで、そのついでのように。
「っていうか、あんたは大丈夫なの?」
「……なんだ、やぶからぼうに? 傷ならばとっくに治ったさ。まあ、まったく痛まないといえば嘘になるがな」
「いや、そうじゃなくてさ……」
「リリィちゃんがいなくて、寂しくないかって話だよノワール」
と、心配してくれている、というわけで。
しかし、当のノワールはといえば。
「……ふん、まったく落ち着きがない馬鹿共め。無用な心配でうんうんと頭を抱えている暇があれば、とっとと戻って事後処理なり戦後処理をしてこい。だいたい彼女の尋問に関しては、父が責任を持って行ってくれると言っていただろう? なら貴様らのようなミジンコ共のミニマム脳みそで悩んだところで、なにも変わりはしないさ」
「うわ、感じ悪っ! なんか、いつもより口悪くないあんた?」
「そうだぞノワール、ミジンコはひどいだろう」
「黙れ、ミドリムシ。永遠の別れでもあるまいし、騒ぎすぎだ阿呆」
「うわ、なんか更にひどくなった!」
この通り、いつもどおりであって――なにも、変わりはしない。平常運行で、凪も時化もありはしない。さざ波が一定のリズムで寄せては返すような、極々平坦な心境でしかなくて。だが、そんな態度のノワールをどうやらふたりは承服しかねるらしく。
「ふーんだ、なにさ強がっちゃってさあ。本当はリリィが帰って来なくて、毎晩まくらを涙で濡らしてるくせにさ」
「……ふざけろ、誰がするかそんなこと」
「そうだぞブランシュ、ノワールは涙で枕を濡らしたりはしないさ! たまーにデスクで撮り溜めたリリィちゃんの写真を見てもがいたり、もんどりうったり、奇声を上げたりしているだけだ!」
「そうだぞまったく――って、おい!」
――見てたのか、見られていたのか? 割とさらりとディープな恥部が詰め込まれた爆弾を放られて、思わず人生初のノリ突っ込みしてしまった。が、
「はあ、そんなのいつものことじゃない? つまんなっ!」
けーっと吐き捨てるようにブランシュは言い放ち、言葉通りつまらなそうに背伸びしてみせて――こいつ、いつか殺す。と、静かなノワールの殺意は意にも介さずゴロン、と隣に座っていたヴェルメイユの膝の上に真っ白な光沢ある髪をなびかせながら頭をダイブさせて。
「……でもさあ、本当に」
ころり、ころりと何度か寝返り。そうしてヴェルメイユの腹の辺りに顔を埋めるような姿勢になったところで、
「リリィ、いつ帰ってくるんだろう……せっかくぜんぶ終わったのに、これじゃあ、さ」
ぜんぜん、ハッピーじゃないじゃんね、と。くぐもった声で、そう呟いて……そんなブランシュの姿にノワールはヴェルメイユと視線を交わして、揃って肩を竦めてみせて。
「……もう、戻ってこないなんてこと、ないよねノワール?」
「……さあな」
「……ふん、だ。ヴェルメイユ、頭、撫でて」
「はいはい……ノワール、いじめすぎだぞ?」
「……知るか」
なんてそっけなく言いながらも……まあ、なんだ。こうもはっきりと寂しがられてしまうと、なんというか。
寂しいな、なんて。
思わないことも、ないわけじゃないけれど。そんなことを考え始めてしまえば、このままじゃ――
「……ふん、付き合ってられんな。少し、外の空気を吸ってくる」
――寂しさに、溺れてしまいそうになるじゃないか。女々しく泣き出して、ぐちゃぐちゃな顔を曝け出してしまいそうになるじゃないか。
だから、ノワールはふたりを残して部屋を出る。逃げるように、足早に、振り切るようにして。足元から這いずって追いかけてくる寂しさに追いつかれないように、基地の外へと進んでいって。そして、巨大な扉で区切られた基地の外部にまろび出たところで。
「……そうだ、永遠の別れでもあるまいに。こんなことで悲しんでいたら、どこかの誰かに化けて出られてしまうだろう」
足を止め、空を仰ぐ。よく晴れた、雲ひとつない青空を見上げる。
――センチメンタルは、嫌いだ。ノスタルジックも嫌いだ。そしてその最たるものになった本当に永遠に会えない彼女のこともまた、嫌いだ。大嫌いで大嫌いで……ああ、そういえば、と。瞼を落とし。
そこで、ふと思い出したのはあの告白、というかセクハラ紛いの耳噛み行為のこと。好きだ、と。大好きだ、と。愛してる、とまで言った、あの告白という名のセクハラを思い起こし。しみじみと。
「……ふふふ、あれは最高の噛み心地だった。あの弾力を知ってしまえば、もう他のものは噛めないな……」
リリィベルの耳の噛み心地の良さにうっとりとトリップして――はっ!? とノワールは首を振る。違う、そうじゃない。というかなにを考えているんだ自分は? 遠い空の上からどこかの誰かさんが怪しい電波でも飛ばしてきているのだろうか? そのせいか、そのせいで狂ってしまいそうなのか。そうだ、そうに違いない。だが残念だったな、このノワール! そんなことでは惑わされんぞ! ああ、でもはみはみしたい! リリィベールッ……と、そんなことはどうでもよくて。
そうでなく、思い出したのは。
「……そういえば、大嫌いと言われたままだったな」
告白の、返事のこと。
結局自業自得とはいえ、「大嫌い」としか言ってもらえていないままな、あの告白のことであって。なおかつノワールの超高性能な脳というコンピューターがそこでふと、考えてしまうのは。
「……もしも、あれが本気の答えだったらどうする? いや、いやいやいや……まさかまさか、そんなわけ」
あるはずな――いとは言い切れない、あの瞬間の残念すぎる己の姿がフラッシュバックして。あの悶えながら身を捩る少女の耳を一心不乱に噛み続ける、帝国でも高位の階級に就く成人男性の姿に思わず、
「……あ、まずい。なんだか死にたくなってきた」
そんなことが、割かし本気でさらーっと口を吐いて……ふふふ、なぜだろうか? お空の上からダリアが手招きでもしているように見えてきて。その手を掴もうと広がる空に向けて、手を伸ばそうとした瞬間。
「……なにをしているのですか?」
「ぬおっ!?」
突然背後からかけられた声に、意表をつかれて無様に飛び跳ねた心臓に引き上げられるように転がって。お、お、お、お……と、しどろもどろ。人生の中でもそうはなかった驚きに、バクバクと痛む胸を押さえて顔を上げて振り返ってみれば。
そこには、
「……大佐さん」
涼やかで、どこかおっとりというかのんびりとした声音。吹き抜ける風に揺れるのは、華奢な身体を包むような青いリボンがあしらわれた純白のドレス、いつかプレゼントした……リリィベル、君だけのドレス。
そして元の鮮やかに輝く金色の髪に、少しだけ混じった黒髪が揺れて。柔らかに弧を描いた二重瞼の奥からは、広がる青空よりもなお透き通るように青い瞳が煌いて。少しだけ屈んで伸ばされた、細くしなやかな白い手へと――遠くではない、確かに目の前にあるそのリリィベルの手へとノワールは手を伸ばし。
しっかりと、掴み、掴まれて。
「……大丈夫ですか?」
「あ、ああ、問題ない……それで、戻ってきたということは終わったのかい?」
「……はい、終わりました」
「そうか……どうだった? なにかひどい目にあったりは、」
「……はい、大佐さんのお父様から、大佐さんのお話をたくさん聞かせていただきました。あと、お写真もたくさん見せていただきました」
「……ふむ、どうやらひどい目に会ったのは私だけのようだ。一安心だよ!」
他愛ないやり取り、ではあった。けれど繋いだ手は、もう二度と離れることはないと、そう誓うように確かな感触で結び合って。そうして立ち上がり、ふたりは向き合って。そして、ほんの少しだけ笑いあって。
「……これで、やっと元通りだな。なんだかずいぶんと、あの狭い地下牢から遠回りをしてしまった気がするよ」
「……はい」
そして、交わしたい言葉は無数にあれど。なによりもこの再会に、まずは――
「リリィベル……私は」
「はい、大好きです。わたしは大佐さんが、大好きです」
「――っつあ!?」
――久しぶりの不意打ちに、パリンッと祝砲の如く舞い上がり割れる眼鏡と。
「ふふ……お説教の、代わりです――大佐さん、ご機嫌いかがでしょうか?」
「……最高、だよ」
遠のく意識の中で、どこか悪戯っぽく笑う笑顔に見守られ。これまた久しぶりの死出の旅路に旅立つ幸福を、これから何度でも、何度でも、ノワールは味わうことにするのだ――。
――そしてこの物語を悲劇と呼ぶか喜劇と呼ぶかは、もう少し続くふたりの旅の後に決めるとしよう。