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そのカウントダウンは、止まらない。



   ***



 一秒か、一分か、一時間か、あるいは一瞬だったのか。閉じられた視界を再び持ち上げるまでにどれだけの時間が流れたのかは分からないが、しかし。


「――大佐さん! 大佐さん!」


「……っつ」


 確かに聴こえたその泣きそうな声を呼び水にして、鈍痛が走る左胸。その声と痛みのおかげかきつく眇めたようになりながらも瞼が跳ね上がる。だが滲んだ視野は狭く、重く。油断すればすぐにでもこの瞼は再び落ちてしまいそうだった。おまけに、


「私は、いったい――っつあ!」


「……動かないで、ください。傷、広がってしまいます」


「……っ、ぐっ」


 見れば幸い、というべきか。突き立てられたナイフは、辛うじてこの鼓動を止める深さには達してはいなかったらしい。でなければ、とっくにくたばっているはずだから。


 だが少しでも身体を動かそうとすれば、連動するように再び左胸が軋む。そのせいで目は覚ませども、ぴくりともノワールは動けやしなくて。


 加えて覚醒しきれない脳は、痛みばかりをはっきりと伝えるばかりで今この瞬間……いや、違う。どうして今、こうなっているのかということさえ、正しく把握することは出来ていなくて。


 ――いったい、なにが起きたのだろう? ノワールは、正常に稼動していない頭をそれでもフル回転させて考える。少なくとも自分は今、べったりと床に動けない身体を預けている。そしてその頭を誰かが抱えてくれている。声をかけてくれている。それは、分かる。分かるのだけれど、でもそれだけで。


 ……まだ、頭が混乱している。なぜとどうしての集中豪雨に見舞われて、嵩を増して溢れそうな疑問符。ノワールは、声を出すことさえも出来ずに見守ることしか出来なくて。


「……どうして、あなたはこんなことをするんですか?」


「あら、あなたなんて他人行儀ね。いつものようにお母さん、って呼んでもいいのよ?」


「……呼びません、もう二度とです」


 話し声は、ふたつ。とてもよく似通った声同士、だというのにまったく別人同士のようにも聴こえる。それは怒気を孕んだゆっくりとしながらもどこか鋭い声色と、


「……うふふ、夢は覚めちゃったみたいね?」


 怖いくらいに穏やかな、それでいて小ばかにするような話し方。不穏な優劣が見え隠れするような力関係が滲むふたつの話し声。母と娘、偽りでも自然とそうなる。それは当然――リリィベルと、ダリアであって。


「……いつから、ですか?」


「うん?」


 そこで普段はとろんとしたリリィベルの目元が、わずかに吊り上る。なあに? と、変わらず余裕の笑み交じりに飄々としたような態度のダリアが首を傾げてみせる。


「わたしには、つい先ほどの瞬間まであなたがそれなりの年齢と風貌をした女性の、母親としての姿に見えていました……でも、大佐さんを傷つけてしまった今は違います」


「あら、どう見えるのかしら?」


 その質問に、自分を支えるリリィベルの身体がかすか、震えて。


「……わたしとよく似た、少し年上の女性、です。だからこそ母と呼べるような、相手ではありません」


 口にしながらも、信じられないといった表情をする。きつく結んだ唇は、いったい今なにを思っているのだろうか? けれどノワールは、声すらかけれずそんな彼女の顔をじっと見つめることしか出来なくて。


「そう、ならそれが正解じゃないかしら」


 うふふ、とダリアが笑う。そして、


「いつから、わたしを騙して――いいえ、思い込ませていたんですか?」


 リリィベルの言葉に、顎に指先を添えて「んー?」とダリアは微笑んでみせて。


「いつからだと思う?」


「……質問に、質問で返すのはよくないと思います」


「あら、言うじゃない。まるでどこかの誰かさんみたいな口ぶりね……じゃあ、もうひとつ質問を重ねてあげる。あなた、一番古い記憶はどこから覚えているのかしら?」


「……?」


 飛ばされたダリアの問いかけに、「そんなの……」と訝しげながらも答えようとしたリリィベルの動きが、しかし、ぴたりと止まり。


「……あ、え?」


 戸惑ったように、支えたノワールの顔を見下ろしてきて……どうした、というのだろうか? その青く輝く瞳が、大きく揺れ惑ってみせて。ぱくぱくと声を発さない唇が、無意味な開閉を繰り返してみせて。


「覚えていないでしょう? 古い記憶なんて、幼い頃の記憶なんて。なんにもありはしないでしょう?」


「……っ」


 不意に出されたそのダリアの言葉に、ビクン! とリリィベルの肩が弾んで。


「あはは、なあにその顔? 世界の終わりみたいな顔しちゃって」


 くすくすと驚くリリィベルの顔を見てダリアは可笑しそうに笑ってみせて……なんだ、なんの話をしているんだ? カタカタと小刻みに震えだすリリィベルの身体に得もいえぬ不安、なにをしたのだとノワールはなんとかダリアの方を睨み付けてみれば。


「やだ、あなたまでそんな顔しないでよ、もう。あーはいはい……そうね、いつから、という質問に答えるなら。それはあなたが生まれた瞬間からよリリィベル」


 両手の平を小さく上げて、ダリアは仕方なしといった様子でそう話し出す。だが、


「……ただし、」


 間に挟んだその言葉に繋がるものは、


「あなたが十七歳だということ、それすらも、だけれどね」


「……え?」


 決して優しい真実などではないということで。いや、むしろそれは――


「……だってあなたが生まれたのは、ほんの数年前なんだもの。それにもう気づいているでしょう? あなたは大量のわたしの模造品たちの最後、その大きさになるまで目を覚まさなかった不出来な人形。つまり、」


「……う」


「そもそもはなからあなたは思い込まされたものしか持っていないのよ。いつからもなにもない、あなたにとっての本物は、最初からそれだけで、それだけなのよ」


「嘘ですッッ!」


 ――残酷で、なんの救いもない真実なのだということで。


 同時に、リリィベルの悲痛な叫びが木霊する。ガタガタと身体の震えが大きくなって、支えられたノワールの身体ごと激しく揺れて。嘘です、嘘です、と。存在の全否定をされたリリィベルは、見開けるだけ目を見開いて俯いて、見て分かるほどに大粒の汗をいくつも流してみせる。


 そして、そんなリリィベルへダリアは。


「だからあなたは、他の子たちと違って身体が壊れるまでのスパンが短いのよ。そして元から空っぽな分だけ、言われたことをすべてスポンジのように吸収してしまう……それこそ言われればわたしのことを母親だと思ったり、さっきみたいに決められた台詞を聞いたら決められた誰かに刃を向けたり、ね。ああ、もしかしたら催眠術でもかけられたと思っていた? けど残念、催眠なんかじゃない、そんなものはあなたには必要ないもの」


「……嘘、です。そんなの、そんなの」


「虚言、妄語、造言、偽言、嘘、妄言、そら音、虚誕、偽り、空音、詐偽、虚辞、そら言、造説、虚語、嘘偽、空言――それらたったのひとつでも真実が含まれない事柄だろうと、あなたにとっては唯一無二の真実足りえるのよ」


 だから、リリィベルあなたはね……言いながら、ゆっくりとリリィベルへとダリアが歩み寄ってくる。そして目の前で膝を突き、その指先でリリィベルの顎先をくいと持ち上げて。


「あなたにとって、本物なんてひとつもありはしない。あなたのすべては、すべてあなた以外の誰かに与えられたものだけ――そう、生まれた瞬間からずっと偽者なのよ、あなたは」


「……っ!!」


 瞬間、見上げたリリィベルの瞳は更に大きく揺れて――じわっ、と。見開かれたそれから滲み、溢れ、球を描いて形になりノワールの頬へと落ちたのは。


「……リリィ、ベル」


「……う、うう……」


 大粒の涙、だけだった。


 ボタリ、ボタリと。押し殺したような声と共に青い瞳を長い睫毛を濡らし、遮るものなく落ち続ける。それでもその噛み締めた唇は、堪えようと耐えようとしているのだろうか。けれど、そんなものじゃ、そんなものだけじゃその涙の洪水は止まるはずもなくて。


 そしてそんな姿を、目の当たりにしておきながら。悲しむ君がここにいるのに、知っているのに、なのに、なのに自分は……ノワールには、掠れた声で名を呼ぶことしかできなくて。その涙を拭い去ってやることも、出来やしなくて。


 それが、それが。そんなことが――


「……ダリ、アッ!」


「っ!?」


 ――許せるはず、ないだろう! ノワールは瞬時に痛みなど忘れて無理矢理に動かした身体を目一杯に起き上がらせ、「ぐっ……!」うめき声を出しながらも瞬く間に伸ばした手でダリアの胸元を握り引き寄せて。


 ゴンッ、と。打ち合った額、超至近距離で鼻先突き合わせて。


「……なあに、キスでもしてくれるのかしら?」


「ふざけるな。よくも、よくもリリィベルを泣かせたな……貴様は、貴様だけは殺す、必ず殺す」


「……その前に、あなたが死ぬかもよ?」


「その時は、貴様も道連れにしてやるさ」


「あら、怖い」


 微笑交じりの憎らしい顔を、牙を突き立てんばかりの荒々しさで睨み付けて。ぐっと握った拳の甲で口元から垂れた血を払い、力が抜けて折れそうになる足に渇を入れ、強引に、しかししっかりと立ち上がり。


「……大佐さん」


「……待っていろ」


 すぐ、終わるから。そう、すぐに終わらせるから、と。


 こんなくだらない悲劇など、もうたくさんだから。


 だから、だから。


「……大丈夫よノワール、これでみんなが幸せになれるんだよ?」


「ああ、貴様が死んでハッピーエンドだ」



 ――こんな狂った舞台など、さっさと閉幕させてしまおう。

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