愛おしさの色は、誰もが違うのです。
***
まあ、どれだけ現実逃避したところでなにかが変わるわけでもなく。ましてや事態が好転するような兆しが訪れるというものでもない。そんなことは、ノワールだって嫌ってほどにわかっている。
ただ、それでも。
「……コレ、か?」
そうやって自分の心を誤魔化しながらでも、弱音を吐きながらも、情けなくとも。それでも食いしばって歩みを止めなかったことは、決して無駄にはならないのだということもまた、知っていて。
「……小瓶?」
見つけたものは、小さな小瓶。拾い上げ、傾けてみれば真っ赤な液体が、とろりと中で揺れる。以前はリリィベルが使用していた寝室の、その支えとなる四足の内のみっつが折れたベットの傍に、隠れるようにそれはあって。
……これが、薬なのだろうか? おおよそ見た目からしてそうは見えないどころか、どちらかといえば、そうこれはもっと見慣れたものに思える。それは、
「……まさか血液、か?」
なのではないか、と。半信半疑、しかし口を吐く。そしてそうなのではと思えば、もうその中身がそれ以外には見えやしなくて……だが、それでも。
「ふん……まあいい、これがなんであれ……」
これが目的の薬だという確信は、ない。しかし、この展開にだけは確信が持てていた。なぜならば、
「劇的なシチュエーションが好みのやつほど、こうして舞台を整えるのが好きなものさ」
なのだから。再三言ってきたがダリアとは、そういう女性なのだから。これは、そういう確信だ。ノワールは、皮肉めいた笑みを浮かべる。
病に冒された眠り姫に、王子が苦痛を超えて手にした薬を与える――そんなシチュエーションか、これは。お涙ちょうだいのテンプレすぎて、失笑してしまうじゃないか、と。
そしてノワールは、背負ったリリィベルをそっと傾いたベットに降ろす。だがそうしておあつらえ向きな場所に転がったそれを、まるでここでこうしてリリィベルを横にすることも。それこそ手に持ったこれを口にさせることすらも。
それらすべてが用意されたチープな台本上の仕種と、ちゃちな舞台セットのように思えていた。だがそれだけにこの行為が、正解であるということの証左のような気さえしていて――だからこそ、
「……ふん、いいように転がされている気もするが、まあいいさ。どうせもうここまでしたのだ、もうなにも怖くなどないさ」
気には入らない、だが乗ってやるのだ。このつまらない劇のワンシーンってやつに、だ。
ギシリと、膝を沈めて軋んだベット。眠ったように動かないリリィベルの横で、ノワールは歯を立て小気味良い音を鳴らし小瓶の口を塞いでいたコルクを抜く。そして、ぺっと吐き出して。
「……リリィベル」
名を呼び、形のよいおでこにかかる前髪を指先でそっと掻き分ける。伏せられた長い睫毛の下、微動だにしない二重目蓋を軽く撫でて。ぐっ……と、ノワールは眉根をきつく寄せて顔をしかめるようにしてみせて。
「……もう、期待してもいいんだろう?」
さらりと零れそうな柔らかで細い髪の感触を感じながら、小さな頭をわずかに持ち上げる。そのまま回した手で、薄れた桜色の唇をほんの少しだけ、開かせて。
「……これで、やっと君を」
手に持った小瓶を、赤い液体が収まったそれをゆっくりと口元へと近づけ、触れさせて。
「救える……!」
少しづつ、持ち上げていって……微量ながらも確かな流れでそれは小さな口の中へと流れこんでいって。
そして、その中身がすべて注がれたあたりで。
「……っつ」
「……!?」
ぴくっ、と抱えた頭が動く。力なくベットに置かれた指先が、跳ねるように震えてみせて。けほけほとむせたような咳が何度か放たれて、腕の中で細い身体は捻る様になんどか苦しげに蠢いてみせて。しがみつくようにノワールの胸元を握り締め、また数度深く咳き込んだ後に――
「……大佐、さん」
「……!!」
――胸元に顔を埋める様にして、くぐもったように響いたのは紛れもなく。
「大佐さん……」
「リリィベル!」
目を覚ました、リリィベルの声であって……けれど彼女が目を覚ました嬉しさからか、応えるように呼んだ名は上ずってひっくり返ってしまっていた。とても情けなく、みっともなく、まるで泣き出す前のような声になってしまっていて。
「あれ……わたし……なんで?」
「……く、くくく」
でも、それでも構わなかった。そんなことは、どうでもよかった。未だまどろみの中にいるようなとろんとした青い瞳が、こちらを見ている。半開きの唇から、気の抜けそうなほどにゆったりとした声が漏れるようにこの耳に聴こえる。握ったその手が、弱々しくも握り返してくれる。
それだけで、それだけでもう満足だったから。だから――
「くくくくっ、くははははっ!」
「あの、大佐さ――わぷっ!」
――ただ思い切り、リリィベルを抱きしめた。それだけで、それだけがすべてだった。
でも本当は、大声で泣き喚いて喜びを叫びたかった。でも、ノワールはしなかった。する必要がなかった。なぜならその重ねた身体の、自身の右胸の辺りに感じる鼓動が嬉しかったから。同じようにリリィベルが右胸に感じているであろう自分の鼓動の激しさが、それをするのと同じくらいに今の気持ちを伝えてくれているはずだ、と。そう思ったからだ。
しかし我ながら、なんて似合わないロマンチストでキザな思考だろう、とは思う。思うのだけれども、それでもまあ、なんだ。
「……すごく、ドキドキしてますね」
「……誰のせいだと思っている」
たぶん、ちゃんと、正しくそんな気持ちは伝わっていて。
だからこそ、
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい、謝罪ならもう、死にたいほどに聴かされた」
「……じゃあ、ありがとう、ございます」
「感謝も、いらない。ありがとうと言われる度に、罪悪感に殺されそうになる」
「……なら、」
ぎゅうっと、抱きしめ返されて。摺り寄せるように、頬と頬が擦りあって。
「会いたかったです……ずっと、ずっとずっと、あなたに会いたかったんです……」
「……ッ!」
そんな言葉に、互いに一筋の涙が零れ落ちて――摺り合うように合わせた両の頬で、ふたつの流れはひとつとなる。そうなればもう、壊れてしまったようにとめどなく涙腺からは涙が幾つも溢れ出して。
どちらからでもなく、もっともっとと求めるようにきつく引き寄せ抱き合って。
「……私は、一度君の手を離してしまった。君のためだと、そう言い聞かせて。本当は、泣き喚いてでも離したくはなかったのに」
「……はい」
「……だというのに、私はそんな自分が許せなくて。そんなことにさえ失くしてから気が付いて。躍起になって、欲しがって、我侭な子供のように周りを巻き込んで……自分から捨てたくせに、奪い返そうとして。そうして戦争まで引き起こしてしまった」
「……はい、知っています」
「……そして、今日、」
「……」
口を、噤みそうになる。けれど、言わずにいられないのは罪悪感から、なんだろうか。そのくせ言わずに終えれれば、なんて思うことにすらもそれは付き纏ってきて。言いかけた言葉を、継ぐことができなくなって。そうなれば、あとは。
――知れば、嫌われてしまうのだろうか? と。
シンプルな疑問と心配が、電光のように脳内で明滅し始めて。
「……私、は」
がんじがらめ、動けなくなって。でも、
「……大佐さん――」
そんな躊躇い黙ってしまうノワールの言葉を待つリリィベルが、そっと背中を叩いてくれて。そして、囁く様に。
「――わたしは、ここにいますよ?」
「っつ」
まるで子供をあやすような優しい声、言葉がこの耳に、心に届いて――ああ、そうか、と。そうなのだな、と。ノワールは瞼を伏せて小さく笑みを溢して。
「……聞いてくれないか、リリィベル」
「……はい」
震えそうだった声が、いつものはっきりとした声音に戻る。とんとんと心地よいリズムで叩かれる背中の感触に、浸りそうになりながらもゆっくりと身体を離す。そしてきちんと向かい合い、もう大丈夫だと小さく頷いて。
……瞬きほどの、沈黙の後に。
「……私は、君を救うために君を殺した。何度も、何度も、何度もだ。なにを言っているかはわからないかもしれない。そしてきっとその罪悪感は永遠に消えやしないだろう。けれど……」
ノワールは、そこで言葉を切って。ややあって、小さく首を振って。応えるように、リリィベルは頷いてみせて。
「そう……なのだな。それでも君は、ここにいるのだな」
「はい、わたしはここに……あなたの傍にちゃんといます」
たとえ、何度殺されたとしても――
「……わたしはもう、大佐さんのお傍を離れたくはありません」
――それが、殺されたわたしたちの気持ちでもあると、思います。と、はにかむように笑ってくれた。
そしてそれが、そのおかげで。とても、とても。ノワールは、
「……君にはいつも救われるよ、本当に」
で、あって。
「……む、お?」
「大佐さんっ?」
しかしそのせいか急に込み上げた安堵感から、ふらり、ノワールの身体の力が抜けて。よろり、リリィベルのほうへ倒れかけて。慌てたようにその身体を、リリィベルが受け止めて。
すまない、いえ大丈夫です、なんてふたり笑いあった――瞬間。
『――私は、君を愛さない。絶対に、だ』
「……!?」
不意に寝室に響いた声、同時にリリィベルの身体が小さく跳ねて。ん? とノワールが思うのと同時、
「――ッッ!」
……ドッ、と。軽い衝撃と共にノワールの胸元に鈍い痛みが走って。
視線を、少しだけ落としてみればそこには。
「……リリィ、ベル?」
虹彩の失われた虚ろな瞳をしたリリィベルと、しっかり握られた小さなナイフ。その矛先は……じわり広がる赤に染まるノワールの左胸で……え? と、思った時にはもう。
「……ハッピーエンドのためだもの」
すぐ後ろ、背後から聞こえたのはダリアの声の中。声すら出せずに視界へ静かに暗幕が垂れてきて。
――意識が、ブラックアウトした。そして塞がる直前に見えたのは、絶望したような君の顔だった。