もしものハナシ、です。
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――長ったらしいホームルームが終わったことへの開放感からか、喧騒途切れぬ教室の中。そのざわめきの枠から少しだけ離れた窓際の一番前の席、ほんの少しだけ背伸びをする。固まった背と肩が、制服の下で軽い音を立ててほぐれていく感覚に小さく息を吐く。
そのまま、ふん……と。鳴らした鼻と一緒にそんな周囲で騒ぐ他の生徒を一瞥して、さもつまらなそうに、どこか不機嫌そうに眼鏡を押し上げる。そして真一文字に結んだ口のまま、机から教科書類を取り出して鞄に詰め込み、そそくさと帰路につこう、としたところで、
「なんだノワール、もう帰るのか?」
「……む」
ひょっこりと、視界横からスライドするように制服姿のヴェルメイユが顔を出す。そしてそうだ、帰るぞ。と端的に言い切れば真紅の髪がさらりと零れ、横向きのままでその端正なくせにどこか子供っぽい顔は表情をころころと変えて。
「じゃあ、俺も帰る準備するよ。四十秒待ってくれ! すぐに用意する!」
「……別に、一緒に帰ろうとは言っていないのだが?」
「ん? そうだったか? まあ気にするな!」
「いや、貴様が気にしろという話だ……って、おい」
大丈夫だ、すぐだから! と、ヴェルメイユはひとの話なんてこれっぽっちも聞いちゃいない様子。風のような速さで踵を返し、自分の席へと駆けていってしまって――はあ、と。思わず出た溜息。そうなれば仕方なし、手早くこちらも帰宅の準備を済ませて立ち上がり。
「お待たせ、ノワール! さあ、帰ろうか!」
「……ふん」
そこで本当にちょうど四十秒で支度を済ませたヴェルメイユが戻って来て、しぶしぶと並んで教室を出ることにする。
そして、
「そういえばノワール、今日も彼女と会うんだろう?」
昇降口で靴を履き替えているところで、ヴェルメイユがニコニコと笑顔でそう言ってきて。ああ、そのつもりだ、と言えば。じゃあ、いつものところまで一緒に行くか、と笑うヴェルメイユと怖いくらいのタイミング。揃って外履きの爪先を何度か蹴ってみせ、また並んで歩き出し、昇降口を抜けて。
「……そういう貴様も、行くのだろう? まったく、あの引きこもり相手に毎日毎日健気なことだ」
「はははっ、ブランシュは身体が弱いからな。学校に来れない分は、俺が相手してやらなきゃだよ」
校舎から伸びる緩やかな坂道、青々とした新緑が連なる歩道を、他愛ない会話しながら歩いてゆく帰り道。話題は、ここにはいないもうひとりの友人の話になって。
「ふん、あいつの場合はそれだけでもない気がするがな。どうせ、今日も一日パソコンの前でゲームでもしているのだろう?」
「んー、たぶんな? でも、ブランシュはすごいんだぞ。ゲームもうまいが漫画も描けるんだぞ! 昨日だって、俺と君をモデルに漫画を書いてくれて――」
「待て、ちょっと待て。なぜそこで貴様だけでなく私が出てくるのだ? いったいあいつは、なんの漫画を描いているのだ?」
「……んー? いや、内容までは見せてくれなかったな。ただ、俺とノワールが親友で、毎日学校でも一緒だって言ったらいきなり描き始めたんだよな。特にほら、この前体育で正面衝突して馬乗りになって、ふたり揃って鼻血を流した話なんかは、すごく嬉しそうに聞いていたな」
「……ほ、ほう」
「まあ、きっと描いてるのは俺と君の友情物語みたいなものじゃないか? ははっ、男ふたりだけが登場人物じゃ、そんなものしか描けないだろうしな」
……そう、だろうか? なぜか嫌な予感に、胸がざわめく。
だって少なくとも、あのブランシュという女の脳内から生まれるものが、そういった熱い展開のストーリーじゃないことだけは、ノワールははっきりと分かってしまうからだ。あいつはそういう、残念な女なのだと知っているから。だが、
「……まあ、彼氏の貴様が許容しているのならば、私が口を挟むことでもないか」
「ん?」
「いや、気にするな。後は法廷で権利についての厳格な判決が下されるだけだ。そのときまでは、好きにさせてやればいい」
「ははっ、なんだよノワール? そんな難しい言葉を並べられても、俺にはちんぷんかんぷんだ」
いいさ、気にしないでくれ……軽く手を振ってみせて、しかしいつかあいつの脳内映像が書き起こされた紙面を証拠に法廷に立たずに済む日がくればいいな、なんて。くだらないことを考えて。そしてそんなノワールの反応に今度、あの漫画持ってこようか? と話すヴェルメイユに明確な「NO!」の意思表示をしたところで。
「お、あれって……」
「む……?」
ぴたり、同時に野郎ふたりが揃って足が止まる。そこはちょうど長く緩やかな坂道の終点、住宅に囲まれ十字路になった場所。その交差部端、ふたりの目を奪ったのはカーブミラーの下に立つ――
「……もう来ていたのか」
「……先輩」
――リリィベルの、姿だった。見た瞬間に心臓が、トクン、と跳ねる。
そして腰元まで伸びたまっすぐな長い黒髪を弾ませて、綺麗な二重目蓋の奥の青い瞳がこちらを向く。ノワールたちとは違う学校の制服に身を包んだ小さな背丈に華奢で細い身体は、かけた声に引き寄せられるように駆け寄ってきて。
「……ごめんなさい、早く終わってしまったので、先に来てしまいました」
「いや、いいさ。こちらこそ待たせてしまってすまないな」
律儀に謝罪して、頭を下げてみせる。そんなリリィベルに、ノワールはうまく作れない顔。それでもヴェルメイユの手前なんとかクールな先輩ってやつを意識した顔で寛大にそう言ってみせる、が。
そんなノワールに、なぜかリリィベルは口元で少しだけ両手の指を遊ばせながらモジモジとしてみせて、
「いえ、そんなことありません。その……わたしが早く先輩に会いたかったからなので……我慢、出来なかったんです。先輩の顔、はやく見たくなっちゃって」
「――ぐはっ!」
超新星並みの弾ける可愛さに、そんなクールな自分はあっけなく砕かれて。さらに、
「……ご迷惑、だったでしょうか?」
しゅん……と、申し訳なさそうに笑ってみせるその奥ゆかしいまでの愛らしい笑顔に、もう、もう。
「そそそそんなわけあるか! 会いたかったのは、私だって同じだ! くそっ、なんなのだ君は? なんでそう、いちいち可愛いんだ! 天使か、そうか天使なのだな? マイエンジェル!」
「いえ先輩、わたしは人間ですが……」
少々、いやかなり理性のネジがぶっ飛んでしまって――髪を掻き乱しながらの悶絶、眼鏡がずり落ちるのもお構いなし。四つん這いになって道路のど真ん中で、ぐああああっ可愛い、かわいい、カワイイ! と諸々崩壊したままリリィベルの可愛さに身悶えてみせてしまって。
「ははははっ、相変わらず仲がいいな。さーて、それじゃ俺はお邪魔虫だろうからブランシュの家に行くとするよ」
「む、そうかならば早く行け。ハウス、しっしっ!」
「……その体勢で顔だけ真顔に戻るのはやめたほうがいいぞ、ノワール。すごく怖い」
「気にするな、なにも問題ない」
ま、まあいいや。はは、じゃあまたなふたりとも、と。爽やかな笑顔で去っていくヴェルメイユを(四つん這いの姿勢のまま)リリィベルと共に見送って。
「……ふっ、少々取り乱してしまったな。すまない」
「はい、大丈夫です」
手で汚れてしまった制服を払いながら、すっと何事もなかったかのように立ち上がる。そんなノワールを、少し傾げてみせた顔でリリィベルは待ってくれていて。
「……鞄、貸したまえ。私が持とう」
「はい、ありがとうございます」
リリィベルの肩にかかった鞄を受け取って、その肩紐を自分の鞄の紐と重ねるように肩にかける。そしてそのまま並んで歩き出し、どちらともなく。
「……む」
「……ん」
こつん、と手が当たったのを合図に手を繋いで。なんとなくの気恥ずかしさ、それぞれ逆方向へ顔を逃がしてみせて。けれどしっかりと、指と指は結ばれて。そうして、
「……きょ、今日はどこへ寄っていこうか?」
「……先輩に、お任せします」
「そ、そうか。よ、よし、任された」
「……はい」
どこかぎこちなく、けれどいつも通りに。学校帰り、手を繋いでの帰り道。知らずに零れた笑顔は、どこまでも幸せで特別で、輝いていて。そこには歳の差や学校の違いはあれども、争いも、身分も、敵も味方も、なにもなく。
「その、リリィベル……」
「……はい」
「……私は、君が好きだぞ」
「……はい、わたしも先輩が好きです」
ありふれた学生ふたりの、ありふれた小さな恋の物語がそこにはあって――なんて、な。
……残念ながらそれは長々と夢想した、現実ではない物語。そんな夢物語の話、であって。
「そういうルートも、あるいはどこかにあったのかもしれないな……なあ、リリィベル?」
そんな道も、あるいはどこかにあったんじゃないかと、笑う。背中で冷たくなっていく、君に寝物語のように話し聞かせる。返事など、あるはずもないのに。
そしてどれだけそんな甘い夢を見ようと願っても、君の声を仕種を思い描こうとも。吐息すら感じる距離で、呼吸のひとつも聞こえない現実。静止した世界にしかいない、この現実にだからこそ。
「……リリィベル。私は、君の声が聞きたいよ。もう、狂ってしまいそうなんだ」
どれだけ強がったところで逃避のように想像しなければ、どうしたって振り返れば、血にまみれた何人もの君が転がるこの道を。
――歩きとおすことなど、出来はしないのだから。
――君に、会いたい。会いたくない。この矛盾だらけの道以外は、どこへ消えてしまったのだろうか。