気づかないことが、優しさなのです。
***
――少なくともこれまでに経験したどんな戦場でも、ここまでの深手を負ったことなどなかった。そう言い切れるほどに今、ノワールは絶体絶命の重症を負ってしまっていた。
「……くっ、心臓が張り裂けそうだ……私は、死ぬのか……?」
「ノワール! 気をしっかり持つんだ!」
意識は、朦朧としていた。激痛は嗚咽となって、もはや立つことさえままならなかった。
そんな横たわったノワールの身体を、ヴェルメイユが必死に抱え起こしてくれる。苦しげに押さえた左胸、そこに強く大きな手が被さる。「大丈夫だ、きっと助かる!」励ますように、必死な声が聞こえる。
遠くで空気を震わす爆撃の音と鳴り止まぬ乾いた銃声が交差し続ける。舞い上がる爆風、粉塵。吹き飛び散らばる大地が、パラパラと雨のようにいくつも降り注ぐ。落ちたそれに潰される様に、鈍い音を立てて鉄の塊がいくつも破壊される。怒声、絶叫、悲鳴が木霊する。そして噴き上がり流れる血は、大河の如く流れてゆく。
さながらここは、地獄か。鉛の玉を撃ち合って、鉄の刃を突き刺し合って。殺し、殺され、それだけを繰り返す。そこかしこで敵も味方も、戦場にいるすべての人間がまるで、ゴミの様に死んでいく――そして、自分も。
「……どうやら私は、ここまでのようだな――グハッ!」
「ノワール!」
吐血、ノワールは苦しげに咳き込む。一層強く、ヴェルメイユが手を握ってくる。
けれどもう、本当にだめかもしれない、そうノワールは悟る。なぜなら胸の痛みが、更に激しさを増すのだ。堪えようのないそれは、ドクドクとはち切れんばかりの脈動。どれだけ押さえ込もうとも左胸に収まったこの心臓が、巨大な鉄塊となって内側から胸を叩きつけてくるのだ。
そして、その痛みが最大に達した瞬間、ノワールの瞼が静かに落ちていき、
「ノワ――――ルッッ!」
ヴェルメイユに握られた手が、するりと力なく地面に落ちて。ノワールという男は静かに戦場へと散っていったのだった――
「……いつまで遊んでんのよ、あんたたち」
「お、ブランシュ戻ったのか」
――なんてことは、一切なく。むしろ、だ。
そこまでひとしきりやり終えたところで、帝国軍陣営内に設えられたここ、本部テントに入ってきたブランシュの姿を見るなりぱっとノワールの身体を支えていたヴェルメイユが手を離す。同時にドガッ、とノワールは地面に投げ落とされて、ぐっ!? と背中を強打したところで。
「それで、外の様子はどうだったブランシュ?」
「まあ、どうもこうもないわよね」
地面に落とされた(一応)最高司令官であるノワールのことなど気にも留めず、ふたりはとても戦場とは思えぬほど静まり返ったテントの外へと目を向ける。そして、
「……あんなぶっ飛んだ開戦の仕方をして、おまけに両軍の指揮官がポンコツじゃ誰も真面目に戦争なんてする気にならないわよね」
「おい、誰がポンコツだ」
むっくりと身体を起こしたノワールに、ブランシュは長い銀髪を手で払いながら「あんたよあんた」と可愛い顔が台無しなほど下顎突き出して言ってきて……まあ、反論の余地などないのだけれど。と、のそのそとノワールは歩き出し、ふたりと同じようにテントの入り口まで向かって。
ゆっくりと、垂れ膜状の入り口をめくりあげれば。
「……で、この有様というわけか」
そこには凪いだ海面の如く、穏やかな空気。早々に戦闘を切り上げて夜営のための陣営設置に勤しむ両軍の姿があって……もう一度言おう、本当にここは戦場なのか? と思うくらいにやる気のない両陣営の兵たちの姿が広がっていて。
ノワールは、そんな様を眺めながら頭を掻いてタバコを咥える。そして火を着けて、ふう……と軽く吹き上げてみせて。
「……ふっ、作戦通りだな。これで無用な血が流れることはない」
ニヤリ、満足げに口角を吊り上げてみせる――が、
「ヴェルメイユ、パンチ」
「よしきた!」
「――ぐあっ!」
ガン! と。体重が乗ったいいパンチ、後頭部に直撃して。短い悲鳴と一緒に衝撃で鼻先から滑る様に眼鏡が落ちたところで。な、なにをするか貴様! と振り返れば、
「……さあて、軍法会議にかける前に少し痛い目を見せなきゃいけないみたいね? この乙女眼鏡には」
「回すか、ブランシュ?」
「ふひっ、それもいいわねえ……」
なにやら味方とは思えないほどに悪い顔をしたブランシュと、相変わらずニコニコと爽やかな笑顔を浮かべたヴェルメイユが立ちふさがっていて……な、なんなのだ? ノワールは思わず後ずさり、テントの外へと脱しようとするが。
「あら、外に出たら向こうの陣営にいるリリィに見えちゃうかもよ? あーんな大声で告白したんだもの、今あなたの顔見たらリリィはどんな顔するのかしらねえ? ……ああ、それともさっきのこ、く、は、く! の返事を聞きに行くのかしら? それなら止めないけれど……だって、こ、く、は、く! したんだものねえ。答えが気になるのが普通よねえ?」
「……っつ」
びたっ、と。ブランシュのやたらと一部分が強調されたその言葉に下がった足が止まって……ふ、ふふふ、とノワールは笑う。ブランシュも微笑む。
そして落ちた眼鏡を拾い上げ、流れるようにスススス――と質量を持った残影を残す速度で二人の横をすり抜けて、テントの奥に用意されたパイプ椅子に腰を落としてどっかりと脚を組み。
「さあ、戦況の確認だ! 出足は両軍共に挫けたが、まだこの戦いが終わったわけではないのだからな! 気を引き締めろ!」
「うわ、なかったことにしたよこのヘタレ」
ブランシュの声には反応せず、両方の耳の穴に指を突っ込んで聞こえない、なにも聞こえないの姿勢を貫いてみせて。そんなノワールの態度に、ブランシュとヴェルメイユもまた諦めたように椅子を引き寄せて座って。
「いいから戦況の説明をしろ。少なくとも開戦は貴様が行ったのだから、一応戦闘自体は行われたのだろう?」
「まあね? でも、さっきも言ったけど大した戦闘にはならなかったわよ。あなたとリリィが早々にポンコツ化したせいでどっちの軍も指揮が上がらなかったしね。負傷者は出たけれど、死者はなし。どちらともなく戦線を後退させて、一時間もせずに今の状況になったわ」
「ははは、まあ、その負傷者の大半がノワールの告白で起きた誤射のせいだけどな」
「……ふん、あの程度でうろたえるとは我が軍も練兵が足りなかったようだな」
「……突然告白してすぐにテンパって、あげく気絶したあんたがそれを言うの?」
ブランシュが飽きれたように言う。なのでノワールはちっちっち、と指を揺らす。違う、そうじゃない。と言って、軽く息を吸って。そこから、
「馬鹿め、私の場合は名誉の負傷だ。なにせあの緊迫した状況の中であれをやってのけたのだぞ? もう頭が真っ白になって心臓は爆発寸前だったのだ……うむ、というか見ていたかふたりとも? 私はちゃんと言えていただろうか? もしや、噛んだり声がひっくり返ってはいやしなかっただろうか? いや、それよりもちゃんと彼女に声は届いていたのだろうか――いやいや、そもそもあんな急に告白してしまったのだ。もしや彼女を驚かせてしまったのではないだろうか……そのせいで私の気持ちがきちんと、正しく伝わらなかった可能性が……だが、むしろそのほうがよかったのか? 実は私としても告白はこんな泥臭い場面ではなくもっとちゃんとした場所、しかるべき場所でしたいとは思っていたのだ。そう、出来ることなら海の見えるレストランなんかで……ふふふ、なにせ彼女は海老が好きだからな。あの好物をほうばっているときの顔はたまらないものがあるのだよ……ああっと、そうだ忘れてはいけないな。彼女は苺も好きゆえ、デザートだって食べさせてやらなければな。うむ、だとしたら告白はその後がいいだろう。む……だがそうなると夜景が美しい場所が必要だな。くくく、だとしたら帝都を一望できるいいスポットを私は知っているから問題ないがな……はっ!? だがそんな最高のシチュエーションで手ぶらというのは問題か? そうなれば数日前から花束を注文しておかなければならないな! うむうむ、これで完璧だ! しかし久しぶりに見たが彼女は少し痩せていたようにも思える。心配だ……いいや、それもだがやはりさっきの告白が心配だ。なあ、ふたりともさっきの告白は、その……おかしくはなかっただろうか? なにぶん女性に愛を説くという試みは初めてなのでな、彼女に、リリィベルに私の気持ちは伝わっただろうか? あれだけ可愛いリリィベルだ、私などに告白などされて迷惑に思っているのでは……しかし遠目であってもやはり彼女は可愛いな、うむ。リリィベルさんかわいい、可愛い、カワイイ――で、さっきの告白は成功するだろうか?」
息継ぎなし、ここまでを一気に言ってのけて。ノワールはブランシュとヴェルメイユに「どうだろうか?」と聞いてみる。が、しかし。
「……うーわあ」
「お、おおう……」
……なぜだろうか? どうしてか、ふたりの距離が遠くなっている。それどころか身を引けるだけ引いて、おまけに顔まで引きつらせている。そう、まるでこの世ならざる不気味なものでも見たような……?
いったい、どうしたのだ? と、そんなふたりにノワールは立ち上がり、手を伸ばそうとするが。
「……やばい、やばいわよヴェルメイユ。あいつ久しぶりにリリィの姿が見れてストッパー外れちゃってるわよ。しかも無自覚、あんなにしゃべったあいつ見たの初めてかもしんない」
「……そういえば随分長いことリリィちゃんに会えてなかったもんな。あれだけシリアスなこと言ってた矢先にいきなり告白したのも、無意識に乙女成分が貯められてたダムが崩壊して噴き出した……みたいな感じなんだろうな、きっと」
「……溜まってたのね。ああなる前に、せめて言ってくれたなら」
「……ブランシュ、泣くな、泣くんじゃない。せめて俺たちだけでも、不安定になってるノワールを支えてやらなければ」
「うん……そうね、そうだよね。壊れたからって、気持ち悪くたって、私たちだけは……ううっ」
なん、だろうか? なにかとんでもなく、失礼なことを言われてる気がしなくも無くて……おい、貴様ら! とノワールが声を上げた瞬間。ふたりはなぜか涙をこぼして立ち上がり、ゆっくりとテントの入り口へと歩いていって。
「……責めちゃって、ごめんねノワール。今日はもう、ゆっくり休んで」
「おやすみ、ノワール。いい夢を」
長い付き合いの中でも、たぶん、一番優しい笑顔でそう言って立ち去って――え? 問いただす暇も無く姿が見えなくなって。ただただ、ノワールは唖然として。
「……なんなのだ、おかしなやつらめ」
なんとも腑に落ちないまま、こうして初日の夜は過ぎてゆくのだった――。