これが、始まりなのです。
***
いきなりだが、ノワールは思う。
合縁奇縁、一蓮托生とはよく言うが。世の中意外な出会いもあれば、意図せぬ相手と親密になり、あるいは夢にも有り得ぬような数奇な関係の構築に成功したりすることがある。そしてそれは、誰にも予想などつかないものなのだろう、と。
まあ、それはもちろん、自分の場合なら捕虜として捕らえた少女に一目惚れしてしまったこともそうだし、遠い忘却の彼方に押し込んでいた幼い恋をした相手と戦争するハメになったり、と色々あるが。それでもノワールは数あるそんな奇妙な出会いと関係の中でも、誇張抜きに特に珍妙だと感じる関係があるのだ。
そしてその、相手はといえば。
「……うむ、ではノワール大佐。そちの上申、確かに受け取った」
「はっ! 恐悦であります!」
謁見の間にて膝を突き傅いたままで数段上の、紋章の刻まれた玉座より落ちるように聞こえた声は幼い少女のもの。「さあ、面を上げよ」その言葉に合わせて顔を上げ、見やれば巨大な窓より差し込む陽光に照らされて、綺麗に切り揃えられた白銀の如き輝く銀色の髪と翡翠を思わせるふたつの眼がこちらを微笑み混じりに見下ろす。その天頂には、黄金色の冠が眩く光り鎮座ましまし。
それらはこの巨大な国の、帝国という国家を統べる者のみが持ち得るもの。この帝国という国住むものが皆知る、呼吸するより尚当たり前過ぎる当たり前の事実。その冠も銀の髪も翠色の瞳もそのすべてが、紛れもない皇族の証、であるということで――そう、それはつまり。
「では、他の者は皆下がれ……余は、ノワール大佐に話があるゆえ」
「は、では皇帝陛下、なにかありましたらすぐにお呼びくださいませ」
「うむ」
その見目幼い少女こそがこの帝国の絶対の支配者、ユグドラ皇帝であり、なにより。
「……行ったか?」
「はい、全員外へ出たかと思います」
「うむうむ、そうかそうか……では――」
すっと立ち上がり、こちらへと歩み寄る姿さえにも光の粒子が舞っているかのような神々しさを携えたその、ノワールにとっては主君と呼ぶべきその少女との関係こそが、それこそが、なんといおうか。一言で言うならば、そう。
「――ふ、ふ、ふ、と―うっ!」
「ぬあっ!?」
ただっ広い謁見の間の中、ふたりきりになるや否やの全力ダッシュ、からのジャンピングしがみつき。ふふふふー、と甘える猫のように懐に顔を擦り付け、受け止めた反動で腰から落ちた姿勢のままその頭を撫でる、この関係――
「……相変わらず、おてんばが過ぎますよユグドラ姫様」
「言うな、命の恩人であるそちには甘えてもいい、というのが余の絶対のルールなのだ! つまり皇帝である余が決めたルールは、帝国のルールなのだ!」
「……ははは、とんだ暴君ですねそれは」
――世界で一番の、誰にも秘密の奇妙な関係なのであって。
そう、それは国を統べる幼き君主と、それに従う軍人の許されざる禁断の恋――な、わけはもちろんあるわけもなく。色恋沙汰とかそういうのではなくて、むしろ。
「あなたももう、今年で十四歳なのですからもう少ししっかりしていただかないと。先代皇帝、あなたのお父上が草葉の陰で泣かれますよ」
「案ずるなノワール! どうせ父上のことだ、余がなにをしようとも許してくれる! なにせ父は――その、なんと言ったかな? ほら、あれだ、そちが以前グレイッシュに例えた……」
「親バカ、ですか?」
「そう、それだ! 親バカだから大丈夫なのだ! それにどこぞの馬の骨にはこんな姿見せることはない、命を救ってくれた、言うなれば恩人であり兄のように慕うそちなればこそ、余も甘えられるのだからな! それならば父も許してくれるだろう、うん!」
どちらかといえば、兄と妹の関係性であって……いや、それでも相手は一国の君主なのだから、それでも十二分におかしな関係に変わりはない。
例え数年前、反帝国思想の組織による皇女誘拐事件が起きて、その際にユグドラを救ったのが自分だったとしても、その功績が認められユグドラ本人の推挙もあって大佐に昇進したとしても。果てはつい昨年ユグドラの父である先代皇帝が亡くなる直前に、自分に娘を頼むと言い残して亡くなったのだとしても――それでも自分たちがこんな関係だと誰が予想できるだろうか?
兄のように慕い、妹のように気にかける……けれど皇帝と大佐。主と従者。でも主従以上に兄妹のようであるなど、これを珍妙な関係、と呼ばずになんと呼ぶのか。
――と、それはともかくとして。
こうしてわざわざ悩み多く、ましてや戦争前だというのに城に赴いて、妹みたいな皇帝への謁見へと臨んだのはなにもそんな事実を確認するためでも、それこそ手触りのよい銀髪の髪を撫でて甘やかしてやるためではない。
そうでなくて、ノワールがユグドラに会いにきた理由はといえば。ポンポン、としがみついたユグドラの背をノワールは軽く叩いてやる。するとユグドラは「ん?」とわずかに離れて、真面目な顔を浮かべるノワールを見て、やれやれといった表情で膝の上に座って。
「……さて、姫様。そろそろ真面目なお話をしてもよろしいでしょうか?」
「ふーむ、なんだつまらん。久々に顔を見せたのだから、もう少し甘やかしてくれてもよいだろうに」
むー、と皇帝という身分らしからぬむくれた子供の顔。ぱたぱたと足を遊ばせて、「それでなんじゃ、改まって?」と顎の下から見上げるようにこちらを見てきて。ここからが、本題。
では、とノワールは眼鏡を押し上げて。
「……帝国に仇なす者には、守護を持って深く刃を突き立てよ。しかしてその刃を向けるは帝国の名の下なれば、何者であれ我等、誇りを高らかに宣誓せんと誓う」
「……うむ」
口にしたのは、帝国軍における矜持であり、戒めでもある言葉。そしてそれをノワールが口にした、その意味するところをユグドラは察したらしく。まっすぐに揃った前髪の下、ぱちり、ゆっくりと翠色の瞳を長い睫で伏せる。困ったように小さく、息を吐く。
「ならば皇帝としてそちに問う――それは守護か、あるいは帝国の名の下か」
「……帝国の名の下に」
一拍、間が空いて。
つまり、これは、このやり取りは。ノワールがここに来た、目的は。
「……戦争、か」
「はい、相手は反乱軍です」
戦争を仕掛ける、そのために。
ようは、殴られたら問答無用で殴り返せ。だがこちらから殴る時は、必ず「帝国のために殴るからな」と言ってから殴れ、ということで。そして、もうひとつ。この言葉には大事な意味があって。
「ですが……これは、私が仕掛ける戦争です。ゆえに姫様、この戦争は……」
「わかっておる、仕掛けられたのでないなら敵の生殺与奪に関しては帝国の名の下に刃を向けるそちに一任する。帝国軍としての誇りある限り、奪うも与えるも、救うも救わぬもそちの思うままにせよ」
「……はっ」
刃を向けられたのなら、一切の容赦はできない。だが、刃を向けたのがこちらからであるならば、敵であれ誇り高き帝国の名の下に容赦も救いも与えてよい、ということなのだ。誇りを失わぬために、と。それを知っていたからこそ、ノワールはこうしてその宣誓を行いにきている、というわけで。
つまり、つまり、つまり。
「……帝国では大佐以上の階級の者には戦争の自由があるというのに、わざわざ余に許可を貰いにくるとは。そちにしては、珍しいこともあるものだな。さては、敵に救いたい相手でもおるのか? このこのつんつん」
「……バレましたか。ですが、頬を突かないでいただきたい」
まあ、余はそちの妹だからな! ふふんっ――いや、あなたは妹ではなく妹みたいなものです、むしろ主です。とか言うと面倒そうなので、指で頬を突かれながらも反論はせず笑って誤魔化すとして。つまり、だ。
「ふーむ、しかしよっぽど先手を打たれたくないようだな。まあ、帝国としては攻められた以上、攻め滅ぼさなければいけないからのう。こればかりは余も簡単には覆せぬ初代皇帝の代からの、鉄の掟ゆえ」
「……存じていますよ。だからこそ、どちらかという答えが出ないまま、こうして保険だけはかけにきたのですから」
そういう、ことであって。
――どちらを選ぶとしても、選べるようにと。
殺したくない、なんて。
思ってしまったときのための、気弱な保険なのだから。
誰のためとは、言わないが。ノワールは、自傷気味に笑ってみせて。しかし内心、どこかほっとしたような安堵感。少し、気が緩んで。
「まあ、ともかくそちの願いはわかった! しかしならばこそ急いだほうがよいのではないか? 往々にして、事前に準備を周到にしたこういう時ほど、出遅れて足元を掬われるものだからな。例えばほれ、いきなりそこの扉が開いて、急報が舞い込んできたり……」
「ははは、笑えませんね」
笑いながらノワールは立ち上がり、ユグドラの小さな手を取って立ち上がらせようとした。
と、そのとき。
「し、失礼いたします! 陛下! 一大事であります!」
勢い良く開け放たれた扉、走りこんできたのは先ほど出て行った大臣のひとりで。ひどく慌てた様子で、恐らくは走ってきたのだろう。肩で息をしながら、汗まみれでノワールとユグドラのふたりを見ながら、息も絶え絶えに。
「急報です、その、あの……は、反乱軍が、我が国の通信施設を奪いました! そして、そこからこの城へと通信を送ってきて、そう、通信が入って、それが、あの、」
「ええい、なんだというのだ! 簡潔に申せ!」
一喝、とても十四歳の少女とは思えぬ威厳ある声に、びくり、大臣が震えて。そして、
「――せ、宣戦布告、です! 三日後、反乱軍の全武力を以って帝都を襲撃せん、と!」
「なん、だと……!?」
「こ、こちらをご覧に!」
慄くように驚いたノワールとユグドラに、大臣はさっと小さなディスプレイを差し出して。幾ばくかのノイズ、砂嵐の後に映し出された映像に、ノワールはぎょっとして。
「……リリィ、ベル」
「え?」
――なぜなら、そこに映っていたのは、黒く長い髪と青い瞳が印象的な……リリィベル。紛れもない君だったのだから。