そして、いま君にできることを。
***
――うつらうつらとしていた時、誰かに名前を、呼ばれた気がした。
けれど白ばんだ様な意識の中ではその声は残響の様に響くばかりで、誰の声色なのかは分からない。
(……誰でしょうか?)
まるで夢心地にも似た、どこかふわふわとした浮遊感の狭間を漂いながら。そう問いかけてみるも、声は出ない。いや、初めからもしかしたらこの口は動いてはいなかったかもしれない。あるいはそう問いかけたことさえも、誰かに呼ばれたことさえも。
それらさえ、真昼の夢であるかのような。どこか現実味の薄い、それでいて何かが抜け落ちるような、溶け消えるような――そんな感覚の連続、しばらくすればまた心地よい眠気にも似た衝動が込み上げて。
(……いま、なにを考えていたのでしょう?)
思考する力が、ゆるりと消えてゆく。けれどそれが怖いとか、恐ろしいとは感じない。むしろ母親に抱きしめてもらっているときのような、安心感と安堵感。あるいはゆりかごで揺らされて、子守唄を聞かされているときのような優しさに包まれて。
耳の端からはそれを助長するみたいにメトロノームのような、カッチ、カッチと――規則正しい音だけが響き渡り。
(……わたしは)
合わせるように、誘われるように、沈み込むように……意識が白濁してゆく。
(……わたし、は?)
弛緩したように、四肢から力が抜けてゆく。
(……誰?)
ゆっくりと脈打つリズムがスローになり、そうして心臓の鼓動さえもが、止まっていくような……白くて、白い、視界一面が白色に覆われていく。そして、
「……忘れなさい、そうして思い出しなさい」
――あなたのすべきことを。
また、誰かの声がして。
(……すべきこと?)
見上げた真っ白な世界に、一滴。
真っ黒な滴は、落ちてきて。
ぼんやりとした眼で、空から落ちたそれの行く末を追いかければ――ポトン、と。目の前、足元に落下して。
(黒……)
紙に垂らしたインクのように、じわ……と染み広がって。じわりじわりと、その黒色は真っ白な世界を塗り潰し始めて。それを黙って見つめていれば、あっという間に地平線の彼方まで広がって。また、声がして。
「それは、あなたが望んだ色だもの。わたしが望む、色だもの」
(……わたしが、でしょうか?)
「そう、あなたとわたしが選んだ色。あなたが染まる、わたしの好きな色」
――だから、ね? 優しい声は、すぐ耳元で。
「このままあなたは大好きな黒に染まりなさい。わたしに戻りなさい。そして、あなたはわたしとしてすべきことをしなさい」
規則正しい音の中、誰かの言葉が重なるたびに、世界に広がる黒が足元から染み込むように。
そうなのだと、それが正しいことなのだと。
役目を放った脳は自然とそれを、その声を受け入れて――
(……わたしは、なにをすればいいのでしょうか?)
――落ちゆく瞼の最後に、そう、問いかけて。
誰かの声を、答えを待って。
眠りに落ちる、その寸前に。
「……雪」
ぽつり、と。
閉じた瞼の裏側に、しんしんと降り始め。
「……炎」
けれど落ちた先に燃える炎に、瞬く間に消え失せて。
「……痛み」
……小さな少年が、いっぱいの涙を浮かべて手を伸ばす。だから知らずにこの手は、真っ赤に濡れた小さな手でその手を掴もうとして――あともう少し、もう指先が触れる、そこで。
『……私は貴様を愛さない、絶対にだ』
(……っつ)
空を切った指先。向けられた、鈍く光る銃身。さらり流れた、漆黒の髪、軍服。無価値なものを見下すような、その眼鏡の奥でギラリ光る、切れ長の瞳。
けれど見たこともない誰かが浮かべたその瞳を向けられることが、たまらなく、たまらなく、たまらなく。
(……嫌です!)
たまらなく、嫌で、嫌で嫌で、嫌でしかなくて。辛くて、苦しくて、胸が切り裂かれそうなほどの激痛に見舞われて。声にならない声で、大声で、泣き叫んで。
とっさにまた手を伸ばして、その痛みから逃れたくて、耐えれそうもない苦しみから救って欲しくて、だから、だから――
「……大丈夫よ」
――不意に伸ばされた、また違うその誰かの手を縋るように握り締めて。そして、何度も繰り返される「大丈夫」という甘い囁きに身を預ければ。
また、耳元から声がして。
「もう痛いのは、嫌でしょう? それはぜんぶぜんぶ、彼のせい。だから、リリィベル。あなたと彼で――」
――戦争をしましょう?
そんな言葉だけがやけにはっきりと耳に届きながら、また深い眠りに落ちてゆく。
――黒猫が、ニャアと鳴く。ひどく耳障りな鳴き声で、わたしは黒猫を蹴り飛ばす。