その名は誰のものですか?
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「結局あなたは、リリ――ううん、ダリアに恋をしたからリリィに恋をしたのか、リリィがリリィだったから恋をしたのか……どっちなのかしらね?」
「……ふむ?」
不意に投げられた質問に、顰めた眉根。タバコの空き箱握り潰し、しかし語り終えた疲労感に浸る間など、与えてはくれず。
結局はヴェルメイユと一緒に床に転がったままで思い出話を聞き終えたブランシュは、こちらを見上げながらそう言った。同時にぐう、とブランシュの腹の虫が鳴き。「あ、ごめ……」シリアスな雰囲気は台無し。だがそれも仕方なし、気づけば時刻はもう昼にかかろうかという辺りであった。
気づけば随分と、長話をしてしまったものだな……そう思いながら、おもむろにノワールは腰を上げて眼鏡を押し上げて。
「まあ、その答えは後にするとして。とりあえず昼食……いや、朝食も食べていなかったな。ともかく食事の準備をするとしよう。空腹では、頭も働かんというものだ。ゆえにほら、たまには貴様も手伝えブランシュ」
言いながら足元の真っ白な髪で結われた毛玉のような団子を突いてやる、がしかし。
「え、やだ」
その、見るからに嫌そうな顔。眉間に眉根を寄せて、突き出された下唇。誰がどう見ようが、紛れもない「NO」の表情にノワールは思わず頭を抱えて……どうやらこの妖精はさっきヴェルメイユとの情事について触れたことを、まだ根には持っているらしく。
つん、と背けられた顔に仕方なし、ノワールはぴっと指を差してみせ。
「……即答するんじゃない。ならば上官命令だ」
それならばと権力執行、してみるのだが。
「げー」
「げー……じゃない。貴様は本当に私の副官なのか……まったく」
ほら、貴様も手伝え駄犬、と。今度はつま先で転がる真紅の頭のつむじのあたり、蹴ってやれば「おう! 任せてくれ!」と無駄に元気のいい返事。そうしてどうやらさっきまでの羞恥からは復活できたらしいふたりが(やや一名はしぶしぶとだが)立ち上がる。
そうしてそのままヴェルメイユはブランシュを背負い、さあさあいざ調理場へ……と扉を抜けて歩き出したところで。ピタリ、ノワールは足を止めて。
「……む、すまないが少し用を思い出した。悪いがふたりで先に向かっていてくれ」
踵を返し、再び部屋の中へとカンバック。背を仰け反らせて開いた扉から顔だけ覗かせて、食器だけ用意してくれればいい、はやく行け馬鹿共、と。手でふたりを払ってみせる。すると当然、えー、なにそれー? サボりかノワール? なんてぶーたれたふたりの文句が飛んでくるものだから。
ふう……やれやれ、とノワールはそっと胸元に手を入れて。カチャリ。
「仕方ない……眉間を打ち抜かれて死ぬか、心臓を打ち抜かれて死ぬか、好きなほうを選べ」
いい笑顔、ずるり抜き出した鈍く光る銃身をふたりに向けて微笑んで。デットオアデット、さあどっち? 我侭な同僚と副官に慈悲の選択を与えることにすると、ふたりは、というかブランシュを背負ったヴェルメイユがズザッと後ずさりして。
「選ばないというのなら、三秒待ってやる。ひとーつ」
「……やっべ」
二歩、三歩、少しずつ後ろに下がっていって、
「ふた……はい三秒、撃つぞ」
「……走って、ヴェルメイユ! 風の如く!」
「任せろ!」
即効で終わらせたカウントと同時に、分かっていたのかと思うようなタイミング。一目散に駆けていって……ふん、阿呆が。ノワールは鼻を鳴らして、懐に銃をしまい込む。そして、つかつかと踵を鳴らして、
「あいつらが相手では人払いするのも、一苦労だなまったく」
本当は、用なんてなにもなかったデスクに戻り。どっかり乱暴に腰を落とし、そこに置かれた一枚の写真を手に取って。半眼開き、かざす様にして天井へと昇らせ見つめ、見つめてから。
「ちっ……懐古主義、のつもりはなかったのだがな」
鋭く、舌打ちひとつ。くしゃくしゃと前髪を散らして、苛立ったように写真をデスクへと放り戻して――こんな苛立ちはこの口から声に、言葉にして発してしまったせいなんだろうか? あるいは思い出してしまったからか? なんであれ、今自分はひどくイラついているのだけは間違いない。
そして、もうひとつ。そのデスクに放った写真が、頭の中の奥深くにしまい込まれていたその思い出ってやつが、遠く幼い日に焦がれた彼女のことが。
どうしようもなく、どうしたって――
「ふん……過去を美化したところで、現実が変わるはずもないだろうに」
――愛おしい、だなんて。
思ってしまっているのもまた、紛れようもなく、間違いようもないことであって。
鮮やかに甦った記憶と一緒に去来した、その想い、充足感幸福感、切なさともどかしさ……なによりも不甲斐なさ、だというのにそれらすべてを含み孕んだ、愛おしさと恋心。憎らしさの反転、好きだ、と感じる不可思議すぎるこの心模様。
そんなものばかりが頭を、胸を、心を覆い尽くして。自分のことだというのに、まるでなにがどうなっているのかさっぱり分かりはしない。
だからこそ、こうしてガラにもなく独りになりたいと思ってしまったり、先ほどのブランシュの投げてきた痛いところを突くような質問。それに対する答えを考えようと、自然とその選択をしてしまっている、というのが実情であって……いや、少し違うか。
そうでなくて、自分は、ノワールは今。
「……初恋は、誰のもの、か」
どうしてか忘れてしまっていた、あの割かし劇的で人生の中でもそうはないワンシーンを。もしかしたら無価値だと決めて忘れたのではなく、あまりにも重く、大切だったからこそ抱えきれずに忘れ去ろうとしていたその思い出というものを。
その、価値を。大切さを。尊さを。
もう遠くはないこの先に待つ、いざ戦争という舞台であのふたりに合間見えたそのときにちゃんと、正しい言葉を、答えを選べるようにと。優劣、でもないが。それを考え見つめなおそうと、思っていて……けれど、それはどちらにしても。
「……リリィベル」
呟くように呼んだ、愛する君の名前の曖昧さを、掻き立てるだけのことかも知れないのだけれど――。
――愛する君の名前は、変わらずひとつだけ。なのにふたつに割れた心の行く先は、誰が知る?