おしまい、という残酷を君に。
***
――春が訪れる前に、何度も重ねた逢瀬。その都度なにか特別なことがあったかといえば、しかしその実なにもなく。ただただ幼いふたりは他愛も無いやり取りをして、無邪気な愛を確かめ合い、幼さゆえの距離感をもって密になるための日々を重ねていった。
なんでもない会話、その繰り返し。
『あなたが、好きよ』
『僕も、君が好きだよ』
それが、それだけが幸せだったから。
……ああ、本当にこのひとが好きだなあ、なんて。
年端もいかない子供であった自分なりに、ひしひしと、けれど確かな感触と熱をもって。
「……ノワールがいれば、それだけで幸せだったのよ」
突飛も無く目の前に現れた小さな黒猫と共に流れる時間が、それだけで満たされて、幸福であって。なによりもそこには『愛』と呼ぶべきものが、形はなくとも存在していて……ただただ得てしまった不幸を嘆くだけではなく、掴んだこの幸せを噛み締めてもいいのだと、そうも思えてるようになっていて。
その結んだ小指が交わした約束が世界のすべてであるような、そんな錯覚に溺れてしまっていたのだろう……だから、だからあの日、あの黒猫と過ごした最後の夜に。きっと自分はほんの少しだけ油断してしまっていたのだ、と今は思う。
「……神様が寄越したこのギフトは、誰にも見せてはいけないと父は言っていたの。なにがあっても、どんなことがあっても、家族以外にその秘密の贈り物を見せてはいけないよ……ってね」
その父の言いつけは、まるで戒めのようであった。普段はなにをしても怒らず、甘やかすだけ甘やかしてくれた父が与える、たったひとつだけの不自由、あるいは束縛だった。
けれどもそれがどんな意味を持つのか、このときの自分はまだ知らなくて。なにより小さな黒猫と交わした約束と比べてしまえば、その父との約束などはあまりに軽くて……吹けば飛び去る羽毛のようなものでしかなくて。
だから、それを――
「……この昔話の終わりは、冬の終わりと一緒に訪れたの。身を凍らせる寒風も、降り注ぐ雪も消えた頃……優しいぬくもりを運ぶ春を迎えた、その日に」
――屋敷に訪れていたグレイッシュとノワールを狙った同じ帝国軍の対立勢力の部隊が押し入った、その日に……破ったのだった。だって、
「あの時の部隊の狙いは、明確だったわ。グレイッシュ将軍や父のいた寝室には脇目も振らずに、一直線にわたしとノワールがいた部屋に飛び込んできたもの。つまり、最初から狙いは将軍の子供であったノワールだったのね、きっと。人質にでもして、将軍を追いやろうとでもしたのね」
そうだというのに、あの小さな黒猫はなにを勘違いしたのだろうか? 狙われたのが自身ではなく、共にいた自分の……リリィベルのことだと思ったのだろう。そして、彼は。
『この子に手を出すな!』
踏み込んできた大勢の軍人たちに引くことも無く、果敢に、悠然と、リリィベルを庇うように立ちふさがってみせたのだ。それはまるで姫を守らんとするナイトのようだった。けれど、
「……でも、結局すぐにノワールは捕まっちゃったわ。当然よね、今の彼ならいざ知らず、あの頃の彼はまだ非力で小さな子供だったんだもの。簡単にあしらわれて、あっけなくボコボコにされてしまったわ」
小さなナイトは成す術も無く、数人の軍人たちによって捕らえられてしまった。だけど押さえつけられながらも必死に抵抗し、『リリィ! リリィ!』と叫んで、もがいて、暴れてみせて。へたり込み震えるだけの自分へ手を伸ばし続けてみせて。そうして。
『うるせえぞ、このガキ!』
『ぎゃっ!』
ひとりの軍人があまりにも暴れるノワールの頭に一撃、持っていた銃のグリップ部分で勢い良く殴打する。同時に、短い悲鳴がして『リリィ……』と弱々しい声。ずるり、伸ばされていた手ごとノワールの身体が糸の切れた人形みたいに落ちて――瞬間。
「――プツン、とね。なにかが頭の中で切れたような感覚がしたの」
それは恐怖が限界に達したからだったのか、あるいは大切な人を失うということへの怖れからだったのか、はたまたその両方が絡み合ったからなのかは知らないが。
「頭の中が、真っ白になったわ。でも、不思議と片隅では考えていたの。たとえ勘違いからだったとしても……彼は、約束を守ろうとしてくれたんだもの。一途に、迷いも無く、真っ直ぐに。だったらわたしが、そんな彼を黙って奪われるわけにはいかないでしょう? って。だからわたしは、」
小さく結んだ唇の下、震えて音を立てる歯を食いしばった。涙が零れ落ちる瞼を強引に手で払って、連れ去られそうになるノワールの後ろ、立ち上がり。
『……はな、せ』
『あん? なんだ、このガキ』
目的を達成したからか、屋敷に油をまきながらすべてを灰にして証拠を隠滅でもする準備にかかっていた軍人たちの、そのうちのひとりの手を掴んだ。そして、震えそうになる声で言いながら。ぐっと、きつく睨みつけてくる軍人の手首を――
『離せ! ノワールを離してよ!』
『……っつ!? ぎゃあああああっ!?』
――へし折った。
簡単に、飴細工でも折るみたいにして。ボキッ、と鈍い音がして。そしてちょうど火を放つ直前だったらしいその軍人の折れ曲がった手から、ライターが落ちて……染みのように伸びた油に添って、瞬く間に部屋の中に炎が広がって。
……そこから後はもう、守らなきゃ、と。慌てたように取り囲む軍人たちの中でそれだけが、頭の中で一杯になったのを覚えている。そして、そして。
「十数人いたうちの、七人目ぐらいを殺した後かしら? そいつの頭を殴り潰した時に、後ろから声がしたの。『リリィ』って。だから真っ赤になった手を引き抜いて、わたしは振り返ったの」
床に転がされていたままだった、意識を取り戻したらしい彼の声に振り返る。けれど――
『ノワー……』
『……この、バケモノがっ!』
――彼を見た瞬間に世界が、横転して。あれ……? と思うと同時に、そのまま床が顔へとせり上がってくる奇妙な感覚。ドッ、と首元に鈍痛と叩きつけられたみたいな感覚は頬にきて。身体の力が、すうっと抜けていって。
燃え盛る部屋の中、近く、なのに届きそうも無いくらい遠くに倒れる彼の顔だけが滲んだように見えていて。
『ノワール……』
『リリィ……』
小さな手を、必死に伸ばしあって。今にも落ちてしまいそうな瞼をなんとか持ち上げて。ずりずりと腹ばいに、動かない身体を引きずって、近寄ろうとして。
……でも、最後は。
『……っ!?』
焼け落ちた天井を支える木材、別つようにふたりの間。まるでカーテンコールのように、燃える炎が彼の姿を覆い隠してしまったところで――意識はブラックアウトして。
「……そのあとノワールは、駆けつけたグレイッシュ将軍に助けられ一命を取り留めた。そしてわたしは、帝国軍の連中に連れ去られ、あいつらの実験台になった……この昔話の結末は、そんなどうしようもない子供たちが味わった、どうしようもなかった悲劇なのよ」
そこで、この長々と話した昔話はお終いだ。めでたしめでたしじゃなく、おしまいおしまい、で終わってしまった。そんな、今在る悲劇に続くただの悲しいだけのプロローグだ。
そして、そこまで語り終えたところで。
「さて……どうしてこんな話を、あなたに聞かせたか分かるかしら?」
ダリアは静かに、思い出から目を上げる。見つめていた古ぼけたアルバムを、そっと閉じて。
「……う」
ダリアはくったりと、繋がれた鎖に両手を繋がれている人形を見る。反乱軍基地の地下にある、自分だけが知る秘密の牢の中。
そこで、落とした溜息ひとつ。ゆっくりと人形へと歩み寄り。
「……あなたは、誰なんですか?」
「それは、自分が誰かを問うのと同じよ」
「……?」
「……あなたはどうしてか、わたしの記憶をなにも持たない不良品」
自分と同じで、なのに自分と違う。
「なのに、わたしと彼の物語に入ってきて、そうして摩り替わるようにわたしからすべてを奪った」
自分が得られないものを、得てしまった自分。
「……不良品が代替品になるなんて、本物は許せるはずないじゃない。彼が恋したのは、わたしで。あなたじゃないのよ」
そんな、たまらなく憎らしいこの人形を、自分の後ろに立ち並ぶ他の人形と同じように。個もなく、ただ全であり唯一になったリリィベルと同じように――
「だから、ね……もうあなたも、わたしになりなさい」
――消してしまえば、彼はわたしを見てくれるのだろうか?