色褪せるものを、過去と呼ぶのです。
***
思えばこの女の行動は、いつだって矛盾だらけだった。それは、ひり付く様な空気が包む、この瞬間であっても変わることは無く。
「……撃たないのか?」
ノワールが静かにそう言ったのは彼女が、ダリアが自分のことを分からず屋、と叫んでからものの数秒のことだった。けれどその数秒ってやつは、殺すか殺されるかの瀬戸際に立ったような、こんな状況の中では無限に近しい時間と等しくて。
しかし彼女は、ダリアはきゅっと蕾の様に口を噤んだままなにかを言いたげな、そんな表情でこちらを見つめるばかりで。駆け引きのような時間だけが続き、待てど暮らせど引き金は引かれそうも無くて。
「……」
「……ふむ、だんまりか」
だがなにを思案しているかは知らないが石像でもあるまいし、固まっていても意味は無い。それにこちらは言いたいことはすべて言った。つまりもう、彼女は用済み。なればいつまでもこうして無意味に向かい合っているだけなど、
「……よし、なら死ね」
「ちょっ……わっ!?」
いられるはずもなく、パン! とノワールはあっさり引き金引いて響いた乾いた音。同時に流石というべき凄まじい反射神経、眉間を打ち抜くつもりだったのだが寸でのところでかわされて。チッ、と舌打ちすれば。
「……ば、ば、」
ぎろり、飛んできたのは鋭い視線。ぷるっぷると細い身体が小さく震えて、さっきまで萎んだようになっていた唇が「ば」の形にわなわなと波打って、
「なんだ?」
なんて、半笑い。ノワールが悪びれもせず訊いてやれば。ダリアは、
「ばっっっっっ――」
銃は構えたまま顔をわずかに俯けて、背中を小刻みに揺らし、目一杯の力を込めて溜めて、溜めて、溜めて――お、おお? と思わずノワールが見守ってしまうほどに溜めまくって、からの。
「――っっっっかじゃないの!?」
見開けるだけ見開いた、ちょっと潤んだ涙目をかっぴらいて牙むき出しにしてみせながらの語彙もへったくれも無い、そんな罵倒を飛ばしてくださって……そんな子供のようなダリアの反応に思わずノワールは、ああ、どうやら怒ったらしい。ご立腹だ、大変ご立腹だ。ふはははは、怒っているぞ。愉快愉快、と。つい笑ってしまえば。
「……んふっ」
と。
なぜだろう、瞬間ダリアが優しく、怖いくらいに優しく微笑んで――
「……っつ! 死ね! 死ね! 死ねえ!」
「お、おおおっ!?」
「死ぃねぇ――っ!」
――突然の、開戦だった。
どうやら自分はなにかいけないスイッチを踏み抜いたらしく、乱射、乱射、乱射。狙いもくそもない滅茶苦茶な射撃で、泣き叫ぶような声で死ねも連呼して。吹っ切れたみたいにマガジンの弾をすべて吐き出さんと何度も何度も撃ってきて。その狭い牢内に飛び交う銃弾からとっさに身を隠そうと、ノワールは瞬時に倒したテーブルの陰に滑り込んで。
……この、この、と。急に動いたせいでずれた眼鏡を直し、スライドを引きながら。
「……阿呆か、貴様は! 兆弾というものを知らんのか、この阿呆!」
お返しとばかり、大声で阿呆の連呼。アホじゃない、阿呆だ。この阿呆め! と銃声響く中地べたに尻から落ちた体勢で叫べば。
「うるさい、うるさい! 普通、あのタイミングで撃つ!? なんなのよ、なんなのよあなた!」
不意に止んだ銃撃。続けてガチャンッ、と何か硬いものが落ちる音。たぶん、空のマガジンが落ちる音、がして……やばいっ、と思うが更に続けて、ガシャッとなにかを嵌める様な音がして。
「なんでいっつも、いっつも、いっつも……ああもう、昔からあなたってそうなのよ!? こっちがどれだけ苦労したか、なんでわかんないのよ!?」
「うお、おおおっ!?」
再びの、乱射再開。しかも訳の分からない、もはや感情そのままの考えてすらもいないだろう。そんな無我夢中、といった感じの言葉をダリアは叫び続けて。もはや手がつけられない、反撃不能。ノワールは小さく頭を抱えて、テーブルの陰で丸まって。
そこからはもう、ノワールに出来ることなど響き続ける銃撃音の中で、ダリアの叫び声への返答だけで。
「だいたいなによ! あなた覚えてすらいないってどういうことよ!」
「な、なにがだこの阿呆女!」
「うるさい! なんのためにあんな過去をあなたに話したと思ってるのよ! どんな気持ちで言ったと思ってるのよ! どんな想いであの時あなたに会ったのか、なんのためにこんなドレスまで着てここに来たのかわかんないの!? なのにボロクソに言ってくれて、なにが愛せないよ! なんで、なんで、なんでよ!」
「し、知るか!」
「知りなさいよ! っていうか、思い出せ!」
「なんのことかもわからんのに、無茶を言うな!」
「無茶しろバカ! それになにっ? なんでわたしのことは思い出さないくせに、なんでわたしを思い出すようにって送ったあの子のことはあっさり好きになっちゃってるのよ!? 順番が違うじゃない!」
「っ……それは、リリィベルのことか!?」
名を叫んだそこで、カキン、と鳴ったのは弾切れで空ぶった撃鉄の音。その隙をついて、ノワールは少しだけ顔を覗かせて。
「……どういうことだ? いったい、なにを思い出せというのだ?」
訊いて、みれば。ダリアは、
「……あなたが軍人になっていて、この基地にいるって知ったから。わたしのことを思い出せるように、わざと捕まってあなたの前に届くように。そう思って一番ドンくさいあの子を基地に送ったのに……なのに、なんであなたはあの子を選んだの?」
銃を構える気力すら出し切ったのか、はあはあと細い肩で息をしてぶらり力が抜けた腕が宙に揺れる。綺麗に揃った金の粒子輝くような前髪が鼻にかかるほど深く俯いて。そんなことを、ぽつりぽつりと呟いていて。
そんなダリアから少し離れた位置でノワールは、そっとテーブルの陰から立ち上がり、静かに銃を構えて。
「……貴様、いったい――」
――なんなのだ、と。
依然、これだけ聞いてもまったく分からないダリアの伝えたいことが分からなくて。そう、訊いてみれば。俯いたせいで目元が隠れ、見えるのは口元だけ。そこだけで返されたのは、浮かんだのは。自嘲気味な薄い笑みだけ、で。そして、
「……あなたがさっき、言ったんじゃない。あの子は、わたしじゃない。わたしだけど、わたしなんかじゃない。わたしは、あなたに一番最初に出会ったのは……」
「……?」
「……恋を、したのは」
小さく、弱く、儚く脆く……崩れて消えてしまいそうなほどに、桜色の唇が震えた弱弱しい声で。
あなたに恋をしたのは、あなたが一目見て好きだと言ってくれたのは――
「……ッ!」
「わたしが、一番だったんだよ……?」
――わたしがあなたの、あなたがわたしの……初めての恋、なんだよ? と。
いつか見た大切な彼女のあの顔より、何倍も、何百倍も胸を切り裂くような。そう言って真っ白な頬を零れ伝った、透明な雫。転がり落ちた、その涙の意味を。ふわり、揺れた金色の長い髪と一緒に向けられた小さな背中を、見えなくなったその泣き顔の理由を。
「……もう、いいや」
「……ぬ」
……わかっていたならば、この口は、身体は。
「……でもどうせ、殺し合うんなら。せめてあなたが恋したのは、あの子だから? それともわたしだったから、なのかな? どっちなのか、知りたかったな」
殺すと決めたはずなのに、立ち去る女の背に手を伸ばすことも出来ず。こんな風に立ち尽くすだけじゃなく、ほんのわずかでも動いて、追いかけることができたのだろうか――?
――動悸は、激しく。それは君が、君だけがくれるものと同じものだった。