言葉は、時に凶器と同じなんです。
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なにか理由があったかと言われれば、特に無く。強いて言えば寝つきが悪く、なんとなく時間を持て余していたから。そして、なんとなく予感があったから、だった。そんな、時間は流れ深夜二時過ぎ。
「……こんな場所で、出会ったんだな」
別に感傷に浸りたいわけではなかったのだが、自然とその場所へとノワールの足は向かっていた。
そこは基地の遥か地下深く、長い階段を下った先にある特別な場所。錆びた極太の鉄格子、囲う苔生した石壁、頭上滴る泥水。最低で、最悪な場所で――しかしそれでも、そうであっても。そこはふたりが初めて出会った、君が目の前に現れた場所。何度と無く繰り返し繰り返し、訪れたこの場所に再びこの足は動いてしまっていて。
「ふん、我ながら最低な出会いというやつだな」
その牢の一角、片付けられることも無くそのままになっていたテーブルへと歩み寄る。そして汚れてしまっていた椅子の上を雑に手で払いながら、空席になった椅子と向かい合わせるようにどっかりと腰を落として。
そのままテーブルの上に肘を乗せて、頬杖ついて。
「……くくく、もう少しマシな出会い方もあるものだろうに」
自嘲気味に、またぽっかり空いた椅子を見つめて誰にでもなく呟いて。そして狭い牢内をしみじみと見渡し、たった独りのその窮屈な、しかし果てしなく広く感じる空間の中で。どこか可笑しそうに笑って。
目の前の影すら残らず、瞼の残影の中で揺れる金糸の髪と白い肌、青い瞳を――柔らかな笑顔と過ごした緩やかな時間ばかりを思い起こしながら。不意に萎んだようにきつくなった胸の痛みに、微笑み混じりに息を漏らして。
「殺すか、殺されるか。そんなモノを抱いて出会ったはずが、どこでどうしてこうなったのやら」
街角ですれ違ったわけでもなく、同じ学校に通っていたクラスメイトでもない。ましてや幼馴染でもなければ、同僚でもなく。隣人でもなければ家族でも友人でもない。そんななにかが芽生えるような優しい関係性を持って、出会えたわけではなくて。
……殺すか、殺されるか。そんな残酷で憎み合う敵同士として、出会ったのであって。
だとすれば、本来ならばその出会いの先にあったのはもっと違うふたりになっているはずなのだ、と……ノワールは、そこまで考えたところでそっと胸元から銃を取り出して、わずかに振り返って背後の鉄格子を挟んで口を開けた闇間に向けて。そう、例えばこんな風に。
「……こんばんは、黒猫さん」
「……こんばんは」
気配を察するなりどちらからでもなく銃を向け、顔を見るなり歪んだ笑みが張り付いた顔を突き合わせるのが自然なのだから。こんな、殺意蠢く張り詰めたような空気の中で泳ぐことが正しい姿なのだ、と。
ぬるり、闇の中から現れた金色の長い髪、青く輝く大きな瞳。その突然の来訪者に、しかしノワールは動じる素振りは見せず。むしろ予定通りと言わんばかり、待っていたかのように向けた銃身は逸らさぬまま立ち上がり。
「……ずっと待っていたのに遅かったじゃないか。来ないかと思ったぞ」
まるでデートに遅れてやってきた彼女を茶化すみたいにして、薄ら笑いを浮かべて肩を竦めてみせて――予感は、これだったから。今晩、この場所で。独りになれば必ず、彼女はやってくると思っていたからで。
なぜかといえば、それは。
「あなたがあんな馬鹿な真似をしなければ、やめさせるための言葉を考える時間分は無駄にしなかったのだけれど? ――どういうつもりなの、黒猫さん」
この通り彼女は必ずノワールを、いや戦争を止めに訪れるはずだと踏んでいたからで。
あんな安い挑発に激昂はしようとも、それでも一群の長である以上はだからといって易々と殺し合いの場に乗ってくるほど愚か者ではないことを、ノワールは知っていたからであって。いや、彼女の底にあるものが見えているからこそ、そこまで彼女を過小評価はしていない、のであって。
そして、ノワールはテーブルの下に置いてあった昼間読んでいたものと同じ、すでに昨日の日付になった新聞紙を取り上げて、それを彼女の足元にパサリ、投げ捨てて。
「……なに、これは招待状代わりのつもりだったのさ。探しても見つからぬとはいえ、こうすれば貴様は嫌でも私の前に来るだろうからな。くくく、会いたかったのさ、貴様に」
そう言ったノワールが投げ捨てた新聞紙を、彼女は警戒したまま拾い上げて。器用に片手で紙面を捲って内容を目で浚っていって……数秒そうした後に。ぎょっと目を見開いて。
「クローン研究についての記事が、ない!?」
それを知った瞬間の、すべてを気づいたときに浮かべるその、
「……まさ、か」
「く、くはははは……!」
その顔が、見たかったのであって。なにより、それ以上に。
「……っ、もしかして全部ブラフ、だったのかしら?」
「さて、どうだろうな? 私はただ、一部の地域にだけジョークを混ぜた新聞をばら撒いただけなのだがね。まあ、ちょっとした悪戯心というやつさ。くく、この事実は軍でも私と一部の者しか知らないがね」
「く……ひどい、男ね」
下唇噛み締めて、ニセモノの新聞を苛立ったように足元に投げ捨てた彼女を見つめながら。ノワールは顔を手で隠しながら、笑って見せて。
「ふはははは、褒め言葉だな」
「……あなた、きっと地獄に落ちるわよ」
「なに、彼女のおかげでそこに行くのは日常茶飯事さ」
「……狂ってる」
狂ってる、か。確かにな、と口元を吊り上げてみせて――だがそれもすべて、こうまでして、こうまでしてでも彼女に会う必要があったからで。そのために、ノワールは喜んで狂人に身を落とす覚悟はあって。
「こんな戦争になるかもしれない事態を引き起こしてまで……なんのために?」
「ふん、分からんか?」
「……分かりたくない、が正しいかしら」
「そうか……ならば教えてやろう!」
「……!?」
息が詰まるほどに重苦しい空気の一切合切を意にも介さず銃を下げ、背を向ける。そのあまりにも不意に見せた無防備な背中に、ビクッと彼女の身体が小さく跳ねて――そう、身構えるなよ? 不適な笑み、石壁にかけられた小さなランプの明かりに、眼鏡が光って。
そのままノワールは地下牢の片隅に事前に用意していた真っ白な布地が被せられた塊に手を伸ばし、その布を一息、まくり取って――翻る様にはためいたその下から現れたティーセットを、バン! と叩いてみせて。静かに、しかし丁寧に手を差し伸ばして。
「――さあ、席へ座るがいい」
「……なっ?」
驚いた顔まで、愛する彼女と瓜二つなもうひとりの彼女と久しぶりにこの大切な場所でお茶の時間を……いや、違うか。そうじゃなくて。
奪うと、争うと、決めた。それは変わらない、だから、だからこそ。ずっと考えて、考えて考えて、けれどどうあってもなにかしら彼女から奪う結果しか思い浮かばなくて。それが嫌で、だからまた考えて。そうして行き着いた果ては。
「貴様と私で……つまらないおしゃべりをしようじゃないか」
少しばかりあの彼女とは出来ない言葉を以っての戦争ってやつを、楽しもうと思っている。ただ、それだけなのだから。
――言葉は刃にも鈍器にも鉛の玉にもなれる。だったらそれを用いれば、たったふたりでも戦争と呼べるはずだろう?