愛に狂えば、すべてが獣に成り下がる。
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離れた手に、離した手に泣いて、蹴って殴って、喚いて、転がって。そして、好きだと認めて。そんな短い言葉ばかりで語ろうとも、割と劇的だったかもしれない一昼夜を越えた先。
陽光差す鏡の前で、しっかりと真っ白なシャツの襟元を正す。結んだ黒のネクタイの結び目を指で引き上げて、ピッシリと襟の内側へ収める。そして、翻すように黒の軍服を羽織り、さらり揺れる黒髪を押し込めるように軍帽をキュッと目深にかぶって。
「……ふん、情けないツラだな」
不意に目の端、鏡の中に映る情けない顔したそいつを見る。
そいつは眉を下げ、不安げに。唇を硬く結んで閉ざし、眼鏡の奥の泣きそうな目でこちらを見てくる。君のために、と博愛と自己犠牲を謳いながら。そんな言い訳をさも正論のように繰り返し。その実失くす事ばかり数えていた、自分が傷つくことばかり考えていた。そんな自己愛という鉄壁の盾を振りかざし、差し出された何もかもを跳ね除けて。
「そうして黙り込めば、救われると思ったのか?」
かけられた声にも、伸ばされた手にも、その優しさにも、悲しさにも、気持ちにも。なにひとつ汲み取らず、気づかず、応えず。盾の陰にじっと身を潜めて、苦しんでいるのは自分だけなんだと錯覚して。別れることが、正解なんだと。それが優しさだなどと、履き違えて。
「もし反対の立場ならば、彼女がどんな気持ちになるか考えなかったのか?」
一方的に押し付けて、拒絶して。
始まりから終わりまで、自分のことばかり。なにも見ようとはしなかった身勝手なそいつはそうやって彼女を傷つけた。彼女のためにとのたまっておきながら、彼女のことなんてこれっぽっちも考えちゃいなかった。そんな、愚か者がそこにはいる。
傷を負うことを、広がることを恐れて。だから傷つく前に、遠ざけた。それが結果で、結末で。それがなにかも分からずに、その気持ちがなんなのかも知らずに選んだ大馬鹿者。
そう……君が好きだと、傍に居ろと、そう言って手を握ることのできなかった、言い訳ばかりのそんな弱い昨日の自分はそこにいて。ずっと首を横に振っていて――『じゃあ、貴様ならどうするんだ?』なんて口を動かしたのが見えて。だからノワールは、
「……馬鹿め! 私を誰だと思っている!?」
すばやく取り出した銃の引き金を、躊躇うことなく言い切って引き絞る。鈍い銃声、残響。転がる薬莢、金属音――そして、鏡の中の自らの眉間を打ち抜いて、割れた鏡面に残る弾痕。パラパラと、音を立てて剥がれた破片に、映るのは。
「私は冷酷非情、冷徹怜悧にして偉大なる帝国軍の大佐にして……愛を知ったノワールだ! そんな私が、貴様のようにすべきことがわからないと思っているのか?」
くくく……そうだ、私は彼女に、と。呟きつつも歪に歪んだ笑みがべったりと張り付いた顔。絶対の自信に満ち溢れ、不遜さが滲み尊大な態度をありありと放つその姿は、まさにいつもの……いや、愛というスパイスのせいでいつも以上に狂ったノワールそのもので。そして、
「……ちょっと、なに朝からひとりでドンパチしてるのよ」
「おお、燃えてるな!」
扉を開けて入ってきたふたりに、ノワールは振り返りまた笑みを漏らす。そのまま顔を折れた指がまだ痛む右手で鷲掴みにして、くくく、くははははっ、と高揚感を抑え切れないといった風に声を上げて。これから自分がなにをしようとしているかを考えれば、不覚にも背筋がゾクリ、走り抜けて。
「……で、一晩考えたみたいだけれど、どうするか決めたの?」
「当然だ!」
そう、そうなのだ、決めたのだ。問いかけてきたブランシュに、バッと広げた手のひらを突き出して。昨日の今日で思い立ったが吉日とでも言わんばかりに、一直線に亜音速の速さでぶっちぎる勢いに、スパークしかける脳みそは答えをはじき出したのだ。
その、答えは――
「ふふふ、ふはははっ! もう一度、いや何度だって彼女を奪い、そして私は伝えなければならない!」
「うわ……テンションブチ上げのあなたって怖いから、あんま聞きたくないけれど、なにを?」
「ふん、愚問だな。もちろんそれは、」
「もちろんそれは……?」
「――愛の告白、だっ!」
――で、あって。だから、だからそのために、ノワールはこれから。
「そのためには、あの女が邪魔だ。反乱軍も邪魔だ。だがやつらが持っている薬なくしては成り立たない……ならば! すべきことはたったひとつだ! 殲滅、蹂躙、略奪、そのすべてを以って! さあ、行くぞ馬鹿者共。ここからは――」
――全面戦争だ! と、いうわけで。
悩んだ果てに君への告白のため、君が生きる道を作るために……ふたりが共に、在る為に。今度こそ、君のためだけにすべてを犠牲にしてでもノワールは。
ちょっと、戦争してこようと決めたのだった。
――それで君が喜ぶかは知らないが、もう止まらない、止まれない。愛を知ったところで、この方法以外を思いつくことは出来なかったのだから。