君に好きだと言いたいのです。
***
去った後の抜け殻に、それでもこの足は留まる事を選んでいた。どこにも行かず、どこにも行けず。その場所で。
崩れかけて傾いたベランダから見る雨上がりの夜空は、ひどく澄んでいて。頬撫で吹き抜ける風の柔らかさは、あんまりにも心地よくて、このまま目蓋を落とせばすぐにでも眠りに落ちてしまえるほどに優しかった。
「……所詮、こんなもんさ」
呟いたこの身を照らす月は、闇夜にじんわりおぼろげな明かりを落とす。その明かりに陰影深く浮かんだ木立の音はさわさわと、どこか密やかに。囁く様に。内緒の話でもするみたいに、真っ暗な黒に包まれて続く。
――そんな、静かな夜だった。たった独りの夜だったから。
「……ふん」
割れた手すりに背をもたれかけて不機嫌そうに鼻を鳴らして、胸ポケットをまさぐった。あるかどうかは知らないが、それでもあればいいな、と思って指を突っ込んで。クシャッ、と包み紙のような感触がして。
「……今日くらい、いいだろう」
人差し指と中指で、その包みから細い筒のような感触を挟み上げて。そのままするりと、そいつを引っ張り抜いて。ぱくり、挟んだままに口に咥えて。空いた手で、もう一度ポケットをまさぐって。しかし、
「……チッ、火が」
ない、と。そこで気がついて、今度は咥えたままズボンのポケットに両手を突っ込んで、どこかに入ってないものかと苛立ったように、乱暴に探していると……ボッ、と。目の前に、ゆらゆら揺れる小さなオレンジ色の明かりが灯って。
「ほら、火貸すよ……でもタバコ、やめたんじゃなかったのか?」
その弱くかすかな光に、大小ふたつの影が映りこんで。見れば、そこには。
「……もう、やめる必要もなくなったんでしょ」
いつの間に来たのか両手を組んだブランシュと、目の前にライターの火を差し出したヴェルメイユの姿があって。しかし特段驚くこともなく、黙ってその火元へと咥えたタバコを近づけて、軽く吸い込んで。
「……たまには、いいだろう。こんな夜くらい」
吹き上げて、手すりに両の肘を乗せる。ゆっくりと吐いた紫煙が宙を漂って、浮かぶ月を隠す雲のように薄く伸びて、そして消えてゆく。辺りに微か、匂いが広がって。
「……ま、そんな夜もあるよな」
寄りかかるノワールの左、ヴェルメイユが少しだけ笑みを浮かべて同じように立つ。そして、
「……私は、リリィと同じでこの匂いは好きじゃないけどね」
文句を言いながらもすぐ右に、同じくブランシュも立って。そうして綺麗に左から背の順に並んだ形になって、月夜をバックに三人はそれぞれに言葉を切って。
――咥えたタバコの煙を流し去るようにまた、風が吹き抜ける。吸い込んだ息に合わせて、ジジジッ……と真っ赤な塊がぼんやりと光を強める。燃え尽きようと、必死になるみたいに。燃え尽くせよと、叫ぶみたいに。
一際強く、空の星より尚も激しい光を放って。燃え尽きた灰が、ぽとりと落ちて。
「……私は、間違えたのか?」
そして、弱音も落ちて。深く吐いた煙は、また昇り、掻き消えていって。
「……傍にいろ、そう言うべきだったのか?」
呟くように漏れ出す言葉もまた、返答のないまま宙へと消えていくだけで。ふたりはなにも、答えてはくれなくて。それでも、
「……そうすればこんな胸の痛みも苦しみも、味わうことはなかったのか? あんなに悲しそうな顔を、見なくて済んだのか? あんなにも悲しそうな声で、さよならなんて言わせずに済んだのか?」
まるで沈黙が答えのように、それも責められているような気分になって。空を見上げるようにして、言い訳のような声と言葉が、徐々にトーンを上げて。
「だが薬がなければ、彼女は死ぬ。必ず死ぬ。それが分かっていて引き止める理由があるのか。引き止めていい理由があるのか? あるはずない、あるわけがない、あってたまるものか! 死ねば終わりだ、永遠に終わりだ、失うだけだ! だから私は、彼女の手を離した! 彼女を死なせたくないからだ! なのに、なんでこんなにもこの胸は痛む!? なんでこんなにも、失った気持ちばかりが大きくなるんだ!? なぜだ、なぜなんだ!? こんなにも悲しいのなら、いっそ、いっそ――」
ぐっと堪えるように顔を歪めて、燃えつきかけたタバコを握りつぶして。
「――私のために、死ねと言うのが正解だったのか!?」
答えろ、ブランシュ! ヴェルメイユ! ……咆哮のように響いた声は、叫びはしかし木霊を残して空へと吸い込まれていくばかりで。ふたりは瞼を落として、なにも言ってはくれなくて。
そんなふたりに、止め処ない苛立ちが噴き上げて。ぐしゃぐしゃと前髪を掻き散らして、唇を噛み締めて、拳をきつく握って、振り上げて――どこにもぶつけられない葛藤は、ぷるぷると行き場をなくして震えになって。やがて、力が抜けて、ぶらり落ちて。
「……なあ、私は知らないんだよ」
不意に、思い出すのは。
結局、どうしたって、どうしたって――
「私はリリィベルがいなくなった世界を、もう知ることが出来ないんだ。知りたいと思えないんだ」
――たった一人、彼女のことばかりで。
もう彼女のことだけが、自分の身体が、世界が動く基準になっているのだ。彼女がいなけりゃ、もうなにも見えないし、聞こえない。あるのはただただ、無限に続く、痛みばかりで。
失ったからこそ、失わなければならないことを知ったからこそ。より強く。
あのほんわかした笑顔が見れなければ、死んでしまう。あのゆったりとした声が聞けなければ、死んでしまう。自分と同じ色に染まった髪が、変わることなく輝く宝石のような青い瞳が、粉雪のように白い肌が、潤んだ果実のような桃色の唇が、甘い花のような香りが、そのすべてが、すべてが。
何一つ欠けたって、自分はきっと死んでしまう。そういう病に、自分はずっとずっとかかっていて。それはもう不治の病と呼ぶに相応しいくらいに重症で、重病で。患い、いや煩い続けるもので――こんなになってからやっと、やっと今ならばはっきりわかる、その病の名は。
「そうだ……私は一目見た時からずっと、彼女に、」
こ――言いかけた、瞬間。
「「恋する乙女か!」」
スパンッ! と両側から背中を叩かれて、「いぬあっ!」とシリアスに言おうとした決め台詞は中断。よたよたとよろけて、そのまま不意打ちにぺしゃり、崩れて。そんなノワールを見ながら、このふたりは。
「それに気づいたのに、好きだって言わないまんま諦めるつもりはないでしょノワール?」
「そんなに弱い男じゃ、ないよな?」
「ぬ……」
この、ふたりは。自分の心の琴線というか、刺激されると震える部分をよく知っていて。なにより、
「はー、でもやっと言ったよ気づいたよこの朴念仁様は。すごいよね、ここまで追い詰めないと、認めないんだからさ」
「ははは、ここに来る前には、『ノワールの泣き顔なんて、初めて見た……』なんて心配そうにしていたのにひどい言い草だな。しかも歩きながら『なにか、してあげなきゃ……』と呟いて柱にぶつかるぐらい心配していたんだから、素直に励ましてやればいいのに」
「おい駄犬、いまのソレは私のモノマネ? そのノワールの着ぐるみダンス並みに超絶低クオリティな裏声のソレが、私のつもりなの?」
「ああ、似てただろ? 『そうだ、もうこうなったら悩ませるだけ悩ませて、あの鈍感ニブチンに自分の気持ちを気づかせるしかないよ! そうだよ そうじゃなきゃ吹っ切れないでしょ!』……な?」
「訴えるわよあんた。次その裏声出したらもう口聞いてやんないから」
「……だったらもう、死ぬしかない」
「いや、極端すぎでしょ。ノワールじゃあるまいし」
好き勝手に言うだけ言って、ひとを散々ディスって、あげくすっころがった自分のことなどすでに眼中にはないご様子で……しかし、まあ、なんだ。そのおかげ、とは言わないが。
なんだか色々と、吹っ切れたというか、馬鹿馬鹿しくなったというか。ともかく沈んだ気持ちが、この残念なふたりの励まし? のようなものによって解消された、ような気がしなくもなくて。
――でも本当に。簡単な、ことだったのだ。そもそも悩むことなんて、なかったのだ。それを、知ることができた。だから、そのお礼に。
「ふ、ふふふ……ふははははは」
ゆらあ……っとノワールは久しぶりの高笑いをしながらじゃれあうふたりの背後で立ち上がる。そのままゆっくりと振り返り、胸元に手を突っ込んで。
「……おい、この紅白馬鹿共」
「……へ?」
ガチャリ、構えた銃身は重なったふたりのど真ん中。狙いを定めて、引き金に不恰好な包帯が巻かれた指をかけて。
「――おかげで吹っ切れた。これはその感謝の印だ。さあ、」
「げっ! やばっ!」
「まずいぞ、ノワール目がマジだ!」
「たらふく喰らえぇぇぇ!」
響く銃声、一発一発に照れくさくて言えない「ありがとう」を込めて。弾倉が空になるまで、月夜にその音は響き続けて。そして、撃ちながら思うのは、なによりも。
――少しだけ、難しく考えることをやめようと、ノワールは思った。だって。
「……好きなのだ、ならそれだけでいいはずだろう?」
一緒にいたいと、ただそれだけを願うこと。
どこかの誰かのように、悲劇に浸るだけでなくて。
もう少しだけ、単純に、簡単に、純粋に。
――君が好きだから、と。
それを知ってはち切れそうになるほど膨らんだ感情と、溢れ返るほどの衝動のままに動いたっていいのだと。生まれて初めて恋を知った男の純情という名の原動力、そのままに。
「ふははははははっ!」
「ぎゃああああっ!」
今はただ、その感情のままに撃ち続けるのみなのだ。
――世界は、まだ知らない。恋を知らなかった男が恋を知った時の恐ろしさを。まだ、知らない。