君が君で、君溢れる。
***
――ノワールが指を折られ、リリィベルの母親に詰め寄られたのと同刻。屋敷外周の雨降りしきる森の中。生い茂る木々の内の一本、ちょうど大人ふたりは容易に身を隠せる大木、その木陰にて。
「……あれって」
「ん? どうしたんだブランシュ中尉」
傍観者でいられた時間の終わりは、ちょうど薬と一緒に買ったチョコレートが最後の一粒になった辺り。さして美味しくはなかったそのチョコレートを自分で食べたくないがために、ブランシュが餌付けのようにヴェルメイユの口に放り込んでいたときのこと。
それは何気なく屋敷を取り囲む反乱軍の動向を、目深に被ったグレーのレインコートの集団に目を向けたとき――ブランシュがその異変というか違和感に気づいたのは、本当にたまたま、偶然だったのだけれど。
「え……!?」
「ぐあっ!」
動揺、激しく。思わず立ち上がりかけて、雨よけのように上に覆いかぶさっていたヴェルメイユの顎先に思い切り頭がぶつかって「いったい!」声が出て。しかし、そんなことを気にしてる場合ではないと、同じく痛がるヴェルメイユを「邪魔!」「わん!」押しのけて――再確認、しなきゃ、と。危険承知で身を乗り出して。
先ほどちらり、見えてしまったフードの中。それは見間違いなんて言葉で見逃すには、あまりにも、あまりにも。あまりにも、
「……うそ」
としか、言えないくらい。あんまりにも、信じられないものだったから。
でもそれでも、まさか、という思いはあって。もう一度赤い瞳を爛々と光らせよく目を凝らして煙る雨の奥を見た瞬間に、間違いないと気づいた瞬間に。ブランシュはそれ以上の言葉を失った。見開いた両弁は、釘付けになったように離れない。もう、この目はそれを、その相手を認識してしまっているのだから。
……そう、見間違いでもなんでもない。見間違うはずなどありはしない。だって、そこにいたのは確かに、
「……リリィ?」
呟いた名、恋敵、だった少女。フードから毀れた金糸のように美しい髪。暗がりに浮かぶ青い瞳。それは今頃は高熱にうなされてどこかの黒い眼鏡と一緒に屋敷にいるはずの……リリィベル、だったのだから。そして、そこに彼女が立っているという事実以上に、ブランシュが驚いた――いや違う、慄いたのはなによりも、なによりも。
「おいおいおい……冗談、だろ?」
「……ふひっ、やっばいでしょ……こんなの。なんでリリィが――」
――いっぱい、いるのよ? 馬鹿げた、けれど馬鹿みたいなそんな目の前の光景で。
霞むほど強い雨脚に打たれて濡れるレインコートの集団、屋敷を囲むように並ぶそのすべてが。皆、すべて、あの今は失われた金色の髪と青い瞳をしたリリィベルという名の少女とまったく同じ顔と姿、だということで……あまりに異様で異質な光景は、知れば恐怖からブランシュの背筋に、ゾクリ、嫌な寒気を走り抜けさせて。
同じ、同じ、同じ、同じ、どこをどれを見たって繰り返すのは不動のたったひとりの姿ばかりで。心臓が、暴れ馬みたいに跳ね回って。痛いくらいに、跳ね続けて。
「ブランシュ中尉、俺は、狂ったのかもしれない」
「……ふひ、奇遇ね、どうやら私も、そうみたい。あ……でも、大変……ノワール、ピンチじゃん、やばいじゃない。こんなの、こんなのさ、おかしいよ、変だもの、助けなきゃ、リリィがさ、いっぱいいるって、教えなきゃ……」
「お、おい!」
よろけたのは、身体の力が抜けたから。そのまま膝から折れて、水でぬかるんだ地面に落ちる。なにをするでもなく無意味に、しかし動かそうと無理に脳が命令を送るせいで惑う瞳は、手は、ふらふらと彷徨うように宙を掻いてはする抜けるばかりで。やがて、頭も心も目の前の光景にぐしゃぐしゃで、どうにもならなくなって。
「……どうしよぉ」
情けなく、呟いて。
思わずがっしりと自分で自分を抱きしめて、ブルッと、底からこみ上げるような堪えがたい震えを押さえ込んで。ふひっ……と、笑いたくもない笑いがどんどんこみ上げて。でも怖くて、とにかく怖くて。言葉にしようもない、言い知れぬ恐怖が全身に伝播して……あ、コレ、やばい……震え続けるままにぼろっと、涙が出そうになった瞬間。
――ぎゅっ、と。
「……ブランシュ中尉、落ち着け」
「……あ」
大きくて、ごつごつとしたふたつの手が身体を抱き締めるその手に重ねられて。え……? と包んだその温かさに驚き振り返ろうとすれば、コツン! と止めるように頭にソフトな衝撃がきて。
それが、さっき思い切りぶつけたヴェルメイユの顎なのだとわかったとき。頭の上で、ふうううう……と深く吐いた息の音がして、ちょっとだけ顔を上げてみれば。
「大丈夫だ、ブランシュ」
雨の中でも輝く、太陽みたいな明るい笑顔がそこにはあって。
「……大丈夫、俺がなんとかするから。だから君は、俺がどうすればいいか考えてくれるだけでいい」
俺は、馬鹿だから。でも君が考えたことなら、どんなことでも俺が叶えてみせるから。なんて。
「だからノワールとリリィちゃんは、俺と君で救おうブランシュ。大丈夫、ふたりなら出来るさ」
少しだけ、気取ったような声。でも揺らぎのない、確かで頼りになる声がして……ドキッと。またブランシュの心臓が跳ね上がって。
けれどそれは、さっきとは違う。痛みのない、どこか圧迫されるような、それでいて心地よさが溢れるみたいな不思議な鼓動がして――うん、と。どうしてだろう、瞼が落ちてその手を握り返して。
「……むかつくなあ、ちょっといま、安心したかも」
「え、むかついたのか?」
困ったような声が、頭の上に響いて。でも少しだけ、なにか和らぐような気持ちがして……ああ、この気持ちはよく知っている。この気持ちは、きっと、きっと。
「……本当にむかつくなあ、吊り橋効果なんて、ただの思い込みだと思ってたのに。っていうかまさかこうも自分がちょろいと思わなかった」
「な、なんの話だ?」
ん? さーてね? くくく、と笑って。ブランシュは小さく息を吐いて。雨音に交じるトクトクと相変わらず跳ね続ける心臓の音に耳を傾けながら。ボフッと一段高いヴェルメイユの胸元に預けるように頭を後ろから埋めて、ぱくり、美味しくない最後のチョコレートを頬張って。そして呟くのだ。それは、
「……ね、ヴェルメイユ」
「なんだ、ブランシュ」
目の前の異様で異質で恐ろしさすら感じる光景の中でさえ、言いたいことは、たったひとつ。
「……ノワールとリリィを助けたら、その後にさ」
「う、うん?」
私は、君に――
「……呼び捨てにした回数分、料金請求するから。とりあえず、三回分」
「……え!?」
「ちなみに、一回につきあなたの人生丸ごとぜんぶでぴったりだから」
「ええ!? ……って、ん? つまり、それは?」
「よかったわね、あなたの死ぬまでと来世二回分をもらってあげることにしたから。さあ、ってことでここは危険だし離れて作戦立てましょ。ほら、背中乗せて!」
「あ、ああ……?」
『――誰か、そこにいるのですか?』
「やば、気づかれたっぽい! ハリーハリーハリー、さあさあリリィ軍団に見つかる前にまたふたりで尻尾巻いて退散するわよ。いきなさい、ヴェルメイユ。返事は?」
「わ、わん!」
「ふひひっ」
――もう少し、素直になってやらないこともない、かもしれないのだ。だからいまは、とにかく退散するだけなのだ。
――吊り橋効果ってやつは、本物だった。そしてそれは同時に、その光景が本物の恐怖だったことの証左でもある。