秘密なんです。
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カーテンコールの合間、時間は少々遡る。そしてその戻りえぬ時間こそが、失った、失うことへの起因に他ならない。これはもう戻らない、そんな一幕の話。
――屋敷に逃げ込み隠れ住んでから、数週間が経った頃。それは、ひどい雨の日。あまりにも突然のことだった。
「……熱が、下がらないな」
呟き落とした視線は、寝室で。ゆうに大人ふたりは横になれる大きなベットに横たわる、数日前から急に体調を崩し寝込んでしまった赤ら顔のリリィベルを見つめながら。
ノワールは、手に持った体温計に顔を歪めるばかりで……どうやら風邪、らしかった。出会ってからなら二度目のそれに、苦しむ彼女の手を軽く握る。
「すみません大佐さん……げほっ、げほっ」
「無理に話さなくていい。いまはともかく、ゆっくり眠っていなさい」
うっすら目蓋を上げながらこちらを見て力なく握り返しながら身を起こし、ノワールに気づき声を出そうとして苦しげに咳き込むリリィベル。優しく言いながらもその前後に弾む体をそっと支えて、また柔らかなベットへと戻してやりつつも、ノワールの表情はしかし以前、険しいままで。
そんな表情を悟ってか窓を叩く雨音は、釣られる様に激しさを増してゆき。吹き荒れる風は、屋敷の周囲の木々を容赦なく揺らし軋む様な音も一層大きくなってゆく。その音に耳を傾けながらも傍にあった木製のチェアに座りながら、静かにノワールはリリィベルを見つめ続け。
「……ごめんなさい」
「なぜ謝るんだ。君は、なにも悪くない」
「……でもわたし、またご迷惑を」
閉じかけの目蓋の奥、宝石のような青い瞳が揺れる。薄く濡れたそれが、透明な雫を零す予感。ノワールは、そうなる前にそっと目蓋へ手を伸ばし、その幕を指先で閉じてやって。
「……ふん。何度も言わせないでくれ、君が迷惑をかけたことなど一度だってないさ。いいから、いまは眠りなさい」
「……はい、あの、でも」
言いかけた言葉は、聞かずとも。
「心配は、不要だよ。私はずっと、ここにいるから。だから、おやすみ」
「……おやすみなさい」
言い終える前に、安心を分け与えるように何度かその黒髪を撫でてやり。ふっと緩んだリリィベルの顔に、やっとノワールもまたかすかに笑みを漏らして。しかし、
「……なぜだ」
……なぜ、どうして、こうなった? 彼女の再び落ちた目蓋に、辛そうながらも響いた寝息に。安堵しながらも、ノワールは胸中に渦巻く嫌悪感にまた眉をしかめる。どうして自分がいながら、再び彼女は苦しんでいるんだ、と。
それは前回彼女が、リリィベルが風邪をこじらせたときにも思ったことだった。
「……日々の食事の栄養管理も、普段過ごすこの屋敷の室温から湿度。周囲の衛生面も殺菌すら含めて、私に抜かりなどなかったはずだ。彼女が体調を崩す要因など、何一つ存在を許しなどしてはいなかった」
そう、完全で完璧、だったはずだ。ノワールはリリィベルの身体を、すべての外敵から守りきれているはずだったのだ。
さながら絶滅危惧種を保護するかの如く、だ。ブランシュやヴェルメイユが「なんか、健康にうるさいお母さんみたい」なんて笑うぐらい、甘やかし。過保護に過保護を重ねていたはずなのだ。
なのに、それなのに……彼女は再びこうして、体調を崩してしまっている。それも前回よりずっとひどく、だ。高熱はすでに、三日以上続いている。だが今は薬が効いたのか、数日前よりかは幾分マシ、だが。それでも快復の兆しはなく、苦しんでいることに変わりなどなく。
わかっていることは、そんな自分の不甲斐なさと、屋敷の薬ではもうどうにもならない、ということだけで。
「……くそっ、しかし遅いな。どれだけ待たせるつもりだ」
だがわかっているからこそ、苛立ちばかりが募っていく。その矛先は主にいまは、急遽街に薬を買いに行かせた紅白ふたりへと向けられていて。屋敷の常設の薬よりも、きちんと症状に合わせた薬を飲ませれば少しは彼女を苦しみから救ってやれるはずだから……だからはやく、はやくと。
しきりに雨が降り続く窓の外を見ながら考えていた、そのときだった。
「……げほっ、げほげほげほっ、げほっ!」
「……!」
跳ね上がるように、リリィベルがベットの上で激しく咳き込む。見れば今までにない、苦悶の表情。慌ててノワールは座っていた椅子を蹴り飛ばし、駆け寄って身を起こしてやれば、そこには。
「……あ」
「ッッッ!?」
口元を押さえていた白く小さな手のひらいっぱいに、広がるは真っ赤な鮮血。潤んだ口元からも、一筋それは流れ落ちていて――目を見開けるだけ見開いて、絶句、した。声も出せずに、ノワールは目に入ったそれにギシッ、と固まって。
「……あれ?」
「……ッ! お、おい!」
グラリ、リリィベルの身体から力が抜ける。ぐったりと、頭の重さが重力に引かれるように前へ落ちて。ノワールの支えだけがすべてで、糸の切れた人形のように動かなくなって。
「あ、う……ぐ」
その姿に頭の中が真っ白になりかけて。思考が、追いつかなくて。停止寸前まで、瞬時に追い詰められて。離せば落ちるリリィベルの背に回した手が、ぶるり、大きく震えて。
「……ブ、」
それでも咄嗟に搾り出すように、喉の奥からひねり出せたのは。
「ブランシュ! ヴェルメイユ! まだか、まだ帰ってないのか!」
リリィベルが、リリィベルがっ! それは生まれて初めての、恐怖だった。震わせた誰かに助けを乞う叫び。ぷっつりと途切れたように動かないリリィベルを抱えながら、動くことも出来ずにノワールは叫び続ける。
そして、どうすればいい、どうすればどうすればどうすれば……? 滅茶苦茶になった頭で、なおも叫び続ければ、雨音に紛れて来客を知らせる屋敷のドアの鐘の音が耳に届く。ガランゴロン、と鈍い音。
福音にすら聞こえたそれに気づくや否や、もっと大声でノワールは叫ぶ。すると急くような足音が近づく。はやく、はやく、はやく! 動けぬままに呼び続ければ、寝室のドアを開けたのは。
「……あーあ、やっぱりね」
「!?」
……紅白、どちらでもなく。さらりなびいたのは、長い金色の美しい髪、で。叫ぶことすら出来なくなり、瞳を激しく揺らしながら、ノワールはそいつを見やって。ぎゅっと、守るように動かなくなったリリィベルを抱きしめながら。
「なぜ、」
驚き、問う。なぜならそこにいたのは。
「貴様がここにいる……」
「あら、ご挨拶。そりゃ母ですから」
見慣れた誰かの笑みと、まったく同じ笑い方。それは抱えた大切な君の――母親に他ならなかったから。
――必死に誰かを呼んだのは、間違いない。それが期待通りにならないとも、知らずにだったが。