嬉しいけど、だめなんです。
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穏やかな時間が戻るほどに、噛み締めることもある。
それは幾千幾万幾億の戦場が、この大陸にはひしめいて止まない。止むことが、ないということだ。
朝日が昇れば、どこかで誰かが泣き叫ぶ。夕暮れ時に沈む橙が地平に落ちれば、どこかで誰かが何かを失う。そして夜闇が暗幕を下ろし月光だけが照らす頃には、数え切れぬ命が空へと昇り消えゆき――そういう世界なのだ、どうしたって。
剣であれ、銃であれ、大砲であれ、なんなら食事をするためのフォーク一本でも構わない。そこに誰かを傷つけようとせん鋭利な意識がひとつでもあれば、どんなものでも誰かが誰かを傷つける。傷つけられた者はまた、誰かを憎み、そうして鋭く尖った意識を、その切っ先を誰かに向けて。
けれどきっかけは、多分些細なものだったのだろう。帝国が先か、隣国が先か、反乱軍が先か、あるいはもっと他の誰かか。ともかく誰が始めたかは知らないが、きっかけはきっととんでもなくくだらないことだったに違いはない……だが、そうして始まったのが、今現在であって。
理由などなんであれ、なんであろうとも。
一度始まってしまえばすべてが関係なく際限なく戦い、争う。知らぬ間に巻き込まれ、その繰り返し。それが戦争というもので。
そして残念なことに、それがこの世界の『当たり前の日常』というやつで。子供も大人も男も女も、それらぜんぶが果ては敵と味方、たったふたつにしか分類されやしない。それが足掻いたところでどうすることもできない、純然たる事実であって――だが、それでも。
「……私的奴隷、でしょうか」
「そうだ。だからそんな世界の中であっても……いや、そんな世界の中だからこそ、と言うべきか。やり方はどうあれ君はすでに、私のものなのだよ。伝えるのが、随分と遅くなってしまったがな」
敵同士でしかなかった者が、敵同士でなくなることもまた、嘘偽りない世界の事実であって。
「……では、わたしはもう大佐さんのものなのですか?」
「……そういうことだ」
夜、広間のソファにて。ノワールはそこに座った小さな体の背後に立ち、手に持ったブラシでリリィベルの長い黒髪を撫でる様に梳き落としながら頷いた。
ちなみに今日到着した騒がしい馬鹿ふたりは、長旅で疲れたのかはたまた夕食で四人の生還祝いと称して浴びるように飲んだワインが利いたのかは知らないが。ともかく早々に仲良く向かい合わせ、反対側のソファで重なって眠っていて。
……だから、でもないが。ノワールは戻ったこの世界から見れば非日常でしかない日常が回り始める前夜の、この瞬間に。
「少し、驚きました……」
「そう、だろうな。突然のようになってしまって、すまない。だがどうしても君に、きちんと言葉にして伝えておきたかったのだ」
いつか、いつかと後回しになっていたこの事実を彼女に、リリィベルに伝えようと決めたのであって。しかしうまい切り出し方が思いつかず、そのための先ほどの長々とした講釈であった、というわけで。
そして、それに対するリリィベルの答えは、といえば。
「……なにか、変わるのでしょうか?」
これ、であって……思わずノワールは、汚いやり方だとか、そんなことは望んでいません! みたいな台詞が飛んでくるかもと身構えていた体をガクリ、大きくよろけさせて。
「あ、あっさりと受け入れるのだな、君は……」
嬉しいやらほっとした反面、拍子抜けなほど素直に受け入れてくれたリリィベルに少しだけ心配になってしまって――ちゃんと意味を、理解しているのだろうか? なんて思ってしまって。
だって言い換えればこれは、戦時という現状を利用したかなり強制的で一方的な拘束でしかないのだから。いや、捕虜であることもそうなのだが、それ以上の拘束になったとでも呼ぶべきことなのだが……そこのところ、どうなのだろうか? 本当に、わかって、
「どう、違うのでしょうか?」
いない、ようなので。教えてください大佐さん、と言わんばかりに小首傾げて疑問符浮かべるリリィベルに、ノワールは「こほん」と咳払いひとつ。仕方なし説明してあげることにして。
「い、いや、なんだ。捕虜との違いといえば……そうだな、例えば私が君に慰みを強要することも可能になった、ということだな」
「慰み、でしょうか?」
「ん、んん、ああ、そうだ」
慰み、それはつまり、まあ、アレだ。夜のお楽しみ、的なものだと思ってくれればいい――言い淀みながらも、ノワールは膨らみ始めた妄想を必死に押さえ込む。なんかこう、ピンク色の口にはできないことが脳内を駆け巡り始めて……いけない、堪えろ我が理性! 冷静を装う、が。
「……例えば、どんなことをすればいいのでしょうか?」
「どんなこと!?」
どうやらきちんと口にしなければ、リリィベルはうまく理解できそうにないらしく――え、口にしなきゃだめなのか? この溢れる脳内でのあれやこれやを、ぜんぶ? 事細かに? なんて罰ゲームだこれは。ノワールの額から、滝のように汗が噴出して。しかも、
「言ってくだされば、大佐さんのしたいこと……わたしはなんでもしてあげたいです」
「なんでも!?」
無自覚ゆえのまたそんな妄想捗るようなことを、振り返りながらも蕩けそうな照れ顔で言ってきて……ど、ど、ど、ど、どうする、ノワール! どこまでなら、オッケーなのだろうか……!?
奴隷にしたのだから、どこまででもオッケーなはずなのだが、なぜかどこまでならしてもいいかを手をワキワキ動かしながら考えて。そして、そして悩んだ挙句、ノワールがとった行動は。
「く、くくく、では慰め方というものを教えてやろう。さあ、楽しむとしようか……」
「……んっ」
リリィベルから甲高い声が、漏れる。そう、伸ばした手で、そっと触れたのは。
「み、耳は、だめ……です……んうっ」
「ふはははは、君の弱点は知っているのだよ! だが嫌がってももう遅いぞ!」
背後からこう、耳を指先でふにふにっと。揉むように挟み込んで動かして――これが、限界だった。これ以上はもう、自分の精神が爆発しそうなので出来なくて……だが、だがこれはなんとも。ふにふにふに、と指先を動かしながら、ノワールは。
「く、くすぐったいれす」
「ふむ……」
捩るように動きながらも「んうー……」と声を殺して。それでも決して逃げようとはせず耐えるリリィベルの姿に、得も言えぬ感覚が去来してきて。もんどりうつ様な、恥ずかしそうにして耐え続けるその表情が、たまらなく、たまらなく。
「……これは、いいものだ! 毎晩頼む!」
「ふえっ?」
悪いことをしているような、それでいてたまらない支配感であって。だ、だめです、と涙を浮かべるリリィベルの耳をさらに攻め立てて「ふあははははっ! これが捕虜と奴隷の違いというものだ!」歓喜の高笑いを上げて――だが、ノワールは気づいていなかった。
「……平和ねえ」
「ああ、平和だな」
「こんな奴隷ばっかりなら、世界から戦争もなくなるんでしょうねえ」
「違いない!」
そんな様子を、その高笑いで目覚めたらしい酔っ払いふたりが見ていたことを。そして翌日、そのことで散々めったらからかわれることになることを。
……ご機嫌で、ハイになったノワールは、気づかないまま夜は更けてゆくのだった。
――どんな世の中だって、物事の楽しみ方というやつだけは、個人の趣味思考でしか語れないものだ。